遥くらら
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遥くらら(はるか くらら、本名山崎久美子(やまさき・くみこ※山崎は旧姓)1955年11月9日 - )は元宝塚歌劇団星組・雪組娘役トップスターで元女優,現在は主婦。
神奈川県横浜市出身。宝塚時代の愛称モック(フジテレビアニメ『樫の木モック』のタイトルロールに顔立ちが似ていたからという。)
芸名は矢代静一が命名。
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[編集] 来歴・人物
当時花組男役トップスターであった甲にしきに憧憬し宝塚を志す。受験当初からスターとしての華があり、面接官らが一目見て合格を決定したと言う。
1974年、宝塚歌劇団に入団。星・花組合同公演『清く正しく美しく/虞美人』で初舞台。同期に磯野千尋、現女優の大浦みずき、同じく剣幸らがいる。
入団当初は男役だった。その後星組に配属される。
1975年、TBSのテレビドラマ『加奈子』の主役に抜擢され出演。以降も『おゆき』(1977年)や『1年B組新八先生』(1980年)などに出演。
1977年5月、『風と共に去りぬ』でスカーレット・オハラ役より、鳳蘭の相手役として娘役に転向し星組のトップ娘役に就任。公称166cmの身長は娘役としては当時、異例の長身だった。鳳とは『誰が為に鐘は鳴る』『白夜わが愛』(五木寛之原作『朱鷺の墓』より、鳳サヨナラ公演)などの大作を成功させた。
1979年鳳の退団後、瀬戸内美八と『アンタレスの星/薔薇パニック』(本公演)『心中・恋の大和路』(バウホール公演、初演)で短期間だけコンビを組んだ。
1980年に、新トップスターとなった麻実れいの相手役として雪組に組替え。両者とも美貌・長身、従来のヅカファン以外にも絶大な知名度・集客力を誇ったことがコンビ結成の決め手となった。麻実とのコンビは、抜群の華と美貌・存在感・息の合った演技からゴールデンコンビと謳われた。男役二番手-前半の'80~'82寿ひずる(『ジャワの踊り子』『彷徨のレクイエム』など)、後半'83~平みち(『うたかたの恋』など)-にも恵まれ数々の名作を成功に導いた。
1984年7月29日の、再演『風と共に去りぬ』東京公演千秋楽を最後に退団。サヨナラショーが2日間にわたって行われたのは、娘役として史上初だった。遥の退団後、雪組は翌年の麻実退団までトップ娘役を特定せず空位とした。
退団後も東宝芸能に所属して女優として活動していたが、求婚相手から家庭に専念してほしい旨懇願され、完全引退し結婚。表舞台から去った。(ただしごくまれだが宝塚関連の出版物等のインタビューには応じたりはしているようである。)
[編集] 宝塚時代のスター像
当時の娘役としては破格の長身であったが化粧栄えのする上品ですっきりとした顔立ちが好評を博した。
ただし在団中はダンスや歌の評価は高くなかったようである。(雪組の大先輩岸香織のコラムで"モック殺すにゃ刃物はいらぬ、歌があればよい"の旨記述があった程で、特に歌唱力には課題があったようだ)
[編集] 主な舞台
[編集] 宝塚星組時代
- 『風と共に去りぬ』(1977年)(スカーレット・オハラ役)
- 『テームズの霧に別れを/セ・マニフィーク』(1977年)
- 『誰が為に鐘は鳴る』(1978年)
- 『いのちある限り』(1978年)(バウホール公演)
- 『宝花集/セ・シャルマン!』(1978年)
- 『アンタレスの星/薔薇パニック』(1979年)
[編集] 宝塚雪組時代
- 『花の舞拍子/青き薔薇の軍神』(1980年)
- 『彷徨のレクイエム』(1981年)
- 『かもめ翔ぶ海/サン・オリエント・サン―太陽讃歌―』(1981年)
- 『ジャワの踊り子』(1982年)
- 『パリ変奏曲/ゴールデン・ドリーム』(1982年)
- 『うたかたの恋/グラン・エレガンス』(1983年)
- 『ブルー・ジャスミン―砂漠の愛―/ハッピーエンド物語』(1983年)
- 『風と共に去りぬ』(1984年)(スカーレット・オハラ役)
[編集] 宝塚退団後
- 『細雪』(1985年~1990年)
- 『オセロ』(1988年)(デズデモーナ役)
[編集] 映画
- 『子象物語 地上に降りた天使』(1986年)
- 『お吟さま』(1978年)
[編集] テレビ
[編集] コマーシャル
[編集] 外部リンク
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