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第二次上海事変 - Wikipedia

第二次上海事変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

第二次上海事変
A National Revolutionary Army machine gun nest in Shanghai
中華民国国民革命軍の機関銃陣地
戦争日中戦争
年月日1937年8月13日 - 10月26日
場所中国上海
結果:日本軍の勝利、南京攻略戦
交戦勢力
中国国民革命軍 帝国海軍第三艦隊
上海特別陸戦隊
上海派遣軍
第10軍
指揮官
張治中
蒋介石
陳誠
長谷川清海軍大将
松井石根陸軍大将
柳川平助陸軍中将
戦力
約600,000名、
航空機200機
約250,000名、
航空機500機、
戦車300両、
軍艦130隻
損害
~20万 数万
日中戦争
盧溝橋 - 平津 - チャハル - 上海 - 四行倉庫 - 太原 - 山西 - 南京 - 徐州 - 武漢 - 広東 - 南昌 - 襄東 - 湘 - 桂南 - 宜昌 - 百団大戦 - 漢水 - 予南 - 上高 - 晋南 - 一次長沙 - 二次長沙 - 浙 - 鄂西 - 常徳 - 大陸打通 - 長衡 - 桂柳 - 豫西鄂北 - 湘西

第二次上海事変(だいにじしゃんはいじへん)とは、1937年昭和12)8月13日から始まる国民党軍の上海への攻撃とそれに続く日本軍の反撃である。

盧溝橋事件により始まった華北(北支)での散発的戦闘に続いて、これ以後華中(中支)において中国内陸部に侵攻し、中国全土に日中戦争が波及した。

1932年(昭和7)1月28日に起きた上海事変に対してこう呼ぶ。

目次

[編集] 発生の背景

発生の背景には異見が色々あるので、主だった見解を2つ挙げる。見解1は蒋介石の意向を述べた日本軍上海引き付け作戦であり、見解2は、見解1を含む当時の状況を総括した見解である。

【見解1】

この戦闘の背景には、蒋介石の、万里の長城以南の中国に対する統一を守る(蒋介石は当時満州における領土主張は撤回してもよいと考えていた)ために、日本軍を華北から撤兵に追い込むという戦略があった。このとき既に日本は華北分離工作によって華北にその影響力を強めており、これは国共内戦を戦う蒋介石にとっては国民の支持を得続けるためにも容認できない事態であった。
この戦略の基礎となったのが1930年代における独中間の軍事支援協定である。1934年からドイツの中国国民党への投資が続いており、ドイツ製の軍需物資が輸出され、第一次世界大戦型の要塞線「ゼークトライン(チャイニーズヒンデンブルクラインとも)」が上海の西方の非武装地帯に上海停戦協定を違反して築かれた。又、継続的に参謀も派遣され、当時ドイツからの軍事顧問として国民党で働いていたファルケンハウゼンの計画にそって、国民党軍は上海租界を攻撃し、日本軍を要塞線にひきつけようとした。
この作戦は、上海に駐留する日本軍を攻撃により挑発して要塞線で出血を強いる事で、日本国内の対中干渉世論を転換させる事が目的であった。第一次世界大戦で得られた軍事的経験に従えばこれはあまり冒険的でない作戦計画であり、だからこそ蒋介石も採用したと思われる。

【見解2】

前月7月7日に起きた盧溝橋での日中両軍の衝突は停戦協定で収まったが、その後の中国各地で日本軍への挑発行為は続いた。8月17日上海地区の警備司令官である張治中が率いる政府軍が日本軍の攻撃を口実として、日本軍艦艇を攻撃した。
その結果日中両軍は全面戦争に突入してしまい、共産軍解散を目論んでいた蒋介石は方針を変えざるを得なくなった。国際世論に訴えるためにソ連と不可侵条約を結び(8月21日)、共産党と妥協して統一戦線を作って(9月22日世に言う第二次国共合作)、上海戦線に精鋭部隊を送り込まなくてはならない状況に追い込まれた。
国民政府軍の精鋭部隊は上海から南京に続く約4ヶ月の先頭で殆ど壊滅状態になり、政府軍はその後の共産党との内戦にも敗れることになった。

[編集] 大山事件発生前の上海の状況

1937年(昭和12年)7月7日盧溝橋事件を発端に、同月28日に至り日中両軍は華北において衝突状態に入った(北支事変)。上海では1935年(昭和10年)ごろから中国人による日本人暴行・殺害事件が発生していたが、7月24日に宮崎貞夫一等水兵が行方不明となったため、上海市民は第1次上海事変を想起し、共同租界地やフランス租界地へ避難する市民まであった。

この事件は当初、中国人に拉致された事件と報道され、日本は神経を尖らせた。しかし、この事件は宮崎水兵が軍紀違反の発覚を恐れて逃亡したという真相が後に明らかになった。

[編集] 大山事件

事件の発端は1937年8月9日に起こった、海軍上海特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉海軍兵学校第60期卒業、死後海軍大尉に特進)が関係した銃撃事件である。この日も日本と中華民国の間で盧溝橋事件以来続いていた、日華間の緊張を改善させるための閣僚級会談が開かれていた。

8月9日、大山中尉は斎藤要蔵一等水兵を運転手として(彼は大山のお抱え運転手であったが)上海の虹橋飛行場に向かった。午後6時半ごろ、共同租界のエクステンション(国際的な自由通行路)であったモニュメントロード(日本側呼称「記念通り」、中国側呼称「碑坊路」)において、中国保安隊(平和維持部隊)の隊員との間で銃撃戦が起こった。

[編集] 日中両国の報道

『大公報』1937年8月10日号は次のように報道している。8月9日午後5時半、日本海軍将兵2名が自動車に乗り虹橋飛行場に来て、場内に進入しようとした。飛行場の衛兵はこれを阻止しようとしたところ、日本軍側は発砲し始めた。衛兵は、日本軍とのトラブルを避けるように注意を受けていたので、これに反撃せずに退避していた。ところが、付近の保安隊が銃撃を聞きつけ出動した。これに対し、日本軍側がさらに発砲を行ったことで銃撃戦となり、保安隊員1名と日本人1名がその場で死亡し、日本人1名が重傷の後死亡した。

1937年8月11日の『東京朝日新聞』では、前日の日中合同調査(後述)を受けた海軍省からの発表を元に、中国側から銃撃を受けたこと、大山中尉は武器を所持していなかったこと、中国側に停戦協定違反があったことなどが報じられた。

[編集] 事件後の動き

この銃撃戦によって大山中尉、斎藤水兵および中国保安隊員1名が死亡した。この事件の報告を受け、喩上海市長は岡本上海総領事に、周珏外交部秘書は日本海軍武官本田に問い合わせをした。日本側は当初、日本軍将兵が虹橋飛行場に行くはずがないと主張した。中国側は、日本軍が事件以前から虹橋飛行場付近の偵察などを行い守備兵との衝突がおこっており、書面による抗議、再発防止を求めていたことを指摘するとともに、事態の拡大防止、事件の調査、外交交渉による解決を要請した。最終的に日本側も偵察であった事を認め[要出典]、また、要請に同意して中国側と共同調査を開始した。

8月10日に日中共同の公式調査が行われた。日本上海領事および駐在武官・上海市政府秘書長・警備部司令部副官・上海工部局局員(英国人)等が参加した。中国側の直接関係者(射撃を行った保安部隊)に関した調査は行えず、死亡した保安隊員は回収され検分出来なかった。中国側の主張は二転三転し、日本側は車体の弾痕が遠距離・近距離入り乱れていることから、保安隊が待ち伏せをし奇襲を行ったと断定した。また、大山は全身に30発以上の銃弾を打ち込まれた後、死体に対し頭部・腹部などに刃物・鈍器により損傷を与えたと検分された。また彼の靴、札入れ、時計などの貴重品が奪われたという。

同日、上海のノルウェー総領事アールは、在上海各国領事に対し領事団会議を開催することを求めた。当初、日本総領事岡本は固辞したものの、再三の歓説により出席することになった。この会議で日本代表が事件の詳細を発表し、中国保安隊は国際租界とフランス特権区域に接する地域から一次的に撤退すべきであると提案した。[要出典]英米仏伊代表は賛成し、上海市長も実現する為にできる限りのことをすると約束した。これを受け、海軍の長谷川清中将は国際租界内の海軍司令部に対し、平静を保つように命令した。またこの日には、海軍陸戦隊には上陸命令はだされなかった。

8月11日、上海市長が日本領事に電話をかけ、「自分は無力で何もできない」と通報した。危機を感じた日本は同日夜、陸戦隊1支隊を予防のために上陸させた。

8月12日未明、中国正規軍本隊が上海まで前進、国際共同租界の日本人区域を包囲した。このため、日本領事は国際委員会を再び招集し、中国軍の撤退を要求した。

[編集] 戦闘の開始

8月13日未明、包囲した中国軍は国際租界の日本海軍陸戦隊と交戦を開始した。陸戦隊は戦闘区域が国際区域に拡大しないよう、防衛的戦術に限定したほか、中国軍機が低空を飛行したが陸戦隊は対空砲火を行わなかった。列強各国の調停の申し出を期待したためである。

英米仏の各領事は日中双方に申し入れを行い、上海での敵対行動を回避する為に直接交渉を行うことを勧めた。また、回避案として以下を提案した。この提案原文が東京に届いたのはこの日の深夜であった。

  1. 中国軍は国際共同租界とフランス特権区域から撤退する。
  2. 日本軍は国際租界から撤退する。
  3. 中国軍撤退地域は多国籍軍が治安維持を行う。

会議中であった13日の午後から国民党軍機による空からの攻撃が開始された。これに対し、黄浦江の日本艦隊は中国軍陣地に砲撃を加えた。

長谷川清海軍中将(海軍上海特別陸戦隊及び第三艦隊司令)は、当初戦争回避を考えていたが、7月からの華北での戦火拡大から考えて、中国軍すでに開戦を意図していると察した。そこで主戦論に切り替えて、5個師団の増援を日本政府に要求した。しかし政府は北支の収拾に気をとられ、1個師団の増援にとどまった。

8月14日、上海租界内の帝国海軍上海陸戦隊が国民党軍の攻撃にさらされる。しかし、この攻撃は国民党軍が砲を随伴しなかった(もしくは保有しなかった)ため失敗に終わり、日本軍の反撃を招いた。重火器の欠乏から18日には国民党軍は攻撃を停止する。

さらに国民党軍機が日本艦隊を空襲したが、この爆撃によって周辺のフランス租界や国際共同租界にも爆弾が落ち、民間人に2000人ほどの死傷者が出た事に対し、国民党政府は遺憾の意を表明した。しかし、租界への爆撃、もしくは誤爆はその後も発生した。又、国民党系メディアが爆撃は日本軍機によるものであると報道したこともあった。

8月15日、日本政府は、国民党軍が上海において日本側に対しての砲撃、さらには日本の軍艦に対しての爆撃まで行ったことから14日夜から緊急閣議を開き、それまで日本側が取ってきた事態の不拡大政策を見直し、15日未明、「支那軍膺懲、南京政府の反省を促す」との声明を発表した[1]上海派遣軍が編制され、松井石根大将が司令官となる。日本海軍は、この日より九州から中国本土への航空機による空襲(いわゆる渡洋爆撃)を開始し、戦闘の激化と共に飛行機を輸入に頼る国民党軍を駆逐し、上海周辺の制空権を掌握していく。

8月18日、英政府が日中両国に対し、「日中両軍が撤退し、国際租界とその延長上の街路に居住する日本人の保護を外国当局に委ねる事に同意するならば、英政府は他の列強諸国が協力するという条件の下で責任を負う用意がある」と通告した。仏政府はこれを支持、米政府もすでに戦闘中止を要求していた。

しかし、既に本格的な戦闘に突入していた日本政府は、これを拒否。国民党政府が協定違反による開戦意思を持っている以上、日本はそれと対決する以外ないと判断し、日本は全面戦争への突入に踏み込んだ。このときまでに、各国の租界の警備兵は大幅に増強され、各地域はバリケードで封鎖して中国軍と対峙したが、中国軍も列強と戦争を行うつもりは無かったので、租界への侵入は行わなかった。日中の衝突が列強の即得利益を脅かしかねないと感じた列強各国はこの事件において中立を表明した。

8月22日、上海派遣軍の帝国陸軍3個師団が、上海北部沿岸に艦船砲撃の支援の下で、上陸に成功。

その後9月上旬には上海陸戦隊本部前面から国民党軍を駆逐。同時期に中国側は、第二次国共合作を成立させ、又、華北の日本軍の南進が開始された。

10月10日、上海派遣軍はゼークトラインに攻撃を開始、2日後には各所で突破に成功した。

10月26日に上海近郊の要衝大場(Dachang)が陥落、国民党上海攻囲軍は以後南京への全面壊走に入った。

[編集] 国民党軍機による上海空爆

中国軍主力戦闘機 カーチス・ホークII
中国軍主力戦闘機 カーチス・ホークII
国民党軍機から爆撃を受けたキャセイホテル前の惨状
国民党軍機から爆撃を受けたキャセイホテル前の惨状[2]

1937年8月14日の朝、3機の中国軍機が黄浦江にいた日本の第三艦隊の旗艦巡洋艦出雲上空を飛行し、爆弾6個を落とす。5個は川に落ち、巨大な水柱を起こし、1個の爆弾は、ジャーディン・マセソン社の倉庫に当たる。出雲ともう1隻の軍艦川内は高射砲の一斉射撃2回で援護しながら各々艦載機(九五式水上偵察機)を飛ばした。

同日午後4時、南からカーチス・ホークIIを主力とする中国軍爆撃機の中隊が飛来し、フランス租界と国際共同租界を横切って再び日本の軍艦への攻撃を開始、日本側は高射砲の射撃を続ける。10機の中国軍爆撃機が雲の内外を飛び回り、迎撃する2機の日本軍機は常に空中にいたが、射程距離に到達するには速度が遅く、目標に達するために旋回と出直しを繰り返す。

やがて1機の中国軍爆撃機から2つの爆弾がチベット通りが国際共同租界とフランス租界との境界線であるエドワード7世大通りと交差する場所に落とされる。直ちに巨大な炎が起こり、激しい爆発となり、450人の命を奪い、5人の外国人を含む850人を傷つけ、12台の自動車を破壊。さらにもう一対の爆弾がキャセイホテルとパレスホテルの間に落とされる。爆発で12人の外国人を含む数百人以上が死傷[3]

およそ1,000ポンドの重さだったと見られる爆弾が半径50メートルの範囲を壊滅させた。犠牲者の大部分は、その服は完全に引き剥がされ、体はバラバラにちぎれた。遅延起爆型と思われるひとつの爆弾はその爆発力による周囲への損害は限定的ながらコンクリート、石敷、及び固めた地面の層を通して通りに幅3メートル、深さ2.4メートルのクレーターを造った。

中国軍爆撃機の攻撃は黄浦江の呉淞近くにいた英国巡洋艦カンバーランド(Cumberland)及び合衆国アジア艦隊旗艦である重巡洋艦オーガスタ(Augusta)の2隻にも向けられた。爆撃機2機の急降下はカンバーランド上空で行われたが、パイロットによる水平飛行への移行操作が早すぎ爆弾を誤った方向に向けたため攻撃は失敗。中国軍機は悪天候のため両方の艦船を日本の艦船と間違えたと判断し、どちらの艦からも発砲はなかった。

日本艦の対空砲火により中国軍機は爆撃には高すぎる場所にいることを強いられ、その爆弾を目標近くに落下させることができなかった。しかし、ひとつの爆弾は黄浦江の浦東側のアジア石油社の設備に当たり、一晩中燃え続ける火災を起こした。この日の戦闘において日本軍の艦載機と艦船の高射砲により中国軍機3機が落とされている[4]

[編集] 南京への追撃

10倍近い敵軍を壊走させた上海派遣軍は、10月20日に編制された第10軍(柳川平助中将)とともにすかさず追撃に入った。又、平行追撃と同時に敗軍の包囲のために南京を包囲する構えを見せた。当初、参謀本部は和平交渉を行う為の相手政府を失う恐れから、最初南京進撃を中止するよう下令したが、のちに現地軍の方針を採用し南京包囲を追認した。

ドイツの軍事顧問ファルケンハウゼンは、要塞線が突破された時点で南京から撤退すべきだと主張したが、蒋介石は南京市街での防衛戦にこだわったので、多くの兵力が南京周辺で日本軍に包囲された。少なくとも国崎支隊を中心とする包囲部隊が揚子江の対岸、浦口方面に進出する前に撤退を指示していれば、南京での国民党軍の損害は少なく抑えることが可能だった。

これ以後の南京付近での戦闘は南京攻略戦を参照のこと。

[編集] 補足

  • 第二次上海事変の間、両国は互いに宣戦布告を行っていない。日本は米国からの資源輸入、中華民国も米国など中立国からの軍事援助を維持するために、それぞれ宣戦布告をするわけにはいかないという皮肉な事態があった。中華民国が日本に宣戦布告したのは、日本が米国および英国に宣戦布告した翌日の1941年12月9日であった。
  • また、国民党軍は日本軍に比べて弱体であったと思われがちだが、当時ドイツと国民党は中独合作と呼ばれる軍事協力を行っており、上海攻撃に参加した国民党軍はチェコやドイツ製の強力な機関銃などを装備していた。しかしながら補給や戦略予備の投入に関する関心は日本軍のそれよりも更に低く、各軍が連携出来ないまま突破・包囲されたと考えられる。
  • 第一次世界大戦の軍事的常識から言えば[要出典]、市街の守備が不可能になった時点で軍は撤退し、市長が敵軍に降伏交渉を行う。占領軍も市街攻略・防御には多大な犠牲が軍民に伴うためにこれを容認するのが普通である。

[編集] 第二次上海事変を描いた作品

[編集] 脚注

  1. ^ 『東京朝日新聞』1937年8月15日付朝刊、2面
  2. ^ ノース・チャイナ・デイリー・ニュース、1937年8月15日
  3. ^ ロンドン・タイムズ紙、1937年8月16日、"1,000 DEAD IN SHANGHAI/DEVASTATION BY CHINESE BOMBS"
  4. ^ 支那事変実記 第1輯(読売新聞社、1941年)

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 参考文献

  • 洞富雄『南京事件』(新人物往来社、1972年4月25日)
  • 『現代史資料(12) 日中戦争(四)』(みすず書房、1965年12月15日)
  • 『Japan in China シナ大陸の真相 1931~1938』K・カール・カワカミ著、福井雄三訳著(展転社、2001年1月7日)ISBN 4-88656-188-8
  • 「上海狂想曲」高崎隆治(文春新書 2006年8月20日)

[編集] 外部リンク


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