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牧野成定 - Wikipedia

牧野成定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

牧野 成定(まきの なりさだ、大永5年(1525年) - 永禄9年10月23日1566年12月4日))は、三河国宝飯郡牛久保城の城主。牛久保城主牧野貞成(右馬允・民部丞)の養子となり、牛久保城主を継ぐ。牧野保成(出羽守)の義理の甥。実は牧野氏成(新九郎)の子(寛政重修諸家譜)。初代の越後長岡藩主・牧野忠成の祖父にあたる。 通称(仮名)は新次郎、右馬允、民部丞とも称したという[1]。正室は未詳。母は某氏の女。


目次

[編集] 概要

牧野成定は戦国時代の東三河宝飯郡の牛久保城を拠点とする国人領主で牛久保城主。

祖父成勝の頃から既に今川氏の勢威に服していたが、成定が城主であった永禄4年(1561年)4月には今川氏から独立した徳川氏松平氏)の進攻をうけ、他の東三河国人衆が概ね徳川氏に転属したのに対し成定は今川氏への従属を強め、居城牛久保に今川軍の駐留を受け入れた。また、吉田城の今川軍に対しても兵糧などの調達に協力、自らも今川方の先鋒として徳川軍に対し激しく交戦した。

しかし、永禄7年(1564年)には東三河の今川軍はまったくの敗勢となり、翌8年には配下の寄騎衆(牛久保六騎)が徳川氏と和睦交渉を始め、主君成定にも和睦を献諫したが成定は容れず今川氏に増援を求めた。しかし成定の重ねての援軍要請に永禄9年(1566年)には今川氏真から困難との回答を受けたため、重臣達の献策に従い徳川氏との和睦を決意、同年旧暦5月9日(4月20日)に岡崎城で家康の謁見を受けて判物の給付により所領安堵され牛久保城を開いた。そのため牛久保城の今川軍も降伏したと伝えられる。以後、牧野氏は徳川氏に臣属した。

牧野氏の臣属・牛久保開城により徳川家康の東三河併合は決定的となり、同年旧暦12月29日(11月18日)に家康は正式に従五位下三河守に任じられ、国守大名となった。

[編集] 経歴

[編集] 牛久保城主継承とその背景

大永5年(1525年)、牧野保成(出羽守)の一族である牧野氏成(新九郎)の子として生まれた。 1556年弘治2年)、牛久保城主であった牧野貞成(民部丞)が今川氏に逆心(反乱)した(弘治2年2月今川義元発給文書)ことにより牛久保城主の地位を失ったと考えられ、今川義元の差配によりその後継は右馬允(成定)となった。

成定は前城主である貞成の実子ではなく、寛政重修諸家譜等によれば一族牧野氏成の子である。「牧野家譜」(長岡市中央図書館蔵)等によれば、養父の貞成は今川氏に親密であった牧野保成が今川氏の援助で天文15年に吉田城を回復したこと(しかも吉田城の実権は今川方の城代小原鎮実(肥前守)で実質は今川氏の属城)に反発、国人領主としての自立を望む貞成は今川氏へ逆心し三河の名族の吉良氏を頼り、弘治2年西尾城主吉良義昭の誘いにより吉良氏の属城の西尾城に入り守将となる(これは他の東三河国人衆が織田氏への内応をめぐり分裂混乱したのと同一傾向である)。

この時、吉良義昭は尾張の織田信長の調略に同意していたため、今川義元は松平氏を含む今川軍を派兵し荒川城を拠点に西尾城を攻撃、陥落せしめた[2]。西尾城を脱出した貞成は本拠牛久保に撤退した。

貞成はその後、蟄居隠棲の身となった(遠州宇津山城ともいうが疑問、実は三州八名郡照山が有力)。貞成には実子が有ったようであるが、今川義元は相続を認めず、前記のように新九郎氏成の子を後継とした。これが成定である。 成定の実父新九郎氏成の詳細は不明である。

[編集] 西尾城へ入城

成定は今川氏に属したので、尾張清洲城織田氏と対立する今川義元の命により、弘治3年(1557年)より5ヶ年の年限で吉良氏の属城の西尾城の守将となる。これは、前年に吉良義昭織田信長と結び、義昭自身は東条城に移り(「牧野家譜」)、成定養父の牧野貞成を西尾城に招いて今川氏に反抗して敗れたため、義元がその事後処置として西尾城に親今川派の牧野成定を入れたと推定される (もっとも、義昭の東条城入城は天文18年(1549年)の安祥城攻略に関連した今川氏の措置という説がある)。

[編集] 徳川氏進攻への抵抗

約定の期間満了前の永禄3年(1560年)5月19日に今川義元が、桶狭間で戦死。その翌年、永禄4年(1561年)4月、織田信長と結んだ松平元康(徳川家康)は西尾城を昼夜問わず攻め、牧野新次郎も、こらえ切れずに、城を明け渡して、牛久保へ逃亡すると、三河物語にある。

一方の成定留守中の牛久保城には、事前に東三河国人衆を調略したうえで松平軍(およびその協力者)が奇襲をかけたので、城方は壊滅の危機に陥った。
しかし、稲垣重宗はじめ数名が敵中より牛久保城に馳せ戻り、真木父子等の留守衆と共に奮戦して、辛うじて城を死守。[3]

この牛久保・西尾同時攻撃より始まった松平元康の東三河地方への進攻に、成定は叔父牧野出羽守保成と共に、激しく抵抗する。

永禄4年5月28日、牛久保衆をふくむ今川軍諸隊は富永口に出撃、松平軍と交戦したが退却している[4]

同4年7月29日、今川軍は三河設楽郡野田城を攻め立てた上で、開城降伏勧告。城主菅沼定盈は野田城を放棄、豊川対岸の親戚西郷氏を頼って撤退した。ただ今川軍は、引き続き行われた田峯菅沼氏への征伐に失敗し、明け渡された野田城の城代に成定家臣の稲垣氏俊(稲垣重宗・氏連たちの弟)を置くに留めて、奥三河への仕置きを終えた(『菅沼家譜』定盈の項より)。

翌5年になると松平元康軍と今川軍の東三河をめぐる攻防戦は更に本格的なものとなる。

今川氏真は設楽氏・菅沼氏・西郷氏等の東三河国人領主への調略活動の中心人物本多信俊(百助)を討つ必要が生じた。すなわち氏真自身をして「三州錯乱」と呼ばしめたこの混乱を鎮定するために東三河に氏真自身が出馬することになるが、同年2月氏真は三州設楽郡の富永攻略に成功するが一宮砦の戦い・本野原の戦いでは元康に完敗した。 [5]

同5年5月7日には松平軍は富永を攻撃、牧野成定が自ら太刀打ちするほどの激戦となったが持ちこたえた。 [6]

同年6月2日には野田城が松平方(西郷氏)の援助を受けた菅沼定盈による夜襲で奪還され、城代であった成定家臣稲垣半六郎は討ち死にした(「寛政重修諸家譜」清和源氏支流稲垣氏の項)。

同5年9月御油台(東岡)合戦で酒井忠次の松平軍を敗走させたが松平元康の本隊には敗れ、これに続く八幡・佐脇合戦で東三河の駐留今川軍は惨敗、主将板倉弾正・板倉主水は戦死した。

また翌6年3月の牛久保城外の戦いで、叔父牧野出羽守保成と稲垣重宗が負傷、稲垣は一命をとりとめたが、牧野保成は死亡した(戦死諸説あり)。今川方敗勢のなか、牛久保牧野氏はいよいよ孤立して苦戦する。[7]

同7年春より、一揆鎮圧に成功した家康の東三河進攻が再開、成定は駐留今川軍の最大拠点吉田城(かつての今橋城。もと牧野氏支城)へ救援の兵をさしむけるが、効無くやがて落城(永禄8年3月)。今川方の主将(城代)小原鎮実は遠州宇津山城に撤退した。完全孤立無援の牛久保城において、牧野成定はなおも今川氏への忠節を変えずにいた。(この頃、東三河で今川方の国衆は成定と作手の奥平貞勝のみであった。)

[編集] 徳川氏への和睦・帰属

永禄8年(1565年)頃より、成定を支える牛久保寄騎衆(あるいは牛窪年寄衆)たちも、この情勢への対応に差異が現れ、稲垣氏・山本氏・岩瀬氏及び、牧野山城守は、岡崎城の松平家康に通じ、真木(槙)氏と、能勢(野瀬)氏は、駿府城の今川氏真に固執していたと思われる。

戦陣の疲労で衰弱していた城主成定は、同6月より宿老・稲垣重宗(平右衛門尉)に内政・軍事を代理掌握させる。その稲垣重宗は同僚の山本成行(帯刀左衛門)ら牛久保の重臣数名に諮り、家康への和睦の機会を水面下で進める一方、主君・牧野成定にこの和睦への同意を献諫。

翌永禄9年(1566年)5月、西三河岡崎城にて成定は家康に謁見を受け和睦に漕ぎ着けた。これにより牛久保牧野氏は松平家康に帰属、家康の命により領治・家臣の掌握は稲垣・山本等の重臣5-6名で行うことになり、その後の成定は病身のため牛久保城内にて蟄居の態であったという。 [8] [9]

なお異説として、「牛窪密談記」には、永禄8年(1563年)丑、徳川家康に牧野成定(右馬允)が属したとの記事がある。しかしまた、「牛窪記」には、永禄8年3月17日の丑の吉祥日に、牧野定成(山城守)・康成(宗次郎)を先として真木氏・岩瀬氏など牛久保寄騎が城主牧野家名代として家康に謁見したと記述している。 [10]

[編集] 成定の死去とその後

服属後、病身の場合は岡崎に出仕に及ばずとの沙汰を受けたが、まもなくの10月、にわかに病が重くなり同23日死去。享年42。

成定死後、松平家康は後継に嫡子・牧野新次郎(康成)を指定。しかし新次郎はその時まで牛久保に不在であったらしく(永禄9年11月牧野山城守以下牛久保年寄7名あて水野信元副状に一両年駿州に留め置かれたとある)、保成の子と思われる牧野出羽守(成元)と遺領後継の紛争となる。出羽守は今川氏真の、新次郎は家康の支援をうけたと思われるが、新次郎が勝利し跡を継いだ。
出典→『新編岡崎市史・史料編6』所収「牧野文書13、水野信元書状」、水野信元書状(国立公文書館蔵)、『長岡の歴史・第1巻』(今泉省三著・野島出版、12-14頁)

[編集] 家族

  • 嫡子;康成(やすなり、初名は貞成、通称は右馬允・新次郎)、牛久保城主・大胡藩主、葬地は上に同じ。
  • 男子;戸田一西。三河国田原近郊聞書によると、戸田一西は牧野新次郎の子であるとしているが、史料学的根拠に乏しく俗説の一つである。

[編集] 墓所・霊廟

法名は養修院殿教誉皎月光輝大居士、葬地は牛久保光輝院(愛知県豊川市千歳通4)、追善墓が大胡養林寺所在。

[編集] 牧野出羽守保成との関係

成定は、牧野出羽守保成の甥とされる。それは養父の民部丞貞成が実は保成の実弟だからである。保成と貞成は『牧野系図』(長岡市中央図書館所蔵)では共に出羽守成種の子とされる。はじめ保成は新二郎、貞成は新四郎(新三郎とも)称したとされ、後に貞成は牛久保城主牧野民部丞成勝(氏勝)の養嗣子となる。

しかし貞成は1556年(弘治2年)今川氏に逆心して蟄居の身となり、養子の成定が牛久保城主となると吉田城との関係は緩和し、今川氏の親任厚い保成(奥平松平文書)の主導のもと、牛久保牧野家もまた今川氏の三河経営に組み込まれていく。 当初、成定は今川氏とは距離を保とうとした節が見えるが、稲垣、山本、贄などの主要な家臣らが今川氏より直接に知行を給付されるに及び、1561年(永禄4年)より今川氏への忠節を決意する(「永禄4年7月11日孫五郎以下3名宛牧野成定証状」;『岡崎市史6・資料編中世』所載)。

こうして、成定と保成は、今川氏への忠節により堅く結束することになるが、これが悲劇の始まりとなる。(出羽守保成を右馬允成定が殺害との異説があるが疑問、これは養父貞成と保成の反目を取り違えたと思われる)

[編集] 脚注

  1. ^ 通称は新次郎、右馬允、民部丞が伝えられているが、現在知られる、彼の生存期間中(1525~1566)の古文書(同時代文書)には新次郎と記すものは未見であり、右馬允については天文22年(1553)の大恩寺阿弥陀堂棟札の牧野右馬允がもっとも古く(但しこれに続く実名は成守のため養父貞成の可能性もある)、永禄9年(1566)11月の水野信元が牛久保寄騎6人に宛てた牧野康成家督相続承認の副え状に「今度牧野右馬允殿就死去」とあるのが終見であり、本人がこの時点で死亡していることから、成定が生存中に民部丞を称した可能性は極めて低く、牧野民部丞と記された天文期から永禄期の古文書は祖父成勝(天文5年(1536)11月15日若宮八幡宮寄進状までか)、または父貞成(永禄5年(1562)8月死去の可能性がある)のものとすべきである。
  2. ^ この時の西尾城攻撃を直接記す史料ではないが、弘治2年3月に織田信長が幡豆郡の荒川に軍事行動を働きこれに対し今川方の迎撃軍は馬頭原(『岡崎市史』では安城市野寺付近、『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館刊)では幡豆郡幸田町野場付近とする)で織田軍と交戦したことを示す、弘治2年9月4日付けの松井忠次宛今川義元判物が存在する。これにより「牧野家譜」に記述された反織田氏の荒川氏居城の八面山(荒川山)城を含む西尾城付近での戦闘が裏付けられる。
  3. ^ このときの困難な戦いを真木氏は、槙文書として、伝えているが、(戦後、稲垣重宗は今川氏真に謀反の嫌疑を受けるが、成定が重宗に誓紙を書かせた上で逆にその忠節を訴えて弁護した。それにより氏真は了承し一転恩賞を出す一幕もあった)。
  4. ^ (永禄5年8月7日付稲垣重宗宛今川氏真感状「去年五月廿八日富永口へ各相動き引退き候刻・・・」(『岡崎市史6・資料編』所収)。この時牧野成定の家臣は稲垣重宗が高名し今川氏真の感状を受けた。後に越後長岡藩士となった、稲垣重宗等牛久保衆の末裔たちは、先祖の功績として、この富永口戦功をあげている者が少なからず存在する。なお富永という地名は存在するが、富永口合戦の場所を設楽郡新城市野田)の野田城近くや、野田城そのものとする説などもあり、合戦があった所在地は諸説があって断定できない。
  5. ^ 永禄5年8月7日付け稲垣重宗宛今川氏真感状に「去る二月三州出馬の砌・・・」(『岡崎市史6・資料編』所収)と氏真自身の出馬を示す内容がある。これは、父義元の戦死後の混乱収拾に努めていた今川氏真が、永禄5年(1562年)2月に自ら1万余の今川勢を率いて東三河に発向したが、このとき氏真は三浦義鎮(右衛門大夫・右衛門佐)に兵を分かち、これを稲垣重宗が案内しておこなった富永(設楽郡)攻めの際の感状である。 一方、氏真本隊は松平兵約600と本多信俊(百助)の籠もる宝飯郡の一宮砦(豊川市一宮町)を包囲したが、本多信俊救援に自ら出陣した松平元康と牛久保領内であった宝飯郡一宮および本野原において、直接対決して大敗・退却した(一説にこの時、武田信虎を将として伴ったと云う。またこの合戦を永禄7年(1564年)とする「寛政重修諸家譜」等の説もあるがその頃は、遠州の宇津山城主朝比奈直次(孫六郎。本来の表記は眞次か)、曳馬城主の飯尾連龍二俣城主松井宗親等の今川方重臣が相次いで反乱を起こしており、氏真自身のこの時点での一宮砦への出馬は疑問視されている)。
  6. ^ 同じ永禄5年8月7日付稲垣重宗宛の別の今川氏真感状に「去五月七日、牧野右馬允富永在番の刻、敵相動くの処、右馬允自身、刀切ら令む・・・」(前掲岡崎市史6 所収)の文言がある。 これは、前掲感状では今川軍の富永攻略は成功し、そのあと牧野成定が富永を在番していたのを今度は松平方が攻めた際のものと推定される。 「牧野家譜」・「牧野家御略譜」(『長岡市史叢書35』)によれば、成定は自ら太刀を抜いて敵に迫り兵を討ち取り、またこのとき稲垣重宗・能勢甚三(後、稲垣に改姓)・真木清十郎(真木越中守定善)・池田小左衛門等が力戦して、遂に松平軍を退却させる高名を残したとされる(しかし「家譜」・「御略譜」は永禄4年の出来事として記す)。
  7. ^ この年、西三河で勃発した三河一向一揆によって松平家康は危機に瀕するが、今川氏真も西遠で曳馬城主の飯尾豊前守連龍から反乱を起こされていた。これには三浦正俊に託した大規模な征伐軍を動員し対応するが、犠牲を払いながら攻略に失敗。しかも、この手並みの悪さが拍車を掛けた不穏な情勢は西遠一帯に広まってしまう。この西遠鎮定に忙殺されていた氏真は、せっかくの逆転の機会を逸している。むろん牛久保城への後詰めも不可能であった。
  8. ^ 出典→「牛窪記・巻之下」(『三河文献集成・中世編』国書刊行会所収)、『戦国時代の徳川氏』(煎本増夫著・新人物往来社、112頁)、『新訂寛政重修諸家譜6』(巻364・牧野成定の項、続群書類従完成会編)及び同書(巻384・稲垣長茂の項)、『新編岡崎市史6、史料編』所収「牧野文書12松平家康判物」による。
  9. ^ また永禄4年7月に、今川氏真が、西郡在番を命じたが、稲垣重宗の弟、林四郎氏連等4-5名が、元康(=家康)の下に属したため、牧野成定が徳川氏に帰属を決断したと解説している刊本(『岡崎市史』中世編(本編))もあるが、成定はその翌年も今川方として奮戦しているので、その時点(永禄4年7月)での徳川方帰属の決断は疑問。
  10. ^ 牛窪密談記の永禄8年(1563年)丑、徳川家康に牧野成定(右馬允)が属した(あるいは家康に謁見した)との説は、この「牛窪記」や『新訂 寛政重修諸家譜6』(続群書類従完成会編)の巻364・牧野成定の項、および巻384・稲垣長茂の項の記述とも矛盾する。また「長岡藩筆頭家老稲垣氏の系譜」(『長岡郷土史23号』所載稲川明雄氏論文)では「稲垣氏家譜録」引用文において、永禄8年に稲垣長茂等の牛久保寄騎衆が家康に召されたときに、岡崎に宅地を賜ったとの内容がある。その一方、「牧野家家譜」(長岡市中央図書館所蔵文書)では、永禄9年に成定が城の前後に敵(岡崎勢)を控えた中、今川氏真に援軍要請の書簡を送ったが氏真から手勢が少なく後詰めが困難との返事を受けたのをきっかけに、5月9日の岡崎参向を決めた有り様が記述されている。これらの記述から、永禄8年(1563年)丑の謁見は、牛久保六騎の寄騎衆のもので城主牧野成定自身のものではないといえる。

[編集] 外部リンク

豊川市役所公式ウェブサイト;とよかわ歴史街道=牧野成定公廟


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