チューヤン
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チューヤン | |
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出生 | 1972年8月4日 |
職業 | タレント、グラフィックデザイナー、ラジオパーソナリティ。 |
各種表記 | |
簡体字 | 谢昭仁 |
繁体字 | 謝昭仁 |
ピン音 | チーウヤン |
発音転記 |
チューヤン(本名: 謝昭仁 Zhe6 Zhiu3yan4(チェ・チーウヤン)、1972年8月4日 - )は、香港のグラフィックデザイナー、ラジオパーソナリティ。1998年~2005年2月の間、日本でタレント活動をしていた。当時の所属事務所はRING。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 香港での活動
香港のDJユニット「軟硬天師」の1人と、歌手の「グラスホッパー」が共同で設立した「ダブルエックス」や「ウィン・シャ WING SHYA」が主宰する香港のデザイン会社「シャララ・ワークショップ Shya-la-la workshop」に所属し、CDジャケットなどのデザインを手がけていた。
1994年には新城ラジオ、1996年には商業ラジオに入局。商業ラジオでは毎日「無字頭七八九」という番組を担当し、街頭インタビューや視聴者参加型のゲームを取り仕切っていた。
[編集] 日本メディアでの活動
1998年、バラエティ番組「進ぬ!電波少年」の企画で、伊藤高史と共にアフリカ・ヨーロッパ大陸縦断のヒッチハイクに挑戦するパートナーのオーディションに参加。「自分の人生を変えたいんです」との言葉が決め手となり、100人以上の志願者の中から選ばれた。2人のチーム名は広東語で『親友』を意味する朋友(パンヤオ)と名づけられた。母語である広東語と日常会話程度の英語を話し、ヒッチハイクでは彼の英語が多くの場面で役に立っていた。アフリカ・喜望峰からノルウェー・スレットネス灯台まで、22,170km、290日に及ぶ大陸縦断ヒッチハイクに成功した。この企画でブレイクし、知名度も急速に上がっていった。
当初は日本語は全く理解しなかったが、旅の期間中に伊藤高史から少しずつ教わり、旅の終盤ではカタコトの日本語を話せるようになっていた。その広東語訛りの口調が魅力となり、日本での芸能活動の中で定着した。
1999年1月、「進ぬ!電波少年」の司会者となり、番組の企画へも頻繁に参加させられた。また、『雷波少年』の企画「チューヤン・ジャパンツアー」も同時に行っていたため、全国を旅しながら司会の仕事のために東京までスタッフの手助けなしで戻る、という日々が続いた。
1999年4月にジャパンツアーが終了すると、それまで司会者のいなかった雷波少年の司会者に就任。その後ボツ企画となったが、ミッチー・サッチー騒動で野村沙知代側の記者も経験する。同年10月からは「電波少年的80日間世界一周の旅」に真中瞳と共に挑戦し成功させた。
2000年、「プロ野球~東京ドーム 巨人×中日」で、応援していた読売ジャイアンツの敗北を受け、「進ぬ!電波少年」の「アンコールワットへの道の舗装」企画への1ヶ月の応援参加を任命される。これは本人の希望で2ヶ月に延長された。
また、「雷波少年系 後ろ楽しいガーデン」という後楽園遊園地での企画のプロデュースを任された。Something ELseにテーマ曲を依頼し、完成した「あいのうた」は後楽園ホールで披露された。
2005年2月、「父親の体調が良くないので、そばにいてあげたいと思った」として日本の芸能界を引退した。現在は香港で再びラジオパーソナリティとして活動している。
『田舎に泊まろう!』の仕事が、落ち込ませた原因といわれている。引退して帰国する際梨元勝に成田空港で質問され、「勉強になったし、楽しかった」と語った。
[編集] テレビドラマ
- 新・俺たちの旅 Ver.1999 (1999年、日本テレビ)
- コウノトリなぜ紅い(2001年、NHK)
- まんてん(2002年10月~2003年3月、NHK連続テレビ小説)
- 動物のお医者さん(2003年4月~2003年6月、テレビ朝日)
- 彼女が死んじゃった。(2004年、日本テレビ)