大胡城
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大胡城(おおごじょう)は、群馬県勢多郡大胡町にある中世の平山城跡で、大胡氏(上泉氏)の居城であった。
天文年間(1532年~1555年)に築城されたとされ、元和2年(1616年)廃城となった。
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[編集] 概要
大胡城は大胡氏の居城であった。大胡氏は藤原秀郷の子孫であり、東毛地方で勢力を扶植していた豪族であった。「吾妻鏡」の建久元年(1190年)の記事には大胡太郎の名前が見えるので、鎌倉時代の初期にはすでにこの地域の有力な支配者であったと思われる。しかしこの頃の大胡氏の居館は、現在の大胡城ではなく、城の西300mほどの所にある養林寺の辺りであったのではないかとも言われる。
[編集] 歴史・沿革
南北朝時代、観応の擾乱に際して大胡氏は、山上氏らとともに足利尊氏に与し、足利直義方の桃井直常、長尾景忠と笠懸野で戦って敗れたが、やがて足利尊氏は勢力を回復し足利直義を自害に追い込んだ。
その後しばらく大胡氏の動静はつかめないが、享徳の大乱で、関東公方足利成氏は、配下の岩松氏に、赤堀・大胡・深津氏を攻撃させているので、この大乱において大胡氏は上杉方に加担していたものと思われる。
天文10年(1541年)、金山の横瀬氏の勢力が強大となってきて、圧迫されるようになったため、大胡氏は当地域をすてて江戸に赴き、牛込城に移ったといわれる。大胡氏がどうして遠く離れた牛込に移ったのかよく分からないが、あるいはそこに飛び地を持っていたのであろうか。しかし大胡氏の一族はなお当地方に残っていた模様で、永禄年間、上杉謙信に従う者を書き連ねた「関東幕注文」には大胡氏の名前が見える。しかし大胡氏に大胡城を維持するだけの実力はなく、大胡城には金山の横瀬氏の配下であった増田繁政が城代となって入ることになる。
その後、上杉、北条の抗争の中で、大胡城も転変にさらされていく。横瀬氏が北条方に寝返ると、上杉謙信は大胡城を攻め落とし、配下の北条高広を城主として入れた。しかしこの北条高広も後には謙信を裏切ってしまう。謙信に攻撃されたこともあったであろう。後に越・相同盟が成立すると、北条高広は謙信に許され、前橋城に復帰した。高広は前橋城を子の景広に譲り、自身は大胡城に隠居したと言われている。
天正5年(1577年)、上杉謙信が急死すると、その跡目を争って長尾氏系の景勝と、北条氏康の実子で謙信の養子になっていた景虎とが抗争を繰り広げた。(御楯の乱) この戦いで北条氏と親しい高広は、景虎を支援した。しかし結果は景虎の敗北となり、前橋城主の景広は越後で戦死、高広自身も武田氏の下へ逃走した。
それ以降、大胡城がどのような状況にあったのかはっきりしないが、天正8年(1580年)、武田勝頼が当地域に侵攻すると、大胡城も武田氏の支配下に置かれたのではないかと思われる。
しかし天正10年(1582年)、その武田氏も織田信長に攻められて滅亡し、その後信長の家臣滝川一益が前橋城に入りこの地方を支配したが、本能寺の変で信長が殺害されると織田氏の勢力も一掃されるというように、めまぐるしく自体は展開した。しかし滝川氏が去った後はこの地方は完全に北条氏の支配下に置かれることとなる。
関東地方で最大勢力を誇った北条氏も天正18年(1590年)、小田原の役で滅亡し、変わって関八州の支配者となったのは徳川家康であった。
大胡城には徳川氏家臣の牧野康成が2万石で大胡城に入城した。現在見られる石垣構造などはこの牧野氏時代に構築されたのではないかと考えられる。
大胡城の古地図によると、越中守屋敷なるものがあり、これは真木越中守3000石のものであると考えられるが、2万石に過ぎない牧野氏にとって、存在が大きすぎたものと思われる。
元和2年(1616年)、牧野氏は越後長岡に5万石で転封され、それにより大胡城は廃城となった。
[編集] 主要城主
- 大胡氏
- 牧野氏