日本共産党査問リンチ事件
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日本共産党査問「リンチ」事件(にほんきょうさんとうさもんりんちじけん)は、治安維持法下の1933年に東京府東京市(現東京都)で発生した。「日本共産党にもぐりこんだ特高警察のスパイ」の査問中の「急死事件」(非外傷性ショック死)を、「殺人」事件と見る立場からの呼び名である。当時は赤色リンチ事件として喧伝された。
当時の日本共産党は、いわゆる赤色ギャング事件などにより、一般国民からはまるであたかも「犯罪者集団」のようなイメージをもたれていた。「侵略戦争に反対する日本共産党」は国民の前からおおい隠されていた。そのため、報道機関も、警察の発表のまま、「リンチ」と報道した。
目次 |
[編集] 警察側による記述
[編集] 事件の概要
1933年12月20日の深夜、警視庁特別高等警察課に助けを求めてきた一人の男が現れ、保護された。
男は日本共産党印刷局副主任で、5日前に“警察のスパイ”と疑われ、「査問」と称するリンチにかけられ監禁されていたが、このままでは殺されると考え、何とか逃げ出してきたとのことであった。
12月24日付『赤旗』(現『しんぶん赤旗』)に「中央委員小畑達夫、大泉兼蔵の両名は、党撹乱者として除名し、党規に基づき極刑をもって断罪する。」との党中央の声明が掲載された。警視庁は、この「極刑」という表現に注目、上記の副主任と同様のリンチが両名に加えられ、場合によっては殺害されている可能性があるということで、彼らを救出すべく捜査が行われた。12月26日に中央委員宮本顕治を逮捕したが、宮本は黙秘し続けた。
翌1934年1月15日午後4時30分、警視庁麻布鳥居坂警察署(現麻布警察署)の巡査が勤務を終え、目黒区の自宅に戻ったところ、近所の住人から「助けてくれえ!」という叫び声を聞いたとの話を聞き、現地に直行したところ、一人の男が射殺されようとしている現場を目撃した。巡査は直ちに現場に踏み込み、拳銃を持っていた共産党員の女を逮捕した。殺されようとしていた男は大泉兼蔵であった。大泉兼蔵の供述により、小畑達夫は既に殺され、民家の床下に埋められているとのことであった。そして、その供述通り小畑達夫の遺体が発見された。
小畑達夫の死は外傷性のものでなく特異体質によるショック死[1]であったが、山県警部は宮本顕治に対して「これは共産党をデマる為に絶好の材料である。今度我々はこの材料を充分利用して、大々的に党から大衆を切り離す為にやる。」と告げた。 [2]
[編集] 事件の動機及び経過
1933年、党中央委員会は天皇制・特高警察による徹底した弾圧によって壊滅的打撃を受けていたが検挙をまぬがれた幹部で党中央を再建した。このときいわゆるインテリ層中心のその構成に労働者出身の小畑と大泉がこれに反発、最終的に小畑と大泉が中央委員となり、宮本らが外されることになった。このことにより宮本は小畑・大泉を憎悪し「抹殺を企て」たとされる[要出典]。宮本は党内クーデターを実行し、自らを委員長とする[要出典]党中央を組織した。
1933年12月23日、この日の早朝に皇太子明仁親王(現天皇)が誕生し、大日本帝国中が奉祝ムードに包まれていた。その日、宮本らは小畑・大泉の両名を会合を開くと称して呼び出し、そのまま監禁した。
その後の裁判での認定[要出典]によると、彼らに加えられた暴力行為は以下のようなものであったとされる。まず最初に大泉に対して棍棒で殴打するなどのリンチを加え気絶させた[要出典]。その後小畑を引きずり出し、キリで股を突き刺したり、濃硫酸をかけるなどの凄惨な拷問を加えた[要出典]。最後に薪割で小畑の頭部に一撃を加え殺害した[要出典]。そして大泉を引き出して小畑同様のリンチを加えた[要出典]。大泉はこの拷問に耐え切れず気絶したが、宮本らは死亡したものと早合点しそのまま引き上げた[要出典]。大泉はまもなく蘇生した[要出典]。
(なお、宮本顕治の公判では、小畑の死因は「外傷性ショック死」とされていて、この項目の記述とは異なっている。この項目の「裁判」が何をさしているのかは不詳である。)
一方、宮本らは大泉のハウスキーパーの女性を誘い出し、同様に監禁し「査問」を行った。
宮本らは、小畑の死を見てしまった大泉たちの処置に苦慮した。女性が「本当に大泉がスパイなら一緒に殺してくれ」と言ったところ、宮本らも良心が咎めたのか、直接手を下そうとはしなかった。以後彼らは20日間にわたって監禁されることになった。その間、12月26日に宮本は逮捕された。
そして大泉と女性の二人は“自殺”を強要され、1934年1月14日が「死刑執行日」となった。前日の13日は最後の晩餐ということで、特別に和菓子が振舞われ、「思想的に行き詰まったので自殺する」旨の“遺書”を書かされた。
ところが、翌日になって警察の気配を感じたため「執行」は延期され、別のアジトに移された。
運命の1月15日、遂に生還のために監視人に対して最後の抵抗を試みた。監視人は思わぬ反撃に逆上し大泉に拳銃を突きつけた。しかし間一髪のところで上記の通り巡査が飛び込み、二人は命拾いすることになった。
また、同時並行で波多然・大沢武男に対してもリンチが行われた。荻野増治にも査問の手が及んだが、身の危険を察知し警視庁に駆け込んだ。宮本が逮捕されたのは荻野の自白によるものであった。
[編集] 判決
「リンチ」事件の実行者には、さすがに殺人罪の適用はできず[3]、「リンチ」そのものの罪[要出典]に加え、治安維持法違反の政治犯としての罪が加算され、以下の判決が下った。
- 宮本顕治党中央委員(非転向)無期懲役
- 袴田里見党中央委員(非転向)懲役15年
- 秋笹政之助党中央委員(転向)懲役10年
- 逸見重雄党中央委員(転向)懲役5年
- 木島隆明党中央組織委員(転向)懲役5年
- 加藤亮懲役3年
また、この事件の「被害者」である大泉兼蔵も、名目上共産党の幹部であることには違いないため、本人はスパイであることを理由に無罪を主張したものの、治安維持法違反で懲役5年の判決[要出典]が下った。特高はスパイ摘発を日本共産党内の派閥争いだと宣伝したが、結局のところ、大泉が自ら特高のスパイであることを裁判で述べたためこのデマは崩れたのである。
[編集] 後日談
上記の受刑者のうち、終戦時の段階で収監されていた者はGHQの指令(政治犯の釈放)により釈放され、宮本・袴田らは再建された日本共産党の要職を務めた。また逸見は獄中で転向し、戦後大学教授を務めた。
1947年、刑の執行停止状態に気づいた東京検事局が宮本らに出頭を要求したため、宮本らは抗議し、5月29日付で昭和20年勅令第730号(政治犯人等ノ資格回復ニ関スル件)に基づく復権証明書を発行させた。(共産党側は、この復権により一般刑法犯の有罪判決も治安維持法違反の一環としてなされた不当判決であり、無実であることが証明されたとしている)その後、この問題は政治の焦点からははずれていた。1955年、宮本が東京都第1区から第27回衆議院議員総選挙に立候補したときも、この問題が蒸し返されることはなかった。
しかし、1972年の総選挙で日本共産党が野党第2党の地位を占め、国会運営にも積極的にかかわり、民主連合政府の提唱を行うようになる中で、共産党へのダメージをあたえるために、この問題の再利用がはかられた。1974年6月26日、民社党の春日一幸委員長は『毎日新聞』の参議院選挙取材で、スパイ査問事件を取り上げ、「宮本は小畑をリンチで殺した」と主張。選挙の共産党批判に使った。共産党は「小畑は特異体質により死亡したもの」と抗議した。
立花隆の『日本共産党の研究』(『文藝春秋』1976年1月号(1975年12月10日発売)から連載開始)では、上記GHQ指令とそれに基づく政治犯釈放は、純粋な政治犯に適用されるものであって、治安維持法及び刑法(監禁致死罪など)でも有罪とされた宮本は本来は対象外のはずであると指摘された。これがいわゆる復権問題(法的に刑期が残っているとすれば公民権は回復されていないことになる)である。
スパイリンチ査問事件の存否と復権問題は、1976年には当時の民社党の春日一幸によって国会で取り上げられた。1月30日、民社党の塚本三郎の質問に対し、稲葉修法相は確定判決でも認定されていないリンチ殺人だと発言した。『文藝春秋』はさらに3月号で、鬼頭史郎判事補により違法コピーされた「刑執行停止上申書」と「診断書」を掲載した。一方、共産党側も裁判の実態を明らかにするため、新日本出版社から『宮本顕治公判記録』(ISBN 4-406-00408-4)を出版した。自由民主党は民社党と共同でリンチ査問事件を追及した。しかし、他の野党は、春日が治安維持法を自明の存在として宮本を非難したことから、春日がこの事件にかこつけて言論弾圧を推進していると警戒した(春日違憲質問)。そのため、野党もマスコミも宮本に同情的であった。
袴田里見は1977年(昭和52年)、宮本顕治のスパイ査問事件に関連して週刊誌などで党や宮本を批判し、共産党から規律違反(党外からの党攻撃)により除名処分を受けた。まもなく新潮社から暴露本を出版した(『昨日の同志宮本顕治へ』1978年)。
1988年、衆議院予算委員会において当時予算委員長を務めていた浜田幸一はこの事件にふれて、「ミヤザワケンジ(宮本顕治の誤り)君は人殺し」と発言し、予算委員長を辞任した(詳細は浜田幸一#「宮本顕治人殺し」発言を参照)。
[編集] 注
- ^ 宮本顕治「スパイ挑発との闘争-1933年の一記録-」(『月刊読売』1946年3月号「“赤色リンチ事件”の真相」に掲載され、その後『宮本顕治公判記録』に収録)には「小畑の死因を、最初の鑑定書は、脳震迫であるとしたが、事実、かれが暴れだした時、なにびとも脳震迫をひきおこすような打撃を加えていないのである。そうして再鑑定書は、脳震迫とみなすような重大な損傷は身体のどこにもないこと、むしろショック死(特異体質者が一般人にはこたえない軽微の刺戦によっても急死する場合を法医学上、普通ショック死という)と推定すべきであるとした。そして、裁判所もついにこの事件を殺人および殺人未遂事件として捏造することが不可能となった」とある。
- ^ 1940年4月18日公判・冒頭陳述。所収、「スパイ査問事件と復権問題の真実」『文化評論』1976年4月臨時増刊号。
- ^ 『日本共産党の戦後秘史』によると、当時は未必の故意の判例が確立されていなかったため、検察は宮本顕治を傷害致死罪でしか起訴できなかったという。現在の刑事裁判ならば、「極刑をもって断罪する。」という赤旗の声明からみても、未必の故意による殺人罪に問えるケース[要出典]であったという。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献(本文中に書名があげられていないもの)
[編集] 警察発表の立場に立った文献
- 警視庁史編さん委員会 編『警視庁史(第3)』1962年
- 立花隆『日本共産党の研究 下』1978年
- 兵本達吉『日本共産党の戦後秘史』2005年
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