荒岩亀之助
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荒岩 亀之助(あらいわ かめのすけ、1871年2月29日 - 1920年9月3日)は、鳥取県西伯郡大山町出身の大相撲力士。最高位は大関。本名は山崎徳三郎。現役時代の体格は170cm、108kg。
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[編集] 来歴
林業従事者の二男として生まれ、家業を手伝ううちに腕力と強靱な足腰が備わったといわれる。当初は大坂相撲の陣幕部屋(現在の年寄名跡は北陣に変更)に入門して「真竜」の四股名で取っていたが、ある時風呂で兄弟子の背中を流していたところ「流し方が悪い」と殴られたのに腹を立てて大坂相撲を脱退、上京して元大関大戸平の尾車に入門、明治27年(1894年)1月場所に三段目付出で東京相撲での初土俵を踏んだ。
もともとの資質に猛稽古で磨きをかけ、入門からわずか2年後の明治29年(1896年)5月場所に十両に昇進、このとき四股名を「荒岩」と改めた。十両は1場所で通過し明治30年(1897年)1月場所で入幕した。いきなり横綱小錦を破って7勝1敗1分の好成績を挙げると翌場所も小錦を撃破、3場所目の明治31年(1898年)1月場所小結、翌5月場所関脇と瞬く間に昇進を重ね、以後前頭筆頭に落ちた2場所を挟み7年半にわたって三役に座り続けた。当時は優勝額掲額制度の導入前だが、幕内最高優勝に相当する成績を、入幕2場所目から明治34年(1901年)5月場所までの4年8場所間に4回記録している。にもかかわらず大関に昇進できなかったのは2代梅ヶ谷、大砲と2大関が上位に在ったこともあるが、当時は小さい力士は大関にふさわしくないという考えが根強かったことが荒岩に不利に働いたとされている。
大関昇進は明治38年(1905年)5月場所、國見山と同時昇進だった。小結から1階級飛び越しての昇進だが、明治37年(1904年)1月場所で梅ヶ谷、常陸山が横綱に昇進、大関空位(梅ヶ谷、常陸山が横綱大関となる)となって4場所目のことだった。新大関の場所で9勝無敗(当時幕内力士は千秋楽(10日目)に出場せず)、5度目の優勝相当成績を挙げたが以後は持病のリウマチが悪化したため衰え、明治42年(1909年)1月場所を最後に引退した。引退後は年寄・8代花籠を襲名、大正9年(1920年)の死去まで門弟の育成に努めたほか、検査役を務めた。
小兵ながら腕力、足腰が強く、機敏で激しい千変万化の取り口だった。突っ張りよし、はず押しよし、出足、引き足は自由自在、技も多彩で特に蹴手繰りは絶品だったといわれる。男前で風格があり、仕切り姿は天下一品とされた。優勝相当5回という成績、幕内成績も8割を越えていて、「梅・常陸」時代の一方の雄・常陸山とは対戦成績2勝4敗[1]。常陸山から2勝以上した力士には他に梅ヶ谷・太刀山・鳳らの横綱[2]が並ぶことからも、荒岩の力量が推し量れる。前述したような事情があり横綱になれなかった悲運はあるが、間違いなく明治後期の東京相撲を代表する実力者の一人である。同時期の関脇逆鉾と共に名人ぶりを謳われ、その強さは「摩利支天の再来」と讃えられた。大坂相撲で活躍していた國岩(のち東京に出て小結両國)と「東西の両岩」ともいわれた。なお、鳥取県出身の大関は、その後昭和42年(1967年)の琴櫻まで現れず、平成20年(2008年)現在も荒岩・琴櫻の2人のみである。
[編集] 主な成績
- 幕内在位:25場所
- 幕内成績:120勝29敗10分3預88休 勝率.805
- 優勝相当成績:5回(1897年5月場所、1889年5月場所、1900年5月場所、1901年5月場所、1905年5月場所)
- 金星:3個(小錦2、常陸山1)