アルジェリアの歴史
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アルジェリアの歴史を記述する。
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[編集] 古代から
この地には、紀元前にフェニキア人が海岸部に移住し、内陸部にはベルベル人が生活していた。
紀元前5世紀になるとカルタゴの支配地域となり、ヌミディアと呼ばれるようになった。紀元前3世紀にカルタゴとローマとの間でポエニ戦争が起きるとこの地はマッシサニによってヌミディア王国を建国した。ヌミディア王国はローマに味方し勢力をエジプト周辺まで伸ばすが、ローマの属州になった。
ローマの支配下では「穀倉庫」として重要な支配地とされたが、ユグルタ戦争が勃発した。
ローマ帝国の終わりにはキリスト教が伝来した。西ローマ帝国が滅亡すると430年にはカイセリック率いるヴァンダル人が進出、ヴァンダル王国の支配を受ける。ヴァンダル王国は海上貿易で繁栄したが、ゲリメリ王のころに東ローマ帝国に滅ぼされた。その結果、東ローマ帝国の版図に組み入れられた。
[編集] イスラム世界へ
7世紀にはイスラム教で糾合したアラブ人が侵攻、この地を征服、定住した。土着のベルベル人たちはイスラム教に改宗し、アラブ人と混血し、この地はイスラム世界の一部となった。
以後、ムラービト朝、ムワッヒド朝といったベルベル人の王朝が成立。学芸が栄えイブン・ルシュドなどの知性を輩出した。
16世紀にはキリスト教世界とイスラム世界の争いが激化し、アルジェを根拠にバルバロッサなどの海賊が地中海を荒らしまわった。
そのためスペインのアラゴン王フェルナンド2世はアルジェを占領した。
このようなキリスト教国の攻勢に対し、ベルベル人諸国はオスマン帝国の勢力圏に入ることで保全を図った。
[編集] フランスの支配
オスマン帝国の弱体化にともない、オスマン帝国のアルジェリア支配は形式的なものとなっていた。しかし、19世紀に入るとマグリブ地方はヨーロッパ列強による植民地化の対象となった。1830年より始められたフランスによるアルジェリア侵略に対して、1832年にアブド・アルカーディルはジハードを宣言し、激しい抵抗運動が続いた。一時、フランスはアブド・アルカーディルとの妥協を模索したこともあったが、最終的にはアルジェリアの民族運動は鎮圧され、植民地化・フランス化が進められた。アルジェリアには多数の「コロン」と呼ばれるフランス人移民が流入し定住する一方で、多数の反フランス的な民族主義者が政治犯として逮捕され、ニューカレドニアなどへ流刑に処された。
フランスは、アルジェリアに本国同様の行政単位を設置した。アルジェ県、オラン県、コンスタンティーヌ県の3県がおかれ、フランス人植民者が本国政治に関わることを可能にした。19世紀後半になると、鉄道網の整備・地下資源の採掘・輸出用ワインの生産などが進められ、アルジェリア経済のフランス経済に対する従属が深まった。
第1次世界大戦において、アルジェリアが直接の戦場になることはなかった。しかし、総力戦体制のもとでアルジェリア人にも兵役義務が課されたほか、フランス本国における労働力の不足から、多くのアルジェリア人が軍需工場・鉱山などに動員された。
第1次世界大戦後に民族自決への期待が高まったが、フランスの植民地支配は継続した。こうした中、一部の勢力は共産主義に独立の希望を見いだした。1926年にパリで成立した「北アフリカの星」は、アルジェリア人・チュニジア人によって結成された組織で、フランス共産党との連携を強めた。いったんは解散させられたものの、1932年に「栄光ある北アフリカの星」として再建され、マグリブ地方出身の人々に支持を拡大させた。この組織は1937年にアルジェリア人民党となる。
北アフリカ戦線としてイタリアやドイツのロンメル将軍、アメリカのパットン将軍達が戦闘を繰り広げた。
1943年にはアメリカ合衆国軍が上陸し、フランスに復帰。ド・ゴールが国民解放委員会を組織した。
1945年にベルベル人による反乱が起きたが、鎮圧された。数万の死傷者をだしたこの事件はアルジェリア独立運動を高揚させることになった。
[編集] 独立闘争
詳細はアルジェリア戦争を参照
1954年、ジュネーヴ休戦協定が結ばれ、仏領インドシナ連邦の統治下にあったベトナムなどの独立が確認された。このことは、他のフランス植民地における独立運動を力づけることになった。1954年にはフランスからの独立を標榜する「アルジェリア民族解放戦線」が結成され、ゲリラ活動をアルジェリア、フランスで展開した。
北アフリカ植民地のうちチュニジアとモロッコは1956年に独立を果たした。しかし、両国と異なり多くの白人入植者(コロン、ピエ・ノワール)を抱えるアルジェリアでは独立反対の声も強く、フランス政府は独立を認めなかった。1958年にはアルジェリア民族解放戦線がカイロに臨時政府を樹立。アルジェリア独立の支援も始まった。
フランス政府はアルジェリアの在来住民にフランス人としての完全な市民権を付与することで懐柔をはかろうとするが、コロンたちの反発をかった。アルジェリア在留の仏軍はコルシカ島を占領し、クーデターを起こそうとした。
このような混迷の中で、フランスではド・ゴールが大統領に就任し第五共和制が始まった。
ド・ゴール政権は、内外の情勢をかんがみ、植民地解放政策をとり、1959年にはアルジェリアの独立を承認しようとした。しかし、軍は軍事拠点としてのアルジェリアの重要性を叫び、アルジェリア在住の100万人のコロンは「フランスのアルジェリア」をスローガンに独立に反対した。しかし、独立への流れは抑えがたく、100万のコロンはアルジェリアを去った。
1962年にエヴィアン協定が結ばれ、7年にわたるアルジェリア戦争は終息。住民投票の結果、独立承認が圧倒的支持を集め、アルジェリアは独立した。
1963年には憲法が制定され、アフメド・ベンベラが大統領に選ばれた。
[編集] 独立後
ベンベラは社会主義路線をとるが、経済は混迷し、クーデターが起きて政権は倒された。次のブーメディエン政権は経済の建て直しに成功した。その次のシャドリ政権は重工業化の推進による経済開発を推進したが、食糧難や失業などの社会不安を生み出した。
このような状況を背景として、イスラム原理主義の活動が活発化した。これらのイスラム原理主義者のなかには武装闘争を展開するものも登場した。 1989年に憲法が改正され独裁は廃された。 1992年にはシャドリが辞任し、初の複数政党制の総選挙が行われた結果、イスラム原理主義勢力(イスラム救国戦線)が8割の議席を得て勝利。彼らは憲法を無効とした。これに対し、軍部がクーデターで政権をとり、イスラム原理主義者を非合法化して弾圧、選挙は無効とされた。1994年にゼルアルが暫定大統領に就任。しかし、イスラム原理主義組織はテロで反政府運動を展開し政情は混迷している。政府、軍、イスラム主義勢力のよる内戦で約20万人が死亡したとされる。 1999年の大統領選挙でブーテフリカが文民として34年ぶりに当選した。 2002年総選挙で社会主義政党(FLN)が第1党となった。 2006年現在、テロは沈静化している。また、ブーテフリカ大統領などの協調政策により、テロのイメージをなくす努力をG8諸国などに対して積極的に行っている。