楠部大吉郎
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楠部 大吉郎(くすべ だいきちろう、1934年12月10日 - 2005年8月27日)は、日本のアニメーター、シンエイ動画の創立者、前会長。旧・満州生まれ。シンエイ動画社長の楠部三吉郎は実弟。楠部工、楠部文は子。
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[編集] 経歴
1957年東映動画(現・東映アニメーション)に第1回目の一般募集で入社。養成期間が終わると、その実力を認められ、東映動画の長編第1作『白蛇伝』で早くも原画を任される。その後もアニメ映画を多く手掛け、得意なアクションシーンで腕を振るった。手塚治虫の虫プロによる『鉄腕アトム』でテレビアニメの時代を迎えると、東映動画のテレビアニメ第2作『少年忍者 風のフジ丸』で楠部は作画監督を担当。当時、東映動画から虫プロへの移籍が相次いだため、それを抑えるため、大塚康生らとともに正社員の10倍の報酬を得る契約社員5人のうちの1人にまで登りつめた。しかし、東映動画が長編動画時代のスタッフを切り捨て、若手中心のスタッフで低予算のテレビアニメ時代を乗り切る方針を選択したこともあり、1965年に東映動画から独立。虫プロからも重役待遇で迎える話を持ちかけられるも断り、東京ムービーのアニメ制作部門としてAプロダクション(以下Aプロ)を設立する道を選んだ。親分肌の性格で知られ、Aプロでは社長としてプロダクションの経営に当たる一方、作画監督として、その確かなデッサン力と骨太なタッチでテレビアニメ『巨人の星』で不可能といわれた劇画タッチのアニメへの導入に成功。定期採用により、多くの優秀なアニメーターを養成した。また、台湾にもアニメ制作会社「影人電影公司」を設け、大塚康生と共に台湾でアニメーターを育て上げている。
同時進行する制作本数が5本になった1974年、テレビアニメ『柔道讃歌』の作画監督を務めている最中に病に倒れる。1年間の療養を取り、その間に制作本数が激減。経営の危機を迎えたことで、実制作のみの体制に限界を感じ、1977年にAプロは東京ムービーとの契約を円満解消。社名もシンエイ動画と改め、企画と製作も行なう制作会社として再出発した。シンエイ動画以降の楠部は、テレビアニメ『日本名作童話シリーズ 赤い鳥のこころ』に作画監督として参加していたが、それ以降は作画をやめ社長・会長職に専念するも、映画ドラえもんだけは監修として長い間参加していた。
2005年8月27日死去。享年70。2006年3月にシンエイ動画設立の功績が称えられ、東京国際アニメフェア第2回特別功労賞が授与された。
[編集] 主な作品
[編集] 東映動画時代
- 白蛇伝(動画)
- 少年猿飛佐助(動画)
- 西遊記(動画)
- 安寿と厨子王丸(原画)
- アラビアンナイト シンドバッドの冒険(原画)
- わんぱく王子の大蛇退治(原画)
- わんわん忠臣蔵(原画)
- 少年忍者 風のフジ丸(作画監督)
[編集] Aプロダクション時代
- オバケのQ太郎(作画)
- パーマン(作画)
- 巨人の星(作画監督)
- 巨人の星 行け行け飛雄馬(作画監督)
- 巨人の星 大リーグボール(作画監督)
- 巨人の星 宿命の対決(作画監督)
- 赤胴鈴之助(作画監修)
- 荒野の少年イサム(作画監修)
- 空手バカ一代(作画監修)
[編集] シンエイ動画時代
- 日本名作童話シリーズ 赤い鳥のこころ(作画監督)
- ドラえもん のび太の恐竜(監修)
- ドラえもん のび太の宇宙開拓史(監修)
- ドラえもん ぼく、桃太郎のなんなのさ(監修)
- ドラえもん のび太の大魔境(監修)
- ドラえもん のび太の海底鬼岩城(監修)
- ドラえもん のび太の魔界大冒険(監修)
- ドラえもん のび太の宇宙小戦争(監修)
- ドラえもん のび太と鉄人兵団(監修)
- ドラえもん のび太と竜の騎士(監修)
- ドラえもん のび太のパラレル西遊記(監修)
- ドラえもん のび太の日本誕生(監修)
- ドラえもん のび太とアニマル惑星(監修)
- ドラえもん のび太のドラビアンナイト(監修)
- ドラえもん のび太と雲の王国(監修、脚本)
- ドラえもん のび太とブリキの迷宮(監修)
- ドラえもん のび太と夢幻三剣士(監修)
- ドラえもん のび太の創世日記(監修)
- ドラえもん のび太と銀河超特急(監修)
- ドラえもん のび太のねじ巻き都市冒険記(監修)
- ドラえもん のび太の南海大冒険(監修)
- ドラえもん のび太の宇宙漂流記(監修)