山岸一雄
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山岸 一雄(やまぎし かずお、1934年4月28日 - )は東京都豊島区東池袋にあったラーメン店「大勝軒」の創業者である。つけ麺を考案した人物としても知られる。長野県出身。
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[編集] 概説
父親が日本海軍の職業軍人であったことが影響し、小さい頃は海軍の軍人になるのが夢であったが、終戦によってその夢も無くなり、早く東京に出て働いて家族に仕送りしたいと思うようになった[1]。1950年(昭和25年)中学卒業後上京し、印刷機の部品を作る工場で旋盤を扱う仕事をしていたが、1年位経った頃に仲が良く「兄貴」と慕っていた東京の10歳年上の従兄弟に勧められ1951年(昭和26年)4月、一緒のラーメン屋(修行店)に勤め始める[1]。その後修行店から「兄貴」が独立する際、一緒に行動を共にし『大勝軒』(中野店)を立ち上げ、後に「兄貴」が別の場所に本店(代々木上原店)を構えた事により、山岸が中野店の店長として任され活動していた頃、修行店時代から存在し賄食としていた「湯のみ茶碗にスープと醤油を入れたものへ、残ってしまった麺を浸したもの」を食していたところ、それを見ていた客の関心を惹きつけた事が転機となり、試行錯誤しながら研究を行いメニューの一品として完成させ、1955年「特製もりそば」として供されたものが商品化された最初のつけ麺といわれ、その考案者とされている[1]。
1961年(昭和36年)6月6日に『東池袋大勝軒』として独立創業(暖簾分け)。「特製もりそば」(つけ麺)を中心に人気を博す店となったが、仕事での無理を重ねたことにより二十代後半から下肢静脈瘤を発症し、40歳頃に痛みが限界に達したため手術等の治療を行ったが、この病気が様々な面で後々まで広く影響を及ぼしている[2]。独立創業する前の年、1960年(昭和35年)に結婚した妻が1986年(昭和61年)夏に病気発覚から死に至った事により、同年8月より7ヶ月休業したが、客の要望の高さを受け復活[3]。その後、方針転換から弟子を取ることによって約100人の弟子を持ち、暖簾分けもさせた。しかし、2005年に病気悪化のために厨房に立てなくなり時代の流れと東池袋付近の再開発もあって、2007年3月20日をもって閉店した。
しかし、地元住民を中心とした多くの人々から復活の要望が連日にわたって寄せられた。そして2008年1月5日、旧店舗から約100メートル先の場所に再オープンした。「南池袋大勝軒」の店主であった飯野敏彦に暖簾を譲ったが、山岸自身も厨房に出向いている。この再オープンに際し、地元住民の人々や全国から駆けつけたファンによって開店前から長蛇の列となった。用意した400食は約6時間で完売、1年近いブランクなどは微塵も感じさせなかった。
なお、再オープン準備中であった2007年9月6日に脳出血で病院に搬送され、3週間入院していたことを再オープン前日のプレオープンイベントで明かした。
趣味は音楽鑑賞、特にジャズが好みで、オーディオ機器に凝っていたこともある[3][4]。
[編集] 著書
- 『これが俺の味』(あさ出版)ISBN 4860630300
[編集] 脚注
- ^ a b c CodeZine 『東池袋大勝軒・初代店主 山岸一雄-その1-戦争の終結で消えた最初の夢』 より
- ^ CodeZine 『東池袋大勝軒・初代店主 山岸一雄-その2-27歳で独立、初の行列店に』 より
- ^ a b CodeZine 『東池袋大勝軒・初代店主 山岸一雄-その3-最愛の妻の死 絶望と孤独に耐えたつらい日々 再出発の日、無言でも大行列』 より
- ^ 城島茂のどっち派?!(TBSラジオ)2007年6月15日深夜放送にて本人談