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根本博 - Wikipedia

根本博

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

根本 博
根本 博

根本 博ねもと ひろし1891年明治24年)6月6日 - 1966年昭和41年)5月24日)は、日本陸軍軍人陸軍中将功三級福島県出身。仙台陸軍地方幼年学校東京陸軍中央幼年学校卒、 陸士23期。陸大34期。

終戦時における在蒙古聯合自治政府(モンゴル独立の為に設立された日本の傀儡政府)の駐蒙軍司令官。終戦後もなお侵攻を止めないソ連軍の執拗な攻撃から、蒙古聨合自治政府内の張家口付近に滞在する邦人4万人を、司令官として救った。復員後1949年に台湾へ渡り、金門島における戦いを指揮して、中国人民解放軍を撃破、今に至る台湾の分離確定に大きく寄与した。

目次

[編集] 経歴

[編集] 少壮将校時代

陸大卒業後、原隊復帰を経て、陸軍中央等において主に支那畑を歩む。南京領事館附駐在武官として南京に駐在していた 1927年3月南京事件に遭遇、領事館を襲撃してきた北伐軍暴兵に素手で立ち向かったものの銃剣で刺され、更に二階から飛び降りて脱出を図った際に重傷を負った。自分が死ぬことで、幣原外交の軟弱さを変えようとしたと後に語っている。

帰国後、1928年6月に起きた満州某重大事件を皮切りに、満蒙問題等解決の為に、国策を研究する目的で、石原莞爾鈴木貞一村上啓作武藤章ら陸士21期生から27期生の少壮将校を中心に、同年11月に9名で結成された無名会(別名 木曜会)に参画する。続いて翌年5月には、軍の改革と人事刷新、統帥の国務からの分離、合法的な国家総動員体制の確立等を目指し、永田鉄山岡村寧次小畑敏四郎板垣征四郎土肥原賢二東條英機山下奉文ら陸士15期から18期生を中心に結成された、二葉会に吸収される形で成立した一夕会に加わった。

その後、中佐時代の1930年9月、国家改造を掲げる結社桜会にも参加するようになり、翌年には陸軍のクーデター事件である三月事件に連座するも、中心人物である橋本欣五郎ら急進派の行動に危惧や不信感を抱き、また一夕会の東條らの説得もあり次第に桜会から距離を置くようになる。十月事件にも半ば連座する形になったものの、幾人かの同士達と、当時の参謀本部作戦課長今村均大佐に自ら計画を漏洩、未遂に終わらせる事に寄与、一時期の拘束で処分は済んだ。

[編集] 中堅将校時代

1935年8月12日に起きた相沢事件時には、事情が分からずに、事件を起こした直後に連行される相沢に駆け寄り、握手を交わしたとされ、統制派の将校であるにも関わらず、誤解を受ける行動を起こした事を、後に悔やんでいる。

二・二六事件の際は、陸軍省新聞班長として部下に、あの有名な「兵に告ぐ、勅命が発せられたのである。既に天皇陛下の御命令が発せられたのである。お前達は上官の命令が正しいものと信じて・・」の戒厳司令部発表を、反乱軍の占拠地帯に向かって拡声器を通じて放送させ、反乱軍を動揺させて切り崩し工作を図った。根本は決起将校らが陸軍大臣に宛てた「陸軍大臣要望事項」の中で、軍權を私したる中心人物として、武藤章中佐、片倉衷少佐と共に即時罷免を求められている。また同事件時、決起将校らが2月26日の未明から、陸軍省において根本を待ち伏せていたが、昨晩から深酒をして寝過ごした為に命拾いした。

[編集] 高級将校時代

二・二六事件後の陸軍再編により原隊の連隊長に就任、日中戦争後は専門である支那畑に復帰、終戦に至るまで中国の現地司令部における参謀長や司令官を長らく務めた。

根本について特筆すべきは、1944年11月に就任した駐蒙軍司令官としての終戦時における行動である。終戦日の8月15日を過ぎても、ソ連軍は満州や中国での侵攻を止めず、暴虐の限りを尽くし、日本軍や在留邦人を苦しめていた。このまま手をこまねいていては、同地域に滞在していた同胞4万人の命が危ない。一方で日本の降伏後、ソ連軍に抗戦したら罪に問われる可能性もあったが、その際は一切の責任を負って自分が腹を切れば済む事だと覚悟を決め、根本は『理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負う』と、日本軍守備隊に対して命令を下した。途中幾度と停戦交渉を試みるもソ連軍は攻撃を止めず、部下将兵は必死にソ連軍の攻撃を食い止めながら、すさまじい白兵戦をも乗り越え、更に八路軍(中国共産党軍の前身)からの攻撃にも必死に耐え、居留民4万人を乗せた列車と線路を守り抜いた。8月19日から始まったソ連軍との戦闘はおよそ三日三晩続いたものの、日本軍の必死の反撃にソ連軍は戦意を喪失した為、日本軍は8月21日以降撤退を開始、最後の隊が27日に万里の長城へ帰着した。出迎えた駐蒙軍参謀長は「落涙止まらず、慰謝の念をも述ぶるに能わず」と記している。一方、20日に内蒙古を脱出した4万人の日本人は、三日三晩掛けて天津へ脱出した。その後も引揚船に乗るまで日本軍や政府関係者は彼らの食料や衣服の提供に必死に努力した。

引揚の際、駐蒙軍の野戦鉄道司令部は、引き揚げ列車への食料供給に苦心していたとされる。8月17日頃から、軍の倉庫にあった米や乾パンを先に、沿線の各駅にトラックで大量に輸送していた。また、満州では関東軍が8月10日、居留民の緊急輸送を計画したが、居留民会が短時間での出発は大混乱を招く為に不可能と反対し、11日になってもほとんど誰も新京駅に現れず、結局、軍人家族のみを第一列車に乗せざるを得なかった。これが居留民の悲劇を呼んだと言われる。尚、前任の下村定陸軍大将が最後の陸軍大臣になった事を受けて8月19日、北支那方面軍司令官を兼任した。

[編集] 復員後

復員後の1949年6月、宮崎県延岡市の沿岸から極秘に台湾へ渡り、中国名「林保源」として湯恩伯の第5軍管区司令官顧問、中将に任命された。同年10月には、国民政府が台湾へ移り、中華人民共和国が成立した後、最初の本格的な戦いである、本土から数kmしか離れていない金門島における古寧頭の戦いを指揮、上陸してきた中国人民解放軍を見事に破り、同島を死守した。この時金門島に2万とも3万とも言われる人民解放軍が上陸した際、根本はこれを8千から1万の兵を率いて邀撃殲滅したとされる。ただ一方で、金門島の戦いで根本を含めた旧日本軍将校は、現場指揮官として兵を直接率いたのではなく、あくまで助言に徹し、表面には出ないようにしていたとの証言もあるが、戦いの勝利に貢献した事は間違いないようである。

根本帰国後も、この島を巡っては激戦(金門砲戦)が展開されたが、台湾側は人民解放軍の凄まじい攻撃を凌ぎ、現在に至る台湾の分離が確定した。根本は、蒋介石が敗戦時の日本軍捕虜に対し人道的に対応し、国に賠償金を要求しなかった事に恩義を感じていたとも言われている。尚、日本の終戦後に、根本以外にも台湾へ渡り軍事的協力を行った日本の元軍人がいた。その代表的なのが白団で、1950年頃から1968年頃まで、当初は83名から最終的には5名に至る状況ではあったが、台湾側の要請(があったと言われている)により、極秘に渡行して中国名を名乗り、軍事顧問団として協力している。当時アメリカの軍事顧問団もいたが、台湾側としては日本の戦い方の方が、台湾の戦い方に会っていると判断していたと思われる。当時の日本政府もこの情報を一部掴んでいたものの、黙認していたとされる。

[編集] 年譜

  • 明治24年 6月6日 出生(福島県岩瀬郡仁井田村)
  • 明治37年 9月 仙台陸軍地方幼年学校入学
  • 明治40年 9月 東京陸軍中央幼年学校入学
  • 明治42年 5月 東京陸軍中央幼年学校卒業
  • 明治42年 5月 士官候補生
  • 明治42年12月1日 陸軍士官学校入校
  • 明治44年 5月27日 陸軍士官学校卒業
  • 明治44年 6月 見習仕官旭川歩兵第27聯隊
  • 明治44年12月26日 陸軍歩兵少尉旭川歩兵第27聯隊
  • 大正3年12月 陸軍歩兵中尉
  • 大正 8年12月1日 陸軍大学校入校
  • 大正10年 4月 陸軍歩兵大尉
  • 大正11年11月29日 陸軍大学校卒業
  • 大正12年 5月 旭川歩兵第27聯隊第一中隊
  • 大正12年12月 参謀本部支那課支那班
  • 大正13年 8月 参謀本部部員
  • 大正15年 3月 参謀本部附(支那研究員)
  • 大正15年 5月1日 参謀本部附 南京駐在武官
  • 大正15年 8月 陸軍歩兵少佐
  • 昭和 2年 3月 南京事件で負傷
  • 昭和 2年 9月9日 陸軍省軍務局課員(支那班長)
  • 昭和 4年 3月 参謀本部附(ドイツ出張)
  • 昭和 4年12月 参謀本部支那課支那班員
  • 昭和 5年 8月1日 陸軍歩兵中佐参謀本部支那課支那班長
  • 昭和 7年 5月 参謀本部部員
  • 昭和 7年 8月8日  参謀本部附(上海駐在武官)
  • 昭和 8年 7月4日 支那駐屯軍司令部兼参謀本部附
  • 昭和 9年 3月5日 陸軍兵器本廠附(陸軍省新聞班長)
  • 昭和 9年 8月1日 陸軍歩兵大佐
  • 昭和11年 2月26日 戒厳司令部第四課長
  • 昭和11年 3月7日 旭川歩兵第27聯隊長
  • 昭和12年 9月4日 北支那方面軍司令部附
  • 昭和13年 5月14日 北支那方面軍特務部長
  • 昭和13年 7月15日 陸軍少将
  • 昭和14年 3月10日 興亜院華北連絡部次長
  • 昭和14年 8月1日 参謀本部附
  • 昭和14年12月1日 第21軍参謀長
  • 昭和15年 2月10日 南支那方面軍参謀長
  • 昭和16年 3月1日 陸軍中将第24師団
  • 昭和19年 2月7日 第3軍司令官
  • 昭和19年11月23日 駐蒙軍司令官
  • 昭和20年 8月19日 北支那方面軍司令官兼駐蒙軍司令官
  • 昭和21年 8月 復員
  • 昭和24年 5月 台湾政府の対中共作戦に協力(~昭和27年6月)
  • 昭和41年 5月24日 死去

[編集] 関連項目

[編集] 関連書籍

  • 小松茂朗『戦略将軍根本博 - ある軍司令官の深謀』光人社、1987年。
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