鵠沼海岸
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鵠沼海岸(くげぬまかいがん)は、神奈川県藤沢市鵠沼地区の、相模湾に面する海岸部という意味の地名であった。狭義には1964年1965年に制定された住居表示で、小田急江ノ島線以南を指し、1~7丁目に区分される。国道134号線沿いに位置し、東に江ノ島、西に富士山を望む風光明媚な海岸で、鵠沼運動公園、湘南海岸公園がある。
日本のサーフィン発祥の地である。
小田急江ノ島線鵠沼海岸駅が最寄である。
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[編集] 地理
[編集] 地名と範囲
「鵠沼海岸」の地名は新旧2段階がある。
江戸時代までは鵠沼の海岸部は完全な無人地帯だったので、地曳き網の漁場だった浜辺を鰯干場(ヤシバ)と呼んでいた記録がある程度である。
1886年に「鵠沼海岸海水浴場」が開設された。恐らくこれが「鵠沼海岸」の地名が使われた最初の例である。ほどなく現在の鵠沼松が岡を中心に「鵠沼海岸別荘地」が開発され、分譲された。この分譲地は鵠沼藤が谷の南部までを含む。北端は1902年に開通する江ノ島電鉄鵠沼駅付近までで、ここから浜辺までを鵠沼海岸と呼ぶようになった。
1929年、小田急江ノ島線が開通し、鵠沼海岸駅が開業すると、駅から徒歩圏内が鵠沼海岸と認識されるようになった。
1940年藤沢市制が敷かれた頃、町内会制度が整備され、鵠沼海岸駅東側を通る通称「学園通り」以西を「鵠沼西海岸」、以東を「海岸通り」の「藤ヶ谷橋(現在は暗渠化)」を境にして北側を「鵠沼東海岸」、南側を「鵠沼南海岸」、と呼び、商店街の組合や警防団組織も分かれていた。
この段階までの鵠沼海岸とは「本村」に対する鵠沼の「新開地」というような意味を持っていた。
ところが、藤沢市により住居表示が制定され、1964年8月1日に鵠沼海岸1~4丁目で、1965年10月1日に鵠沼海岸5~7丁目で新住居表示を実施した。これにより、小田急江ノ島線を境界として、浜辺までを鵠沼海岸と呼ぶことになった。1~4丁目は文字通り海岸部で、かつての鵠沼海岸の南部に当たるが、5~7丁目は大庭御厨以来の伝統を持つ堀川町内を含む。
この範囲は1970年に開校した藤沢市立鵠南小学校の学区とたまたま一致する。
[編集] 自然環境
- 地形・地質
縄文海進により、浅い海底であったが、弥生時代以来北部から次第に陸化して形成された海岸平野で、全体に砂地で水はけが良く、総じて起伏の少ない平坦な地形であるが、内陸では北東-南西方向の、海岸では西北西-東南東方向の海岸砂丘列が見られる。この砂丘列の方向は地割り、建築物の向き、道路網や鉄道の路線に大きく影響を与える。
西に引地川が流れ、この地区の境界線をなすが、自然蛇行を繰り返し、浸食しやすい砂地のため氾濫のたびに流路が替わってきた。堤防構築により流路が固定するのは昭和に入ってからである。しかし引地川の場合、西から東に向かう沿岸流のため、河口の位置が東に移動し、そのたびに切り替えされることが繰り返されてきた。
6丁目の引地川沿岸部は氾濫原の低地で、1960年代まで水田が見られ、地区内では最も都市化が遅れた場所である。ここには鵠沼運動公園が設置され、周辺は地区の広域避難場所に指定されている。いわば最も災害に遭いやすい場所が避難場所になっているのである。
海岸は比較的遠浅な弧状の砂浜で、古くから地曳き網が行われてきた。海水浴場の設置も1886年と古く、戦後はサーフィンをはじめライフセービング、ビーチバレー、スポーツカイト、ビーチアルティメット、それらを複合させたザ・ビーチ選手権大会などビーチスポーツの発祥地となってきた。
- 気候・植生
大きくは太平洋岸気候区の特色を持つが、沿岸部にあるため、海洋性気候の影響がより顕著である。その特色である冬暖かく夏涼しい温和な気温変化は、避暑・避寒あるいは病気療養に好適で、明治半ばの鉄道開通以来、日本初の別荘分譲地としての「鵠沼海岸別荘地」開発を促した。
また海陸風や塩害の影響も、地域の農業や住民の生活に影響を与えてきた。今でもわずかに残る畑地では、麦藁(現在はサランネットも多い)による砂よけやマサキの砂防垣などを見ることができる。
鵠沼の住宅地にはクロマツの木が各所に生い茂る風景が見られ、岸田劉生や与謝野晶子ら多くの芸術家にも愛されてきた。しかし、その多くは別荘地開発の際に境界線として植林されたもので、それ以前には砂丘の稜線上に自生したものが砂防林として維持されてきたのみであった。
こうした自然環境がもたらす「潮騒(しおさい)」「松籟(しょうらい)」の語は、鵠沼海岸を象徴するといえよう。
[編集] 伝統・民俗・地域文化
せいぜい100年余りの伝統しかないこの地域は、古来の民俗習慣や講中などの宗教行事は極めて少ない。この点で、北西部の本村とはかなりの差がある。しかし、別荘地を顧客とする商店街の経営者や別荘の維持管理を受け持つ別荘番、植木職、建築関係の職人も多く住み、彼らは本村出身者がほとんどであったため、ある程度の鵠沼古来の文化(どんど焼き、5月の凧揚げなどの民俗行事や言語など)の影響が見られた。
関東大震災以後、別荘地から定住高級住宅地として知られるようになり、太平洋戦争の頃には疎開先として人口が増大し、高度経済成長期からはベッドタウンとしての性格を強めたこの地域の住民には外部からの移住者の割合が極めて高い。
別荘地以来、その出身地の多くが東京の山の手だったため、住民の意識や文化は山の手の住宅地と共通する。
住民の中には文化人と呼ばれる芸術家や著作家、思想家、学者、あるいはジャーナリスト、出版人などが多く含まれる。
隣接する鎌倉文士には及ばないが、東京の馬込文士村、田端、谷根千、阿佐ケ谷などの文士村よりは多くの文化人が鵠沼には住んでいた。
また、鵠沼海岸はおろか湘南随一の旅館だった「東屋」は、文士宿と異名を取るほど文人に愛される旅館として知られていた。
戦前、彼ら文化人の目は、普段は東京に向けられており、地域文化の興隆に力を入れた例は少ないが、貸本屋「湘南文庫」の開設、市民向け教養講座「鵠沼夏期自由大学」の開催、市民の文化学習サークル「なぎさクラブ」の指導など、戦後の混乱期に見せた活動には目を見張るものがある。
1958年、市内で2番目の鵠沼公民館が開設された。最初の藤沢公民館は移転した市役所の跡を利用したものだが、鵠沼公民館は地元町内会が用地を準備し、市に提供したものである。このような例は他には少なく、小学校の教科書にも掲載された。現在でもこの公民館の利用頻度は市内で最も高く、200を越すサークルが活動している。地元在住の文化人が指導するものも多く、絵画の黒崎義介、彫刻の菅沼五郎、管弦楽の福永陽一郎、合唱の磯部俶らがいた(いずれも故人)。
[編集] 住宅地としての鵠沼海岸
鵠沼海岸別荘地が売り出された頃、1区画は1町歩(3,000坪)だったが、更にそれを細分して貸別荘とする例も見られた。関東大震災復興期以降の高級住宅地化の時代は1戸の敷地は300坪程度が普通となり、貸家の敷地でも最低100坪が単位であった。高度経済成長期以降は相続税問題などから細分化して分譲する例が多く、30坪程度などという例も少なくない。かつては庭池を持つ家も多く、クロマツに囲まれる邸宅が普通だったが、30坪となると庭池やクロマツどころではない。鵠沼海岸のシンボルでもあったクロマツは急速に減少し、緑が失われている。
現在は鵠沼松が岡という住居表示となった小田急江ノ島線と境川とに囲まれた一帯の多くは風致地区に指定されており、建ぺい率、容積率に制限があるため、中高層の建物は全く見られない。「かながわのまちなみ100選」に選ばれるほど風情のある住宅地として知られている。
別荘分譲地開発の時代の道路は、せいぜい人力車の走行しか考えられていなかったため、自動車の擦れ違いが困難なものが多い。ことに大型車の走行は無理といってよい。従って旧別荘地には信号機は全く見られず、歩道も湘南学園付近のみである。踏切の幅も極めて狭く、普通車が擦れ違えるものは算えるほどしかない。また、敷地の細分により袋小路が増えた。
このため、災害時の危険度は藤沢市内でも最も劣悪な地域に指定されている。 これに対し住居表示の鵠沼海岸は、国道134号や市道鵠沼海岸線をはじめ、大型車の擦れ違える道幅や歩道を持つ道が通り、それに面して中層の集合住宅や駐車場を持つ大型店舗などが立地している。しかし、それから一歩はずれると、迷路のような細道となる。マリンロードと名付けられた鵠沼海岸駅前商店街も、モール化されたとはいえ、昼間は一方通行を余儀なくされている。最も住宅地化が遅れた4丁目、6丁目は、鉄道の便は悪いが、道路網はかなり計画的にきちんと造られている。
鵠沼海岸商店街は、駅前のマリンロードが中心だった。小田急江ノ島線開通以前の1910年代から出店は始まっており、それ以来続く老舗も見られる。他の商店街に比べると、規模の割りには専門店らしい専門店(染物店・写真スタジオなど)が見られること、古書店・古美術店・画廊などが複数あること、不動産や住宅のメンテナンスに関わる店(建築業、電気工事、配管業、ガラス店、塗装店、表具店など)が多いこと、海水浴用品の店やサーフショップが目立つことなどが特色である。飲食店も個性を売り物にした店が増えている。
しかし、自家用車での買い物には向いていない。かつては「ご用聞き」や「出前配達」が普通であったが、住宅地が細分化された今日、手を引く店が多い。このようなことから「シャッター通り」化は鵠沼海岸商店街も例外ではない。「鵠沼海岸商店街振興組合」は伝統的に結束力が強く、各種のイベントを企画したり、コンシエルジュ制度を導入するなど工夫を凝らしているが、停滞の歯止めはかかりにくい状態が続いている。
これに対し、市道鵠沼海岸線や国道134号沿いには、駐車場が完備した大型店の進出が目立つ。これらの多くは外部資本の支店であり、地元との連携関係は薄い。
[編集] ビーチリゾートとしての鵠沼海岸
鵠沼海岸駅の乗降客数は1日20,000人余りで、地域住民と湘南学園の児童生徒の他、観光客もかなり含まれる。かつては夏の海水浴シーズンに集中していたが、近年はサーフィンなどのビーチスポーツの普及により、年間通して平均化してきた。しかし、観光客の多くは自家用車を利用しており、海岸部には駐車場が配備されている。現在鵠沼海岸で営業しているサーフショップは19軒あり、恐らく全国最大の集中地区と思われる。
鵠沼海岸海水浴場開設以来、海岸部には旅館が並び、避暑客や療養者、また文士の執筆活動などに利用されてきた。戦後もしばらくは割烹旅館の営業などが見られたが、現在の鵠沼海岸には国道134号沿いにラブホテルが3軒ほどあるものの、一般客の宿泊施設はない。
別荘地から高級住宅地への転換段階から、かつての会社経営者の別荘が保養所に転換される例が多く見られたが、現在はそれもかなり減少した。それらの中には老人ホームや介護施設に転換する例も見られる。
[編集] 歴史
[編集] なにもない砂原からの出発
- 縄文海進によって浅い海底であったこの地域が陸化されたのは、歴史時代に入ってからだと考えられる。
- 北端部の鵠沼海岸6丁目で発見された八部(はっぺ)遺跡からは鎌倉時代の生活用具などが出土していることから、すでに近世の「堀川」集落に繋がる集落や耕地が形成されていたと思われるが、大部分は「砥上ヶ原」と呼ばれる砂地の荒野であった。鎌倉時代初期、鴨長明が「浦近き砥上ヶ原に駒止めて固瀬の川の潮干をぞ待」と詠んでいることから、海岸に近い道が形成されていたことが想像できる。
- 江戸時代に入ってからも不毛の砂原が拡がっており、江戸幕府の直轄領となっていた。3kmほど北方の鵠沼村の農民が時折地曳き網に訪れる程度であった。そこで、鵠沼海岸海浜部の古い呼称を鰯干場(ヤシバ)という。
- 1728年 - 幕府鉄炮方=井上左太夫貞高が、享保の改革の一環として湘南海岸一帯に相州炮術調練場と呼ばれる幕府の砲術訓練場を設置する。現在の鵠沼松が岡あたりには「鵠沼新田見取場」の近くに水平射撃の訓練場があり、南端の鵠沼海岸には「角打(近距離射撃)打小屋」が置かれていた。
- 18世紀後半、現在の鵠沼海岸3丁目・5丁目あたりに新田が開かれ、数戸の集落が形成された。これを納屋(ナンヤ)と呼ぶ。
- 19世紀にはいると、代官江川太郎左衛門英龍は現在の鵠沼海岸6丁目から辻堂にかけての地蔵袋の鉄炮場内に新田を開いた。
[編集] 海水浴場と日本初の別荘分譲地開発
- 明治時代に入ると、鵠沼村の鉄炮場は廃止された。この跡地を入手したのが大給(おぎゅう)子爵(元豊後府内藩主松平家=大分)である。
- 1873年 - 小字・番地が制定された。現在の鵠沼海岸は、引地川の日の出橋を通る道路から海岸側の1~4丁目を「上鰯」、それ以北の1丁目が「下藤ヶ谷」・「下岡」南部、2丁目が「下岡」南部と「下鰯」東部、3丁目が「下鰯」西部、5丁目が「高根」、6丁目が「八部(はっぺ)」、7丁目が「柳原」南部にほぼ相当する。後になると、これ以外に「鵠沼西海岸」、「鵠沼南海岸」、「鵠沼東海岸」という呼び名も一般的に用いられた。
- 1886年7月18日 - 「鵠沼海岸海水浴場」が開設される。海水浴客受け入れのために旅館「鵠沼館」が開業し、数年の間に「対江館」、「東屋」も開業した。また、納屋の農家の中には、貸別荘風の家作を建てるものも現れた。
- 1887年7月11日 - 東海道本線の横浜・国府津間が開通。藤沢停車場が開設される。これを機に鵠沼村南東部の旧鉄炮場の砂原(大給子爵家所有地)に格子状の道路網が敷設され、クロマツが植えられて、日本で最初の計画別荘地「鵠沼海岸別荘地」としての開発が始まった。
- 1902年9月1日 - 江ノ島電鉄の藤沢駅から片瀬駅(現:江ノ島駅)が開業。沿線は別荘地として急速に発展する。
- 1908年4月1日 - 「藤沢大坂町」・「鵠沼村」・「明治村」が合併して「高座郡藤沢町」が誕生する。それまでに下鰯の細川家別邸内に颯田本眞尼(1845-1928)により慈教庵(本真寺の前身)が建立された。東屋近辺には医院、郵便局、飲食店などが次々に開設され、江ノ島電鉄の電力供給により鵠沼一帯にはじめて電灯が灯った。
- 旅館東屋には多くの文士が滞在し、「文士宿」としての名声が高まった。中でも武者小路実篤と志賀直哉が文芸誌「白樺」の創刊を話し合い、白樺派誕生の発端となったことは特筆すべきである。彼らの影響で鵠沼に住むようになった岸田劉生の起こした「草土社」の若い画家たちが貸別荘に住んで創作活動に専心し、ここに「鵠沼文化」の華が開いた。
- 1923年9月1日 - 関東地震(震源:相模湾東部、M=7.9)により、ほとんどの家屋は倒壊した。津波の被害は2~5丁目付近でひどく、引地川沿いに逆流した津波は海岸の漁船を6丁目付近まで運んだという。その引き波により5軒の家屋が流失した。1丁目付近には浜辺に平行してかなり高い海岸砂丘があったため、津波の被害はなかった。しかし、津波はその砂丘を浸食して消滅させた。地震による地盤の隆起は鵠沼海岸で約90cmと想定され、大幅な海退により砂浜の面積が拡がった。
[編集] 震災復興と県による湘南海岸の観光地化
- 1925年5月 - 高瀬彌一らによる鵠沼新道(橘通り・高瀬通り・熊倉通り)が開通した。これにより自動車で藤沢駅に出られるようになったことは、当時短期間鵠沼海岸に住んだ芥川龍之介の小説歯車の冒頭に描かれている。
- 1928年 - 湘南海岸一帯に神奈川県の御大典記念事業として「魚附砂防林」のクロマツの植林が始められた。
- 1929年4月1日 - 小田急江ノ島線が開通。鵠沼海岸駅が開業した。これによりそれまで旅館東屋周辺に中心があった商店街が駅前に中心を移し、細長い商店街が形成された。
- 1929年に神奈川県知事に就任した山県治郎は、湘南海岸一帯の国際観光地化を目論み、県営湘南水道、府県道片瀬-大磯線(「湘南海岸公園道路」通称「湘南遊歩道」と呼ばれる)の敷設などが次々に具体化した。
- 1931年7月27日 - 藤沢町の働きかけで鵠沼海水浴場に「鉄道省海の家」が開かれた。藤沢駅と海の家を結ぶバス路線も開通した。
- 1933年 - 洋風の「鵠沼ホテル」が開業した。
- 1934年2月 - 引地川改修事業が完成し、農業用取水堰「鵠沼堰」により、現在の鵠沼海岸5~6丁目一帯の水田地帯が整備された。
- 1935年4月 - 鵠沼海岸7-1-7に慈教庵(後に夢想山本真寺=浄土宗)本堂完成
- 1935年7月17日 - 中国の青年作曲家=聶耳(ニェ・アール。1912-1935)(後に中華人民共和国の国歌となる「義勇軍行進曲」を作曲)が鵠沼海岸で遊泳中に水死した。戦後、記念碑が建立され、来日する中国要人が訪れる。
- 1935年7月27日 - 湘南遊歩道(湘南大橋を除く区間)開通。「渚橋」・「鵠沼橋」が落成、渡り初めが行われた。
- 1937年 - 鵠沼海岸商店街、商店街の形を整え鵠栄会の名称になる。「鵠沼銀座」と呼ばれるほど賑わった。
- 1938年7月 - 県立鵠沼プール開場、藤沢町に管理を委託。鵠沼海岸海水浴場、引地川右岸に「海の家」を移転開設。「海の家」はこの年限りで閉鎖。
- 1939年 - 名旅館「東屋」が突如廃業した。
[編集] 疎開先からベッドタウンへ
- 1940年10月1日 - 藤沢町に市制が敷かれ「藤沢市」となる。その後「鵠沼西海岸」「鵠沼東海岸」「鵠沼南海岸」の3町内会と商店街組合・自警団が組織される。
- 1941年 - 大政翼賛会、鵠沼海岸で「みそぎ」講習会。菊池寛、吉川英治らも参加する。
- 1943年5月12日 - 鵠沼伏見稲荷神社、京都市伏見区の伏見稲荷大社の分霊を勧請して大政翼賛会の錬成場に創立(宮司:高山昇)。
- 1943年11月16日 - 東京急行電鉄(旧小田急。のちに分裂。現小田急)江ノ島線、線路供出のため単線化。(1949年4月復旧)
- 1944年8月5日 - 鵠沼海岸での海水浴は警察・町内会長の許可を得た市民に限られる。
- 戦争が激化すると疎開先に選ばれ、人口は急増した。鵠沼海岸への主な疎開者に芥川龍之介の遺族(文夫人・芥川比呂志の妻子・芥川也寸志)、各務鑛三、子母沢寛らがいる。
- 1945年8月19日 - 林達夫ら、鵠沼海岸駅前に文化人の書籍提供を受け貸本屋「湘南文庫」を開設。一説では終戦直前に準備がなされたという。
- 1946年2月1日 - 神奈川県、鵠沼海岸に湘南海岸砂防事務所を開設、戦争で荒廃した砂防林の復旧に取り組んだ。
- 1946年8月10日 - 鵠洋国民学校(→藤沢市立鵠洋小学校)が開校し、鵠沼海岸の子どもたちは遠い第三国民学校(藤沢市立鵠沼小学校)まで通わなくても良くなった。
- 1947年4月1日 - 鎌倉郡片瀬町が藤沢市に合併。鵠沼・片瀬を一体化した開発の基盤ができた。
- 1948年夏 - 戦争中休止していた藤沢市営プールが再開、小中学校の水泳指導でも盛んに用いられた。
- 1949年8月31日 - キティ台風により被害続出。鉄道省海の家、波浪で流失。
[編集] 湘南海岸公園開発と市道鵠沼海岸線(鵠沼新道)の開通
- 1954年 - 4月には海浜部に「横浜ゴルフ場」が開設され、短期間営業していたが、5月に神奈川県の湘南海岸公園が都市計画事業決定し、数年で閉業した。
- 神奈川県は湘南海岸砂防事務所を1955年に公園整備事業を加えた「湘南海岸整備事務所」に発展させて、1957年11月に特許事業方式(民間施設活用)の県立湘南海岸公園計画を告示した。
- 告示以前から鉄道会社による東急レストハウス、小田急ビーチハウス(いずれも1956年)が建設され、告示後には小田急シーサイドパレス(1958年)などが特許事業として続々と建てられ、斬新なデザインを競い合った。
- 1954年10月 - 鵠沼海岸2-18に聶耳記念碑が造立された。
- 1956年4月1日 - 藤沢市立湘洋中学校開校。鵠沼中学校の校区分割により鵠沼海岸の生徒は湘洋中学校に通うようになる。
- 1956年 - 鵠沼海岸海水浴場組合は江の島・西浜海水浴場と統合し、「江の島海水浴場協同組合」が創立された。
- 1958年2月14日 - 地元町内会が敷地を無償提供し、藤沢市鵠沼公民館が落成した。
- 1958年9月27日 - 台風22号(狩野川台風)が江の島より上陸 被害甚大。聶耳記念碑破損。
- 1959年3月10日 - 江ノ島電鉄バス、鵠沼線の高根~鵠沼海岸間廃止。高根線となる。
- 1960年7月13日 - 県による「太陽の広場」建設を最後に、県立湘南海岸公園が完成した。
- 1961年7月20日 - 引地川畔の旧藤沢市営プールの経営を引き継いで全面的に改良し、小田急鵠沼プールガーデン開場。
- 1964年7月17日 - 聶耳終焉之地碑が再建された。
- 1964年8月1日 - 鵠沼海岸1~4丁目で新住居表示を実施。
- 1964年8月26日 - 藤沢市道鵠沼海岸線(鵠沼新道)が開通し、5~7丁目の水田地帯が急速に住宅地化する。また、南部下水処理場の運転開始により、市内ではいち早く下水道が普及した。
- 1965年3月31日 - 「平和の像」が湘南海岸公園憩いの広場に造立された。(像製作者:難波孫次郎/撰・書:金子小一郎)。
- 1965年10月1日 - 鵠沼海岸5~7丁目で新住居表示を実施。
- 1967年6月6日 - 江ノ島鎌倉観光バス藤沢営業所(鵠沼車庫)、藤沢駅南口から鵠沼海岸6丁目に移転
- 1968年7月1日 - 鵠沼海岸6丁目の引地川河畔に八部公園(鵠沼運動公園)開園。
- 1968年7月 - 鵠沼海岸2丁目に集合住宅「鵠沼ニューマンション」完成(「マンション」を名乗った最初の集合住宅といわれる)
- 1970年4月1日 - 藤沢市立鵠南小学校開校。新住居表示の「鵠沼海岸」全域を学区とする。
- 1975年6月1日 - 障害者福祉施設「太陽の家」開設
- 1978年10月16日 - マクドナルド 江の島店、鵠沼海岸1-11に開業(世界5000店目)
- 1979年4月25日 - 鵠南市民の家(鵠沼海岸1-10-1)開設
[編集] 湘南なぎさプランとビーチスポーツの興隆
- 1985年7月 - 神奈川県、「湘南なぎさプラン」策定。海岸の砂防林や保全整備、公園整備等が位置づけられる。
- 1986年4月11日 - 没後50周年記念事業として聶耳記念広場完成。
- 1987年8月9日 - 鵠沼海岸で日本初のビーチバレー公式大会「ビーチバレー・ジャパン」開催。
- 1989年 - 県立湘南海岸公園再整備(太陽の広場・野外ステージ・駐車場等撤去、基盤を7m台にかさ上げ)はじまる。
- 1989年 - 国内初のスポーツカイト競技会、鵠沼海岸で開催。
- 1990年4月29日~10月10日 - イベント「サーフ'90」開催。
- 1990年9月30日 - 台風20号の豪雨の増水により、国道134号引地川鵠沼橋落橋。翌年3月掛け替え工事完了。
- 1991年4月29日 - 鵠南子供の家(ひょっこり鵠南島)、鵠沼海岸5-11-8に開設。
- 1991年4月 - 県立湘南海岸公園再整備「しおさいの森整備計画」(遊歩道・シーサイドパレス・ビーチハウス等撤去)スタート。
- 1991年7月2日 - 藤沢市老人福祉センター「湘南なぎさ荘」、鵠沼海岸6-17-7に開設。
- 1992年 - 鵠沼海岸旧銀座通り、モール化完成。「マリンロード」と改称。また、鵠栄会、「鵠沼海岸商店街振興組合」と改称。法人化。
- 1992年 - 県立湘南海岸公園に西部の拠点施設「サーフビレッジ」完成。
- 1993年5月30日 - 第1回ジュニアオープンサーフィン選手権大会、鵠沼海岸で開催。
- 1994年7月8日 - 国道134号、片瀬海岸から鵠沼海岸まで4車線拡幅工事完成。利用開始。
- 1995年6月12日 - 鵠沼海岸にビーチバレー用「湘南鵠沼常設コート」の設置が決まり、運営団体「ラブ・ユア・ビーチ湘南藤沢実行委員会」設立。
- 2000年5月 - 日本初のビーチアルティメット大会『江橋カップ(鵠沼海岸在住の江橋慎四郎名誉顧問の名を冠す)』を鵠沼海岸で開催。
- 2000年9月3日 - 小田急鵠沼プールガーデン、営業を終了。
- 2001年7月20日 - 鵠沼プールガーデン跡地に鵠沼スケートパーク、オープン。
- 2001年7月 - 第1回ザ・ビーチ選手権大会、鵠沼海岸で開催。
- 2003年5月15日 - 鵠沼市民センターが鵠沼公民館を増設して開設。
- 2004年4月1日 - 小田急鵠沼海岸駅のホームと跨線橋間にエレベーター設置。使用開始。
- 2004年9月 - 鵠沼海岸商店街振興組合、コンシエルジュ制度をスタート
- 2005年5月 - 旧高木和男邸、「高木ふれあい荘」としてオープン。老人福祉やボランティアセンター事務局等に活用。
[編集] 施設
- 藤沢市立湘洋中学校(所在地は辻堂東海岸だが鵠沼海岸を主な学区とする)
- 藤沢市立鵠南小学校
- 鵠沼公民館・鵠沼市民センター
- 鵠南市民の家
- 太陽の家
- 藤沢市老人福祉センター「湘南なぎさ荘」
- 高木ふれあい荘
- 鵠南子供の家(ひょっこり鵠南島)
- 鵠沼海岸駅前交番
- 藤沢南消防署鵠沼出張所
- 藤沢市消防団第4分団
- 鵠沼海岸郵便局
- 県立湘南海岸公園
- サーフビレッジ
- 湘南鵠沼常設コート(ビーチバレー)
- テニスコート
- 市立鵠沼運動公園
- 八部球場・テニスコート・プール・体育館
- 市立鵠沼海浜公園
- 鵠沼海浜公園スケートパーク
- 湘洋公園(鵠沼海岸4丁目)
- 鵠沼公園(よつば公園 鵠沼海岸6丁目)
- 鵠南公園(鵠沼海岸5丁目)
- 高根公園(鵠沼海岸5丁目)
- 藤原公園(鵠沼海岸5丁目)
- 南高根公園(鵠沼海岸5丁目)
[編集] 鵠沼海岸を主に描いた芸術作品
[編集] 文学
- 芥川龍之介 「蜃気楼――或は「続海のほとり」――」 「歯車」 「鵠沼雑記」
- 阿部昭 「鵠沼西海岸」
- 岡本かの子 「鶴は病みき」
- 貴志祐介 「青の炎」
- 志賀直哉 「鵠沼行」
- 立原正秋 「湘南道路」「花のいのち」
- 徳冨蘆花 「思出の記」「相模灘の落日」
- 吉屋信子 「片瀬心中」「失楽の人々」
- 永井龍男 「コチャバンバ行き」(講談社文芸文庫)
- 今井達夫 「昔の鵠沼抄」
- 河井酔茗 「鵠沼海岸」
- 高三啓輔 「鵠沼・東屋旅館物語」(博文館新社)
- 村上春樹 「村上朝日堂 スメルジャコフ対織田信長家臣団」
- 日夏耿之介 「鵠沼之記」
- 芥川文子 「追想芥川龍之介」
- 小穴隆一 「二つの絵」「影照」
- 羽仁説子 「半生を語る」
- 高木和男 「鵠沼海岸百年の歴史」
- 北村初雄 「相模灘」
- 与謝野晶子 「太陽と薔薇」「冬柏」
- 深尾須磨子 「氷雨の谷 鵠沼にて」
- 荻野綾子 「湘南にて」
[編集] 映画
- 小津安二郎 「戸田家の兄妹」1941年松竹
- 小津安二郎 「晩春」1949年松竹
- 木下惠介 「今日もまたかくてありなん」1959年松竹
- 小沼勝 「NAGISA-なぎさ-」2000年フィルム・シティ
- 小泉徳宏 「タイヨウのうた」2006年、松竹
[編集] コミック
- 紡木たく 「ホットロード」
[編集] 音楽
- 島根恵 組曲「湘南鵠沼海岸の想い出」 1.お兄ちゃん 2.いっこちゃん
- TUBE 「湘南My Love」
- 「5050」 「真夏の鵠沼」
- ASIAN KUNG-FU GENERATION 「鵠沼サーフ」
- 湘南乃風「晴伝説」のPVを鵠沼海岸商店街・R134に隣接する鵠沼海岸1丁目付近で撮影。