松平康隆
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松平康隆(まつだいら やすたか、1930年1月22日 - )は、東京都出身の元バレーボール全日本選手、元バレーボール全日本男子代表監督、日本バレーボール協会名誉会長。アジアバレーボール連盟終身名誉会長。都立城南高校、慶應義塾大学法学部卒。学位は法学士(慶應義塾大学)。2004年、旭日中綬章受章。2008年3月から“心の東京革命”推進協議会(東京都青少年育成協会)会長。旧加賀藩士で家老職をつとめ、幕末には数年間小松城代をつとめた松平大弐家の血を引く。
[編集] 来歴
府立第二十二中学校(現・東京都立六本木高等学校)が都立城南高等学校に改称した時の城南一期生で、この時の同級生・親友が大平透。1952年、日本鋼管に入社。1960年まで選手や監督兼選手として活躍。1961年に6人制バレーを学ぶためにソ連に留学。全日本男子のコーチを経て、1965年に全日本男子チームの監督に就任。1968年のメキシコ五輪で銀メダル、1972年のミュンヘン五輪で金メダルへと導いた。現在世界中で使われている速攻、移動、時間差などの攻撃システムの基礎を築き上げ、バレーボールの普及発展にも貢献した。監督退任後もしばらくは日本鋼管に籍を置いたまま協会の役職を兼務していた。
1998年日本人で初めてバレーボール殿堂入りを果たした。その後、JOC副会長やIOC理事を務め、JOCでは会長候補でもあった。監督退任後は南米に指導を行ったが皮肉にも体型や瞬発力に勝る南米が台頭してくると日本が国際大会での優勝から遠ざかった。
[編集] エピソード
- 東京五輪では全日本のコーチとして出場し銅メダルを獲得した。大会終了後選手村でパジャマ姿で顔を洗っていると、正装した大松博文と出会った。「大松さん、いい格好しちゃってどこへ行くの」と聞いたら「祝賀会だ」と答えたので、女子チームの祝賀会だと思い「おめでとうございます」といって送り出した。それから1時間ほどして日本バレーボール協会の当時の会長西川政一から電話があり「松平君、君ね、祝勝会をボイコットするなんて、ひがむのもいいかげんにしろ。祝勝会に男子バレーが来ないんで、みんなカンカンに怒ってるんだ」と怒られた。その後事務方の手違いで本来協会主催の祝賀会に男子も呼ぶ予定であったが、男子には連絡が行っていなかったことが分かった。
- 松平はミュンヘン五輪の全日本男子チームに対して、逆立ちをして9メートル以上歩けるようにさせる練習をした。松平は「逆立ちで9メートル以上歩けるようにならなければ、オリンピックに行かせない。」と言ったが、大古はなかなかできず、苦労した。
- 松平は男子バレーボールの人気獲得のために10-20代の女性をターゲットとした。背が高くスタイルの良いバレー選手は女性の関心を集めるだろうと考え、少女雑誌を中心に男子バレーを紹介した。やがて試合会場は女性達の声援で満たされるようになった。
- 松平はバレーのファンを増やすために、積極的にバレーの練習を一般公開した。さらに話題づくりのために、選手に対して以下のようなユニークなキャッチフレーズをつけた。
- 中村祐造 - 「ガッツ祐造,チームを世界一に引っ張っていく機関車,率先垂範のキャプテン」
- 猫田勝敏 - 「世界一のセッター,日本オーケストラの指揮者」
- 森田淳悟 - 「フジヤマ・ブロック」
- 大古誠司 - 「世界一の大砲」
- ミュンヘン五輪の全日本男子チームを盛り上げるために「アニメドキュメント ミュンヘンへの道」という男子バレー選手が登場するテレビ番組を企画し、監修を行った。
- 1966年、当時小学校5年生だった一人息子を不慮の事故で亡くした。日本鋼管の市場調査課の係長で36歳の働き盛りだった松平は、それまで仕事とバレーボールを半々でやってきたが、ベッドに横たわる息子を見て「いま元気でもあしたはどうなっているか分からない。それなら自分の人生が満足だったと思えるものにしたい。」とバレーに賭ける決意をした。[1]五輪ではそのことについて一言も報道陣や選手に触れさせず、優勝後に選手から触れられると号泣した。
[編集] 脚注
- ^ 小泉志津男『日本バレーボール五輪秘話、ポスト東洋の魔女の激闘』ベースボールマガジン社、1991年
ミュンヘン五輪バレーボール男子日本代表(金メダル) |
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中村祐造 | 南将之 | 猫田勝敏 | 木村憲治 | 野口泰弘 | 森田淳悟 | 横田忠義 大古誠司 | 佐藤哲夫 | 嶋岡健治 | 深尾吉英 | 西本哲雄 | 監督: 松平康隆 |