陳誠
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陳誠 | |
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陳誠 |
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出生 | 1897年1月4日 中国浙江省青田縣高市 |
死去 | 1965年3月5日台湾台北市 |
職業 | 政治家、軍人 |
各種表記 | |
簡体字 | 陈诚 |
繁体字 | 陳誠 |
ピン音 | Chén Chéng |
和名表記 | ちん せい |
発音転記 | チェン チェン |
ラテン字 | Chen Cheng |
英語名 | Chen Cheng |
陳誠(ちんせい、ピン音: Chén Chéng、1897年1月4日-1965年3月5日)は中国の政治・軍事の指導者、日中戦争と国共内戦における中国国民党の主要な指揮官のひとりである。字は辭修。国共内戦後に台湾に移ってからは、中華民国の行政院院長、副総統として働いた。蒋介石の下、土地改革計画立上げを支援し、死後も評価されている。
目次 |
[編集] 若年期
浙江省青田縣生まれ、1922年保定陸軍軍官学校卒業、2年後黄埔軍官学校に入学。その校長であった蒋介石と初めて会う。陳誠は後に国民革命軍に入り、北伐に参加した。
[編集] 軍人としての出世
北伐において陳誠は卓越した指揮振りを発揮した。征圧の1年以内に陳誠は大隊指揮官から師団指揮官に昇進したが、これは国民革命軍では異例のことである。 北伐後、陳誠は軍閥との戦いを開始し、その功績により再び昇進し18軍軍長となった。
[編集] 共産主義者掃討作戦
1931年初頭、陳誠は赤軍掃討を命じられた。陳誠は赤軍の主力部隊を追った様々の作戦で大きな損害を被った。陳誠は共産主義者に対しての5回目の作戦でようやく共産主義者を破り、赤軍に叙事詩的な長征を強いた。 侵略していた日本軍に対して蒋介石と彼の幹部が共産主義者と協力することの合意を強いられた西安事件後、赤軍への作戦は終了した。
[編集] 日中戦争
陳誠は1938年、武漢会戦指揮のため湖北に移動した。武漢は中国陸軍の省における本拠地だった。日本軍は大きな犠牲を出しながら中国軍を破り、1938年10月25日武漢を占領した。 戦争後期、陳誠は長沙会戦、枣宜会戦、及び鄂西会戦の指揮を続けた。1943年、陳誠はビルマ地区への中国派遣軍指揮官に任命されたが、後に病気のため衛立煌と交代した。
[編集] 国共内戦
日中戦争後、陳誠は参謀本部参謀総長になる。蒋介石に従い、国共内戦を開始した赤軍が"解放"した地区への攻撃を始めた。 1947年には満州において共産主義者と戦う中国国民党軍を指揮するために満州に入ったが、いくつかの大敗を喫し、150万以上の兵力を失ったため1948年に解任された。
[編集] 台湾での活動
国民党が中国本土を失うことは明らかだったため、1949年蒋介石は台湾の安定化のために陳誠を台湾省政府主席に任命した。国民党が台湾に移った後、陳誠は国民党副総裁、中華民国副総統、及び行政院長などの要職を続けた。 台湾時代の陳誠は土地の開墾、経済改革および台湾の再建を展開した。 陳誠は、1965年に肝腫瘍のため死亡。遺灰は陳誠記念館のある台北記念公園に収められた後、1995年8月高雄県の佛光山に移された。
[編集] 家族
陳誠は譚延闓の娘の譚祥と結婚した。陳誠と譚祥の長男の陳履安も政治家となった。