雷波少年
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雷波少年(らいはしょうねん)は、1998年4月5日~2002年3月31日に日本テレビ系列で放送されたバラエティ番組である。
放送時間は毎週日曜日10:55~11:25(未ネット局や別時間帯で遅れ放送された局もあり)。「進ぬ!電波少年」の兄弟番組のようなものであった。
当初司会はいなかったが、SP放送時には、当時「ウッチャンナンチャンのウリナリ!!」で社交ダンス部に出演していた遠藤久美子(1998年9月27日)、千秋(1999年1月9日)、藤崎奈々子(1999年4月10日)が司会を行う。1999年の4月からはチューヤンが司会(チューヤンが電波少年の「80日間世界一周」に行っていたときの司会は、ロバのロシナンテ(本名・木村嘉夫)で、セリフは編集者による吹き出しだった)でほぼ固定になった。
「電波」で出ていた松本明子は基本的には登場しなかった。
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[編集] 概要
この番組もまた『進め!電波少年』から進化したものと捉えられていて、司会者がいなかった頃のオープニングでは「電波少年」のロゴの電の部分に雷が落ち下の部分が取れて「雷波少年」になるものだった。
番組初期の数週間はドロンズが1週間で日本をヒッチハイクで駆け回り、様々な社会問題をテーマにしたコントのネタ探しの旅がメインだった。後にロバのロシナンテが加わり日本縦断紀行となり、1998年秋以降は『進め!電波少年』の影響か、若手無名タレントの挑戦企画が放送されるようになる。中でも羽田実加の鉄棒大回転のシリーズは人気を集めた。また、当時ヒット曲に恵まれなかったSomething ELseはこの番組を切っ掛けにブレイクし紅白歌合戦にも出場した。Something ELseの『ラストチャンス』の影響からか次々とラスト系(音楽系)の企画が始まり、Bluem of Youthの『ラストツアー~約束の場所へ~』をヒットさせた。
ゴールデンスペシャルの際は「雷波少年は電波少年ではなくて・・・」から始まり、新聞のテレビ欄にも収まりきれない程の長いタイトルだった。また、単独でのスペシャルは1999年10月を最後に放送しなくなり、「雷電為右衛門」など「電波少年」との合同スペシャルだった。
また、この番組は当初深夜枠(ZZZ枠)での放送を予定してたが、土屋が裏番組の「笑っていいとも!増刊号」に対抗しようということで日曜午前の放送に決まった。それでも、視聴率は10%台を出す(最高は15%)人気番組になった。
[編集] 主な企画
企画の名前には電波少年の電波少年的~に対して、雷波少年系~とついていた
- ドロンズ企画
初期の数週間のみ。ドロンズが1週間で日本をヒッチハイクしてテーマに合ったコントのネタを探してくる。テーマは社会問題を扱ったものが多く、身の回りで何があっても大丈夫なように携帯電話(ただし番号が1と0しかなく、警察に通報するための連絡手段しかなかった)が与えられた。1週間後にコントを披露し、コント終了後にスタッフから来週のテーマが発表された。
- ドロンズのドンキホーテ!日本を行く!
- 雷波少年系熱狂的巨人ファン
- 都内のある一室でファンであるチームを応援しながら生活する企画。放送では顔は隠されており、チームの勝ち負けに応じて食事が抜きになったりリクエストできたり、部屋が広くなったり狭くなったりと待遇が変わっていく。チームが優勝すると、顔が公開され希望の人物とデートができると言う条件だったが、1998年は横浜が、1999年は中日が優勝し、達成できたのは2000年だけだった。なお、この企画は巨人が優勝を逃した翌年に行われていた。
- なお、98年は多摩川の上流にあるテントで熱狂的巨人ファンであるお笑いタレント(東京ペールワンのユンボ安藤)一人が応援するという内容だった。食事はラーメンのみだった(後半戦になるとチャーハンのみに)。98年秋のスペシャルにて巨人戦直後の彼のテントが巨人の勝利に狂喜乱舞する様子が生中継された。翌年に再挑戦するか彼の自宅に訪れたが拒否したため、そこで彼の顔が明らかになった。
- 雷波少年系熱狂的巨人ファンvs阪神ファン→摂子
- 最初の巨人ファンがリタイア後に参戦した新巨人ファン、阪神ファンともに大川興業の芸人であった。放送当時は某所と伏せられていたが実際にテントを張っていた敷地は、現在日本テレビ社屋のある汐留であり、敷地確保がとても容易だったといえる。
- 当初は10連勝すると一流ホテルで彼女と結婚式、披露宴ができるというルールであった。しかし新巨人ファンには彼女がいなかったため、総裁との打ち上げに変更された。また阪神ファンのドクターストップ中には彼女の摂子が代わって登場した。
- 雷波少年系熱狂的巨人ファンvs中日ファン2000
- 巨人が優勝した時、女巨人ファン(通称ジャイ子、本名は小田好美で元レースクイーンだった)の顔が公開され、部屋の裏の特設ステージに集まった観衆とともに優勝を喜んだ。また、この時98年,99年の巨人ファンもお面をつけて花束を贈呈した。尚、同じ頃落胆していた中日ファンの部屋に99年の阪神ファンが現れ、2人で顔をカメラに向かってアピールした(当然、放送では顔は隠された)。この優勝により女巨人ファンは番組の司会に抜擢された。
- この企画のルールで、そのチームが10連勝すると自分の名前と顔が公開されるというものがあった。途中で中日が10連勝したので、中日ファンが黒田くろおであることが明らかになったものの、字幕スーパーを画面いっぱいに被せたために殆ど顔が見えなかった上に、その次の試合でチームは敗退したので公開されたのはわずか1日となった。
- ※この企画は2002年に電波少年で「電波少年的ペナントレース」と銘打ってセントラル・リーグ6チームのファンの若手芸人が挑戦した。前述のとおり2001年は巨人優勝の翌年なのでなかった。
- 雷波少年系ラストチャンス
- 3ヶ月の合宿生活の中で運命の1曲を作り、その曲がオリコン初登場20位以内に入らなければ即解散だった。Something ELseが挑戦。1998年12月23日に運命のCD「ラストチャンス」が発売。その結果はオリコン初登場2位(その週の1位は産休から復帰後の安室奈美恵)でグループの存続が決定した。
- 雷波少年系アジアの歌姫(雷波少年系カリブの歌姫)
- 女優の室井滋が、演歌歌手役で出演した映画(のど自慢)で歌った歌のカセットテープを、アジア各国へ自ら売り歩く企画。スタートはタイのドエンカ(ど演歌)村。行き先は目隠しした状態でダーツを行い、用意した地図に矢が刺さった国を渡り歩く事が決められていたが、企画終盤に投げた矢がアジア圏内を大きく外れてカリブ海周辺に当たってしまい、急遽、『雷波少年系カリブの歌姫』と企画が変更される。だが、室井が仕事の都合で帰国する事になり、この企画は中止となった。一応、日を改めてカリブの歌姫を再開すると解説はあったが、その内容は室井がロシアへ向かって、目隠しをされたままカリブーにのった後、悲鳴を上げるという(「カリブー、乗った、悲鳴」)ダジャレ企画であった。なお、カリブの歌姫は後述のラストツアーを行うBluem of Youthに室井がカレーの差し入れを行う企画へつなげるためのものであった。
- 雷波少年系ラストツアー
- 雷波少年系ラストチャンスに続く「ラストシリーズ」の第二弾。半年でシベリア鉄道を横断し、その間に運命の1曲を作り日本武道館で公演、10000人が入らなければ解散で、音楽とは関係ない仕事に就かなければならないというルールだった。Bluem of Youthが挑戦。見事に2万人近い入場を記録し(本来は1回だけの公演を予定していたが、3万人近くの人が会場に集まったため、急遽2回目を行うこととなった。)、グループ解散の危機を逃れた。
- 不良芸人更生施設・雷波少年院(ラストコント)
- 番組プロデュースの娯楽企画でナンパをし、更に進ぬ!電波少年の企画「電波少年的ハルマゲドン」を途中で投げ出して逃げたポプラ並木(後に解散)が懲役10年の刑で収容。コントで得たカンパ金100円支払えば1日刑期が短縮されるというルール。網走市からスタートしたが、番組の企画が周知されると善意による大量のカンパを防ぐため、何度か移動を繰り返した。しかしあと僅かという刑期で脱走を計り(しかし、スタッフ側もおもしろ半分で牢獄を開放するなど脱走をしてもいいような環境を作っていた。)、懲役20年になった。一時期韓国へも舞台を移したが、早期の釈放を望んだ二人のためにラストコントに挑んだ。ラストコントで失敗する(カンパが刑期分集まらない)と懲役が200年になるレイプ刑となる予定だったが、見事達成し釈放された。
- Do-Yo(現どーよ)のミセスロシナンテを探して
- 電波少年司会決定記念 雷波少年系ジャパンツアー
- 1999年1月からチューヤンが「進ぬ!電波少年」の新司会者に決定したため、日本をもっと知ってもらおうという趣旨。毎週、日本のどこかに連れて行かれ、ヒッチハイクなどでの1週間後の日本テレビの「電波少年」の収録に間に合うようにするという企画。唯一電波少年と連動した企画だった。
- 毎回東京には時間までには着いたものの、1回だけ日本テレビに早く来すぎて時間つぶしで社内で仮眠をとっていたところ寝過ごしてしまい、収録に遅刻したことがあった。そのとき「(旅先だった)青森遠いよ。」とウソをついていた。
- 雷波少年系ゴミ生活(の旅)
- 雷波少年系鉄棒少女
- 鮒子のViva★特売!
- 椿鮒子が関東各地から集められたチラシからその日の特売で一番安い食材を自転車を飛ばして買ってくるという内容。くじ引きでその日の料理を決め、食材を買いに出かける。どこか1件でもお店が閉店してしまったり、閉店してなくても希望の食材が売り切れ、あるいは一番安いもの以外のを買ってきてしまった場合は残りの食材と一緒に没収されてしまう。ゴールは浮いたお金の合計がディズニーランド家族4人分の入園料となったとき。東京ディズニーランドの入園料となったときに一旦終了。ごほうびでディズニーランドへ行くことに。しかし、ディズニーランドは東京ディズニーランドのことではなく、ディズニーランド・パリであった。実際にパリに連れられた鮒子はディズニーランド・パリの入園料は東京ディズニーランドの入園料よりも安いが、着く直前で鮒子が「お腹が空いた」と言ったためスタッフがわざわざハンバーガーと飲み物を鮒子+マネキンの家族3体分を鮒子が集めたへそくりで払ったため、結果現地でも企画を行うこととなった。
- 鮒子のViva★タダ食い!
- 雷波少年 椿鮒子が結婚式場へ出向き、欠席者分の食事目当てに結婚式へ参加しながら自転車で鹿児島から北海道まで向かうというもの(結婚式場では欠席者分の食事は衛生上の観点からそのまま捨てられてしまう。その勿体無さを鮒子が食べるというものだった)。ゴールの稚内では自身の結婚披露宴を行った。結婚相手の鮒男は長年の交際があった放送作家である。
- 雷波少年ファイナル企画ラストソング
- 日韓共催で行われた2002 FIFAワールドカップにちなみ、熊本県出身のアマチュアバンドメンバー鳴海一幸、韓国人女性グループJEWELRYのリーダー、パク・ジョンアー、在日韓国人3世の秦昌寛(チン・チャンガン)の3人がバンド「Asian H」を結成、シンガポールからソウルへ向かう過程で曲を作り、ソウルでのライブで披露する企画。最終回となった雷電為右衛門千秋楽ではSomething ELse、Bluem of Youthと共にライブを行った。この企画で作られた「LAST SONG」は日韓ワールドカップ公式アルバムに収録された。また、この企画は韓国SBSでも同時放送された。音源は現在ソニーミュージックに版権があり、Moraで配信されている。
- 雷波少年系夫婦交換(もちろん精神的に)
- あゝ日本海、ウクレレ夫婦旅
- ウクレレえいじとその妻がウクレレのライブをしながら日本海の沿岸を旅する。10万人以上を動員しないと2人は離婚しなければならない(「夫婦交換」で「売れなければ離婚」と妻が言ったことに由来)。総動員数は13万人程度となり、離婚は免れた。
- 雷波少年刑事
- 電波少年刑事から継続。ビビるの上司として「刑事長ロバコップ」(ロシナンテ)が出演した。この企画の始まりは、電波少年のスタッフルームで目隠しをされたビビるが、局内のエレベーターに乗って雷波少年のスタッフルームに連れて行かれるというもので、企画開始時の拉致で最も短い距離だった。
- 雷波少年系遊園地『後ろ楽しいガーデン』
- チューヤンが遊園地をプロデュースするというもの。1999年夏季に後楽園ゆうえんち(現:東京ドームシティアトラクションズ)の中でアトラクションを展開した。「後ろ楽しいガーデン」の由来は当時まだ日本語に乏しかったチューヤンが後楽園のことを「後ろ楽しいガーデン(園)」と呼んでいたことによる。
など
[編集] NNS系列局での放送
- 札幌テレビ放送では番組開始当初は同時ネットで放送されていたが、2001年10月以降は自社製作番組「北、再発見」がこれまでの7:30からこの時間帯に移動したため同日時差ネット放送(13時台)となった。ただ、同時ネットでも「よさこいソーラン祭り」の特別番組があるときはこのときに限り時差ネットで放送されていた。
- 青森放送では番組開始当初、この番組の放送はなかったが、スーパーJOCKEY終了後の1999年4月から同番組が放送されていた日曜13時に時差ネットで放送を開始した。
- 北日本放送も同じく番組開始当初は放送がなかったが、1999年1月から木曜深夜に11日遅れで放送を開始し、4月からは日曜13時から同日遅れネットを開始(その後の改編で日曜17時に移動)。
- 広島テレビも開始当初はネットすらされていなかったが、開始から半年くらいから2週遅れでネットを始め、そこから1週遅れに短縮、同時ネットと段々変わっていった。
「雷波少年系ラストチャンス」の企画の中で、1998年11月頃の時点で放送が無かった地域(青森、富山など)をSomething ELseがストリートライブをして周った。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 電波少年企画リスト(ファン作成)
日本テレビ系 日曜日10:55~11:25 | ||
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