牛久保六騎
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牛久保六騎(うしくぼろっき)は、戦国時代の東三河地方の牛久保城主牧野氏に参集していた寄騎衆の6氏をあらわす用語で「牛窪記」[1](江戸時代中期成立の軍記物)に初出。「牛窪記」の中で、その構成メンバーの6氏の姓氏を具体的には明示していない。同文献中にある東三河の司頭の牧野・岩瀬・野瀬・真木・山本・稲垣・牧[2]の各氏が該当すると推測されている。当時、東三河に進出していた今川氏(駿河方)に属していた。
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[編集] 説明
牛久保六騎は「牛窪記」に突然登場した用語・東三河司頭と同様に、「牛窪記」以外では室町・戦国・江戸初期の同時代史料には確認できない用語。
「牛窪記」の記述によれば、文亀年中の事として今川義元が牛久保六騎・地侍十七人衆に三河今橋辺(豊橋市今橋町)に築城を指示し、牧野氏を奉行とした。吉田城主に牧野伝蔵以下の牧野氏が守護することになったという。(「牛窪密談記」では、この記事を間違いとして、命令者の今川義元、城名の吉田城、城主の牧野伝蔵が是正されている。)
[編集] 牛久保六騎に関する記述・文献
[編集] 徳川家康判物
牛久保城主牧野成定が徳川家康に臣従した際に家康より発給された永禄9年(1566年)5月9日付けの家康の判物の末尾に「諸給人の儀、五・六人衆に相計る可き事」と特に付記しており、
同年10月23日に牛久保城主成定が病死した際には、水野信元より下し置かれた徳川家康判物への添え状(同年11月13日付け)に、牧野山城守・能勢丹波守・(岩瀬)嘉竹斎・真木越中守・稲垣平右衛門尉・山本帯刀左衛門尉・同美濃守と宛名が記載[3]。
[編集] 天文期の関連古文書
これらの人物について室町時代(戦国時代中期)となる天文7年(1538年)牧野氏・真木氏・岩瀬氏・野瀬氏による判物(4名が連署した古文書)である牛窪北鉄屋大工助九郎安堵状が現存。愛知県図書館に寄託されている。但しこの史料の文中には、牛久保六騎と云う語彙はなく、地頭となっている。この文献は、愛知県図書館のHPの蔵書検索からは検索できない。
[編集] 牛久保六騎に相当すると推測される各氏の沿革
- 牧野山城守は牛久保城主牧野家の分流というが、本宗からいつ分岐したかは不明。宝飯郡平井郷(豊川市小坂井町平井)に本貫地をもった。岩瀬氏とは対照的に軍事面での活動が今川氏の永禄年代の発給文書からも目立つ。特に永禄5年9月22日に牧野八太夫(山城守)が大塚城を徳川氏より奪還したことは特筆される。(関連→牧野康成 (戦国武将))
- 山本氏は駿河国の吉野氏の分かれというが諸説あり一定しない。源満仲を遠祖とする清和源氏。初代成氏から代々帯刀を称す。本貫地は八名郡賀茂郷にあった。また、牛久保城下岸組にも出仕屋敷を持っていた。(詳細→三河山本氏)
- 岩瀬氏は家伝では奥州岩瀬郡須賀川(現在の福島県須賀川市)出身で藤原姓二階堂氏族という。須賀川城が岩瀬城とも称したかについては諸説がある。その後今川氏の家臣となり三河国宝飯郡千両(豊川市千両町)に移った(本貫地、千両岩瀬氏は後にこの地の郷士となった)。 やがて、同郡大塚郷中島(蒲郡市大塚町上中島)に大塚城を築き城主となった。
牛久保六騎の岩瀬氏は天文年間の大塚城主岩瀬氏俊の弟和泉守入道善性が牛久保城主牧野氏に付属した庶流の一つで吉左衛門を通称とする。 和泉守の子・雅楽助は永禄年中の岩瀬氏あて今川氏真発給文書(感状・判物)によれば、牛久保・吉田両城への兵糧・煙硝・米穀の補給、また銭の融通など経済・物流関係への関与が目立ち今川領内での給付や酒造免許をうけた事などからも今川氏との関係が密である。
また、弘治2年(1556年)の牧野民部丞(貞成)逆心の節には牧野山城守(定成)の荷担を内談にて押し止めるなど牧野山城守との関係が特筆される。しかし、永禄7年(1564年)大塚城の本家岩瀬河内守(彦三郎)が再度徳川家康に降ると、翌年には稲垣氏等とともに岡崎で家康に恭順した。(詳細→岩瀬忠震のページの三河岩瀬氏) - 野瀬(能勢)氏は摂津国能勢郡(大阪府能勢町)の室町幕府・御家人の能勢氏(源姓)の分かれといい、連歌の縁で招かれ牧野古白に付属したともいう。 よって、しばらく今橋城牧野家の寄騎であったが、今橋牧野家が没落すると牛久保牧野家の寄騎に移った。能勢氏は代々当主は丹波守を称している。永禄8年(1565年)には岡崎に参向し家康に恭順した。本貫地は不詳。(詳細→三河能勢氏)
- 真木氏は河内国古市郡槙庄出身で橘姓。鍛冶屋の職能集団を配下としていた。南朝の忠臣・真木定観の末裔説がある。室町期に牛久保城近隣の梶の郷(鍛冶郷、豊川市中条町)に移住し本貫地とし、同地と牛久保城の内堀(うちぼり)内と堀外に屋敷を構えた在地の土豪。城内の屋敷は出仕屋敷であったかは不明。最後まで今川氏に近く、六騎のうち永禄8年岡崎で家康に謁見しなかったのは真木氏とみられる。(詳細→三河真木氏)
- 稲垣氏は伊勢国出身明応年間三河国に移住したという。平姓というが後に清和源氏支流を称した。屋敷は牛久保城下岸組、本貫地は八名郡賀茂(豊橋市賀茂町)にあった。平右衛門尉を代々通称とした。稲垣重宗は牧野氏の宿老的存在である一方、今川氏真の三河出馬の際に案内役を務め以後も氏真の信任が篤かった。重宗の弟は、設楽郡野田城の城代に今川氏によって任じられている。しかし、重宗の惣領である長茂は永禄8年に山本氏ら4人の寄騎とともに岡崎に参向、家康に恭順した。(詳細→三河稲垣氏)
[編集] 徳川家康に臣従後の概要
戦国時代に、東三河において牛久保城主牧野氏と同等の勢力があったか否かは疑問が残るが、越後国長岡藩牧野家文書の「温古之栞」によると、三河国牛久保城主の牧野新次郎(康成)は、徳川家康に(降伏を勧められて恭順し)安堵された所領を、牧野氏・真木氏・野瀬氏などと均分に分けたとしている。但し、この文言は、徳川氏に恭順後のものであり、牛久保六騎時代の同時代文書とは言いがたい。
この中に稲垣氏、山本氏、岩瀬氏が含まれていないが、この三騎は徳川家康に臣従して、所領を直接安堵される一方で、牧野組の旗下に附属していたと推察される。
- 稲垣氏は、1565年、岡崎城の家康に召し出されて、直参資格を得た。しかし1566年に牧野氏に稲垣長茂が帰参して、その家臣筆頭となった。1590年の徳川家康の関東移封に伴いその直参組となり、牧野氏から離れ、やがて譜代大名(志摩国鳥羽藩・近江国山上藩)に列した。庶流の稲垣平助家は、家康の旗本身分を兼帯して牧野氏に帰参し、稲垣惣領家の跡式を相続したものと推察され、後に家老首座連綿となり2400石が与えられた。
- 山本氏の惣領家は、1565年、岡崎城の家康に召し出されて直参資格を得た。1590年、徳川家康の関東移封に際して、家康の旗本身分を兼帯して牧野氏に帰参した。主な庶流は、越前国福井藩松平氏の上級家臣、志摩国鳥羽藩稲垣氏の家老連綿、徳川直参組の旗本(但し小禄)などとなった。山本氏については初代帯刀左衛門尉成氏の庶兄が山本勘助晴幸であるという伝承が長岡藩家老の山本帯刀家の由緒書きにあるが、旧牛久保領内の神社に異説があるなど事実関係は不明確であり、現状は伝承に留まる(→三河山本氏)。幕末の長岡藩、家老職・軍事総督であった山本帯刀義路は、藩の戦争責任をとる形で、斬首を受けた。
- 岩瀬氏は、1565年に岡崎城に召し出され直参資格を得て牧野組の旗下にあった。岩瀬和泉守の家系は、吉左衛門を通称として、1590年の徳川家康の関東移封に伴い牧野組を離れて、徳川直参組(大身旗本)となった。この分家として分出された岩瀬氏の末裔となる幕末の幕府外交官岩瀬忠震は著名。また譜代大名大久保氏の1,000石級の重臣となった吉右衛門を通称した庶流があり、幕末の小田原藩家老職岩瀬大江進正敬は、藩の責任を負って切腹している。
- 野瀬(能勢)氏の惣領家は、永禄9年5月の家康公御判礼により、牧野氏の家令(原文は可令)となる。しかしその後、一時浪人。1600年の関ヶ原の合戦前後に徳川直参組の大身旗本となったが、徳川忠長が将軍家から分家したことによりこれに随従した。庶流は越後長岡藩の客人分連綿・重臣などとなった。
- 真木氏は、孤軍で牛久保城を守って戦死するなど牛久保六騎の中では、反徳川派で今川派の旗頭的存在であったが、その功績が尊重され、牧野氏客人分(客将)として、上野国大胡城在城期の牧野氏2万石から、その家老首座を大きく上回る3000石を与えられた。後にその当主は扱いや待遇の不満などから出奔したがやがて帰参した。結局、真木氏は譜代大名牧野氏の家臣として分割・吸収され、越後長岡藩の客人分連綿・重臣や、信濃国小諸藩家老連綿の家格などとなった。幕末の小諸藩家老職・真木要人則道は、藩の責任を負って斬首を受けた。
[編集] 脚注
- ^ 「牛窪記」は『三河文献集成』・『近世三河地方文献集』(いずれも国書刊行会刊)を閲覧するのが便利。(→国立国会図書館(東京本館)・都立中央図書館などに所蔵)
- ^ 「牛窪記」は東三河司頭として7氏を記すが、牧氏は真木氏もしくは牧野氏と重複と考えられる
- ^ 寄騎の牧野氏は牧野山城守(定成、後の田辺藩祖)をさすとされているが長岡藩に関する文書『温古之栞』の異説もある。