利用者:村田昇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
村田 昇(むらた のぼる)とは、株式会社チェンジビジョンの開発者の一人である。 IPユーザーとしては2006年初頭ごろから記事の編集に加わった事がある。
目次 |
[編集] 技術者としての略歴
8bitパソコンが全盛だった12歳の時からパソコンを触っている。
[編集] 現在
職業としては、CADの開発や組込系開発を経験して、2003年ごろから現在JUDEの開発にかかわっている。
(なお、JUDEの発音は「ユダ」ではなく、「ヘイ・ジュード」の「ジュード」。なお、最近JUDE (ソフトウェア)の項目を立ち上げたが、宣伝にならない様に、また発表していない情報を書かない様に、気を使った。良記事にする為にも、他のウィキペディアンによる加筆をお願いする。)
オブジェクト指向を学び始めたのは比較的遅く、株式会社永和システムマネジメントに転籍してからである。この為、JUDEの開発に関わったのはJude竹の時代からである。UMLの飲み込みは早かった方だと思うが、特にクラス図をきちんと設計に応用できるようになるには結構時間が掛かった。
[編集] 社内ではユニークな経験について
以前の職場で組込系開発を経験しており、趣味で自作パソコンを作っているので、私をハードウェア畑の技術者だと思う同僚が居るが、実は誤解である。
確かに、組込系開発を経験しているので、若い頃から自己流のステートチャート図を描いたりしていた。例えば、ダンプリストの状態で放棄されてしまった機械語のソフトウェアを改良して完成させる仕事を経験した事がある。そうした経験から、同じ機械語の技術者でも、ハードウェア畑の人とソフトウェア畑の人では、こういう部分での発想が異なる様に感じている。
[編集] 組込ソフトウェア技術者は、ハードウェア技術者にあらず
例えば、CPUの設計に関わる技術者にとっては、CPUの振る舞いは、基本的にメモリやI/Oとのデータのやりとりと、演算や命令の結果による各レジスタの変化が重要なのである。だから逆アセンブルコードを解析する場合には、こうした個々の振る舞いに目を留める。よって、比較命令と減算命令の違いにあまり注意を払わないらしい。しかし、同じ逆アセンブルコードをソフトウェア畑の技術者が見ると、比較命令や減算を含む各種の演算の結果によるフラグレジスタの結果と、その直後のフラグレジスタの状態に条件付けられたプログラムカウンタレジスタの変化は、一体の条件分岐命令として映るのである。この意識は、処理の流れの把握に決定的な差を産む事になる。よって、両者が書き起こすフローチャートが、トポロジー的には同義であっても、ソフトウェア畑の技術者が描いた場合には、状態を意識したレイアウトへと洗練されているのである。そして、その中間生産物として自己流のステートチャート図が存在する事には疑いの余地がない。(無論、これは技術者の役割の差から生じる違いであって、ソフトウェア畑の技術者には、間違ってもCPUの設計はできない。実際、私はその頃、「神の手」の様な半田付けの腕前を持つ人たちに囲まれて働いていたのである。これに比べれば、今日の自作パソコンなど積み木遊びも同然だろう。)
この様に、現在UMLの一部になっている図の概念については、どの様な分野のソフトウェア開発者でも、自己流で似た様な発想をするものだと思う。それらの記法を統合したスリーアミーゴスは偉大であるが、同時に、UMLだけでは解決できない問題もあるわけで、JUDEをより実践的なツールに成長させる事に、技術者としての誇りを求めたいと考えている。
[編集] 基本仕様
2006年7月に計測した知能指数は126で、2003年3月に計測した知能指数は108である(いずれもWAIS-R式にて計測した総合値)。
最終学歴は、近畿大学商経学部経済学科であるが、ゼミは「管理工学」を取っていたので、卒業論文では「イベント駆動型マルチタスクアプリケーションにおける電子計算機資源の管理と配分」というテーマをこじつけて単位をもらった。平たく言うと、コンピュータで複数のアプリケーションを動かす仕組みについてである。なお、当時の近畿大学商経学部のコンピューターは古いもので(翌年入れ替わる)、COBOLの単位を取るために、パンチカードを使ってソースコードを入力した経験がある。
また、近畿大学には3年生として編入学しており、その前にはECCコンピュータ学院(現ECCコンピュータ専門学校)大阪校のAIB(近畿大学短期大学部併修特待生)コースの第一期生であった。
出身高校は兵庫県立川西緑台高校で、所属クラブは数学研究部で、部長を一年間務めた。
[編集] 合格した事のある試験
- 旧第一種情報処理技術者
- 旧パソコン認定試験1級
- 旧UMLシルバーレベル(オージス総研)
[編集] 関連リンク
[編集] 技術者として新規に書いた項目
...もうちょっと頑張るべきである…
[編集] 技術者として書きたい項目
- XML Metadata Interchange
- イヴァー・ヤコブソン
- 祝一平(テクニカルライター、満開製作所初代社長)残念ながら故人。私の技術者としての情熱とおたくとしてのコダワリの基礎になった人。
- デバッグ
- 2進接頭辞の各リダイレクト元
- 統一モデリング言語 UML(モデリング言語)への改名も提案したい処だが…
- マインドマッピング
- トヨタ生産方式
- 自己診断機能 (自動車) OBD(On Board Diagnosis)とも言う。
...などなど。
[編集] 技術者として勝手に尊敬しているウィキペディアン
[編集] おたくとしての略歴
1980年代からのパソコンおたくである。
私用の愛機の遍歴は、PB-100(CASIO)、X1、X68000(シャープ株式会社)、マッキントッシュPerforma520(これを購入したのは同時期のX68030の3分の1の値段で買えたからである)、LC575、PowerMacintosh8115(出版業関係の為に販売され、一般向けに販売されなかったレアな機種。一度友人の手に渡り、現在私の手元に戻った)、PowerMacintosh G3(B&W)(300MHzモデルを500MHzに改造しペルチェ素子で冷却)、PowerBook G3(Lombard)(333MHz)(これらの機種ではギリギリなMacOSX Tigerを導入しようか迷っている)(アップルコンピュータ)、AT互換機の自作パソコン(常時改造中:Pentium4 3.4GHz(Prescott)を搭載していたPCのマザーボードが故障し、使っていたCPUを予備機のマザーボードで使用できない為、現在はPentium4 2.8GHz(NorthWood)にグレードダウンしている。ただし予備機のマザーボードのチップセットがインテル製なので、むしろ動作が安定して快適になった感がある。ソケット478をやめるのは大分先になるだろう)。
仕事では8bitマイコンから64bitワークステーションまでと、色々な開発環境を利用してきたが、現在は、DELL Precision 380(Pentium4 3GHz) と、PowerMac Mini (G4 1.5GHz)を使っている。
また、SF・ファンタジー系のアニメおたくであるが、主に1970年代から1980年代の作品を好む。ポールのミラクル大作戦(タツノコプロ)、魔法のプリンセスミンキーモモ(旧作)(葦プロダクション)など。また、スタートレックシリーズのファン(トレッキー)でもある。
さらに、1970年代のスーパーカーブームの影響から、自動車おたくでもあり、1970年代のヨーロッパ車やレシプロエンジンの仕組みには詳しい方である。
最近、トニーノ・ランボルギーニがプロデュースしたマウンテンバイクを購入し、健康の為に自転車通勤を始めた。
[編集] おたくとして書いた項目
[編集] 新規に立ち上げた項目
[編集] 多く書いてそれが現在でも活かされている項目
[編集] 他の来歴
解散直前のシャープEXEクラブ「おみこし活動隊」に、X68000シリーズの行く末を心配する投書を続け、これが機関紙の「おみこしプレス」に「メーカーに物申す」という短期連載という形で掲載されてしまった事がある。今にして思えば青臭い文章だったが、日本語で主張を表現する事が若い頃から好きだったのだろう。
高校三年生の時に、文化祭で演劇を行う事になり、オリジナルのファンタジー劇の脚本を書いて、自ら魔王サラマンダーの役を演じた。(この時の演技は、デーモン小暮や、ジョジョの奇妙な冒険のディオ、ポールのミラクル大作戦のベルト・サタンを意識したものだった。)他の組を抑えて優勝したので、二回上演されたが、二回目の上演で、勇者が使う小道具の「風の剣」を折ってしまい、アドリブでなんとかしのいで、勇者に魔王の「炎の剣」を奪わせて自滅した。なお、上演時のBGMにはホルストの組曲「惑星」から「火星」と「土星」を使用し、殺陣を「火星」の曲調に合わせる等の工夫をした。
10代の頃には、科学で説明できない世界に傾倒していた。今でこそ健康保険も適用される様になった東洋医学だが、当時はオカルト雑誌で取り上げられる事も多かった。勿論、私はそれについても関心があって、保健体育の自由研究では気功をテーマにしたのである。この時、教師からは「病は気から」というフォローが入ったが、同級生たちは、『魁!!男塾』において、主人公が「氣功闘法」という技を使い、作中で引用された架空の本の出版社「民明書房」がそれをもっともらしく解説していた事から信じてしまった。この為、しばらく尊敬を集めてしまう。今でこそ「民明書房」が作品世界を演出する為にトンデモ本ばかりを出版している事になっている架空の出版社である事は広く知られているが、『男塾』の連載当初は結構信憑性の高い取り上げ方をされていたので、同級生たちは実在の出版社だと信じてしまったのである。
20歳の頃に、大阪で開催された山田かまち展を見に行き、そこで朝日放送の取材を受けた際に、「青臭くて俺にも描けそうな作品ばかりだ。」と回答した。真意としては、「それ故に彼に共感できる。」と言いたかったのであるが、「どうしてそう思うのですか?」とインタビュアーに突っ込まれ、真意を答える事はできなかった。(おそらくニュース素材としてはボツになったのだろう。)
好きな動物はうさぎ。また、スズメの雛を保護して育てた事もある。
好きな画家は、永田萠、きたのじゅんこ、おおた慶文、深沢邦朗、ディック・ブルーナなど。
好きな童話作家は角野栄子、立原えりかなど。
最初に萌えたキャラクターは、SPハーレーのピカちゃん。(「SPハーレー」は学研の学習雑誌に連載されていた石ノ森章太郎の萬画であり、チックンタックンの前身になった作品。ピカちゃんはサイボーグ009の003(フランソワーズ)を幼くしたようなキャラクター。)
次に萌えたキャラクターは、ポールのミラクル大作戦のニーナ。男ばかりの兄弟で育った為か、ポールとニーナの様なちょっと大人な仲良しさんの関係には、幼心に憧れを抱いていたと思われ、幼馴染萌えもしくは姉妹萌えなのかもしれない。 (この様に「二次元の人物を好きになる」という「萌え」の資質を、私は元から持っていたらしい。)
幼少期から球技に関しては特に「運動音痴」である事にコンプレックスを持っていたが、父からは登山とハイキング、母からは水泳を教えられ、病弱でありながらもそこそこ健康に育つ事ができた。
しかし、就職と自動車運転免許の取得に伴い、運動不足が慢性化してしまい、体重が急増してしまった。何度かダイエットを試みたが、激しい運動は元々不向きなので、失敗してしまっている。今後は持続できる種類のダイエットを模索しており、前述した自転車通勤はその一環である。
2008年4月現在独身であり、シングルリンゲンのNo.0006454をはめている。当面、婚姻の予定はない。
[編集] 信仰・信条
ローマ・カトリック教会の青年受洗者である。父がカトリック信徒である為、求道期間は短く、また堅信も同時に受けている。
また、「宗教と科学は別」というスタンスを取っている為、生物については、父ともども進化論を支持している。
[編集] 洗礼名について
洗礼名は「パウロ・マリア」。英語表記をすると「ポール・メアリー」であり、ポールの部分は、前述の「ポールのミラクル大作戦」やポール・マッカートニー、遠藤周作の洗礼名、父の堅信名にちなんで名付けた。また、マリアの部分は、聖母マリアにあやかって名付けた。
日本人のカトリック教徒の中では、この様な二重名や「マリア」を男性が名乗る例は珍しいが、ブラジル等では男性に普通に見られる洗礼名である。また、「ポール・メアリー」は、私に洗礼を授けたアメリカ人司祭が尊敬する司教の名でもある。
ちなみに、堅信名も「パウロ・マリア」である。
受洗前には、私は「マリア」を名乗るつもりであったが、司祭から「男なのでマリオにしなさい」と言われた。しかし、私は「俺はマリオブラザーズじゃない」と思い、聖母の名である「マリア」の字を入れたいと強く希望したので、司祭からの案は「パウロ・マリア」となった。同じ事を、普段司祭と交流を持たず、かつ信徒でもある父からも言われた為、これを天命と思い、また前述した理由から「パウロ」も悪くはないと思ったので、「パウロ・マリア」を襲名した次第である。
後に「マリオ」が「マリア」の男性形ではないという事を、私はこのウィキペディアで知る事になる。(イタリア人の姓名参照の事。)
[編集] ルーツ
名の「昇」は、五島昇にちなんで名付けられた。
父はアンチ巨人なので、私と名前がとても似ていて、しかも同じカトリックである青田昇とは無関係だろう。しかも青田昇がカトリックになったのは、晩年の1997年なので、クリスチャンとしては私の方が先輩である。
「村田」という極めて平凡な姓であるが、福井県大野市の百姓の出であり、「一本差し」(ここでは、高額納税者に与えられる名誉士族としての身分の事。2006年に亡くなった父方の祖母が、そういう表現をしていた。本来の士族は、刀と脇差の「二本差し」。[1])としての姓である事が判っている。祖先は代々(6代目である曽祖父までは公式に)、「村田甚太夫」と名乗っていた(菩提寺の記録により確認)が、江戸時代からの事であり、戦国時代の武将ではない事だけは確実である。また、曽祖父、祖父、父の三代に渡って大工ないしは建築家である。
父の持論によると、日本人の人名に用いられる「田」という文字には、文字通りの「たんぼ」の意味を越えて、「○○がある所」という意味があるとの事である。(例えば、「石田」さんは「石を作る田んぼ」ではないし、「竹田」さんは「竹を作る田んぼ」ではない。)そうだとすると、「村田」は「村がある所(に住む人)」という意味であり、極めて平凡な「とある日本人」という事になる。
母方の祖父は、宝生流の能楽師(東海能楽研究会にシテ(主役)としての記録が残っている[2]。晩年に勲五等を受賞した。)、 古田卯太郎である。この名も代々のものらしく、曽祖父も同名である事が判っている(出典:明治42年刊「福井案内記」)が、能楽師としては祖父一代限りで、親戚には弟子は居ない。古田織部とはおそらく無関係である。代々、古田材木店の経営者でもあったが、第二次世界大戦と福井地震の被害と、祖父が能楽に打ち込んだ事によって、店が衰退してしまった。父と母の縁は、大工の家と材木商という商売上の繋がりだったそうであるが、母が縁談を受けた理由は父が大工を継がずにゼネコンに就職したサラリーマンだったからとの事である。(おかげで私は産まれる事ができた。)
また、母方の更に母方の旧姓は「根来(ねごろ)」であり、雑賀衆と共に現在の和歌山県を拠点にしていた鉄砲軍団の根来衆に属していたと伝えられる。(根来衆は信長とは協力関係にあったが、信長の死後、大阪での利権争いの末に秀吉に滅ぼされた。祖先は父方も母方も一兵卒としては秀吉と敵対していた事になり、子孫の中に秀吉に弾圧されたキリシタンが出てきた事から見ても、反秀吉の血が濃いのかもしれない。)ちなみに、歴史シミュレーションゲームの「斬-陽炎の時代-」では、根来衆は「雑賀党根来衆」という一つの勢力として表現されている。私がこのゲームで遊んでいた頃、ご先祖様とは露知らず、「ねごろ」と読む事もできず、「ざつがとうこんぺいしゅう」を信長を使って蹂躙して遊んでしまっていた。
なお、母方の祖母は、祖父に嫁いだ際に、姓だけではなく名も改名させられたというエピソードを持つ。(商慣習上の理由らしいが、詳しい事を孫の私は知らない。)