猫田勝敏
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名前 | ||
ラテン文字 | NEKODA Katsutoshi | |
愛称 | 世界一のセッター | |
選手情報 | ||
国籍 | 日本 | |
生年月日 | 1944年2月1日 | |
身長 | 179cm | |
ポジション | S | |
獲得メダル | ||
オリンピック | ||
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バレーボール | ||
金 | 1972 | 男子バレーボール |
銀 | 1968 | 男子バレーボール |
銅 | 1964 | 男子バレーボール |
猫田 勝敏(ねこだ かつとし、1944年2月1日 - 1983年9月4日)は、広島県広島市安佐南区安古市町(当時は安佐郡安古市町)出身の元日本男子バレーボール選手、 バレーボール全日本選手。
東京オリンピックから4大会連続でオリンピック出場を果たしメダルを金・銀・銅の3個を獲得、世界一のセッターと称された。
目次 |
[編集] 来歴
小学校時にバレーボールを始める。中学校時代では9人制でセンターを務めていた。崇徳高校に進み、当時の監督の稲葉正文(故人)にセッターとしての素質を見出され、全国大会で優勝を果たす。
高校卒業後に地元、日本専売公社広島地方局(現日本たばこ産業株式会社広島支店)に入社、専売広島(現JTサンダーズ)に入部した。直後に当時の全日本監督松平康隆の目にとまり、1964年、20歳で東京オリンピックに出場し銅メダルを獲得する。これ以降、猫田は全日本男子の正セッターとして不動の地位を築いていく。1968年、再び松平康隆監督の下でメキシコオリンピックで銀メダルを獲得し、翌1969年のワールドカップでベストセッター賞を受賞した。
1971年には試合中に全治2ヶ月の骨折をし、オリンピック出場が危ぶまれていたが、約8ヶ月のリハビリ生活の末、オリンピック2ヶ月前に試合に復帰する。そして1972年のミュンヘンオリンピックで念願の金メダルを獲得、日本バレーを世界の頂点に導いた。1976年のモントリオールオリンピックにも出場し4位入賞を果たした。奇策・天井サーブを編み出したことでも知られる。
1980年のモスクワオリンピック最終予選を最後に現役を引退、その年の日本リーグから監督として采配をふるっていたが、胃がんにかかり、1983年9月4日に胃の悪性腫瘍のために死去した。給料の大半を外国のバレー専門書購入に費やし、練習、合宿、遠征、試合の連続で家族を顧みることも出来ず、幻覚症状の出た死の直前の病床でも、ブロックサインを出し続けたといわれる。まさにバレーだけに一生を費やした人生だった。享年39。
猫田の偉業を記念して、1989年に猫田記念体育館が広島市に完成した。館内には、猫田の活躍を紹介するギャラリーがある。
猫田没後、盟友の大古は『全盛期、全日本が負けると「セッターの猫田の責任だ」とマスコミに叩かれ、大勝すると「攻撃陣大活躍」と言う活字が新聞に踊ったが、当時のメンバーだけは知っている。負けたのは全部アタッカーのミスで、勝った試合は全部猫田のトスのおかげだ』と語った。
[編集] 球歴
- 球歴:広島市立古市小学校→広島市立安佐中学校→崇徳高等学校→専売広島(現JTサンダーズ)
- 全日本代表としての主な国際大会出場歴
[編集] 著作
- 直伝・猫田勝敏の名人芸トス /自著
- 猫田は生きている /小泉志津男著(笠倉出版社)
- 父さん、お帰りなさい-私の猫田勝敏- /猫田禮子著(日本文化出版)
[編集] 外部リンク
- JTサンダーズ(猫田勝敏特設ページ)
ミュンヘン五輪バレーボール男子日本代表(金メダル) |
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中村祐造 | 南将之 | 猫田勝敏 | 木村憲治 | 野口泰弘 | 森田淳悟 | 横田忠義 大古誠司 | 佐藤哲夫 | 嶋岡健治 | 深尾吉英 | 西本哲雄 | 監督: 松平康隆 |