三河稲垣氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三河稲垣氏(みかわいながきし)は、伊勢国から、三河国宝飯郡に、室町時代後期となる文明年間(1469~86)に渡来した土豪。
稲垣氏は、『藩翰譜』などによると、遠祖は清和源氏小田重氏であるとする。すなわち、清和源氏支流・伊勢源氏の小田重氏が稲垣姓を称したという。また稲垣氏を平姓であるとする研究・学説も存在する。 [1]
文明年間 (1469年~1486年)には伊勢から三河宝飯郡牛窪に移り、稲垣藤助重賢が、牧野家に仕えたとある。 はじめ駿河・遠江の戦国大名今川氏に味方して松平清康軍を相手に奮戦した。藩翰譜には重賢の戦死の事実だけが記載されるに留まるが、寛政重修諸家譜には、享禄元(1528)年、吉田(豊橋市)方面から牛久保に軍勢が押し寄せたときに、稲垣重賢は防戦して宝飯郡産女塚で配下16名と共に討ち死にしたと、対松平氏戦に関する若干の記述がある。
稲垣氏は、重賢・その子の重宗と、今川方の牧野氏に属したが、牧野忠成の祖父である牧野成定1525年~1566年)が死すと、11才(異に17才とも)と若かった牧野康成(1556年~1609年)に不安があり、山本氏などと協議の上、重宗の嫡子稲垣長茂が後見役として牧野家の家臣筆頭となる。天正3年(1575年)、衰退著しい戦国大名・今川氏の旧領を争っていた徳川家康は、遠江諏訪原城(別名・牧野城)の城番に牧野康成を配置したが、その陣代として稲垣長茂の功績は絶大なものがあった。
稲垣長茂は、遠江国・諏訪原城攻めの陣代としての功績、足高山の麓天神川の要害の守備の功績、小田原城・後北条氏攻めの功績などにより、徳川家康に高く評価されたことで、譜代大名・近世大名の道を歩めたといえる。柳営秘鑑では、駿河譜代。
藤沢ホテル総支配人、稲垣重祥は、近江国山上藩稲垣家の末裔として、何度かマスコミに登場したことがある。
[編集] 脚注
- ^ 伊勢平氏は著名であるが、伊勢源氏を称するのは珍しい。また異に、三河国の稲垣氏の遠祖は、藤原姓であったするものもある(稲垣平助家・家譜)。
[編集] 末裔
- 志摩国鳥羽藩主 稲垣氏
- 近江国山上藩主 稲垣氏
- 徳川幕臣(旗本)稲垣氏のうち3戸
- 越後国長岡藩家老首座連綿 稲垣氏
- 越後国長岡藩家老連綿 稲垣氏
- 信濃国小諸藩家老 稲垣氏