坊ノ岬沖海戦
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坊ノ岬沖海戦 | |||
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航空攻撃を受ける戦艦大和。艦後部が大きく炎上し、雷撃による浸水のため喫水が深くなっている。 |
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戦争:太平洋戦争 | |||
年月日:1945年4月7日 | |||
場所:九州南方海域 | |||
結果:連合軍の勝利、日本海軍の海上作戦能力喪失 | |||
交戦勢力 | |||
大日本帝国海軍 |
アメリカ合衆国 |
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指揮官 | |||
伊藤整一中将 | マーク・A・ミッチャー中将 | ||
戦力 | |||
戦艦大和 軽巡洋艦矢矧 駆逐艦 8隻 |
航空母艦 11隻 艦載機 386機 |
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損害 | |||
戦艦大和 軽巡洋艦矢矧 駆逐艦 4隻 戦死 3,700名 |
艦載機損失 10機 戦死 12名 |
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坊ノ岬沖海戦(ぼうのみさきおきかいせん, 1945年4月7日)は、日本海軍が発動した天一号作戦の一環として出撃した戦艦大和と護衛の9隻の艦からなる水上特攻部隊と、アメリカ海軍の空母艦載機との戦闘のことである。日本海軍が立案・決行した最後の水上作戦であり、最終的に大和を含む6隻が撃沈された。
目次 |
[編集] 背景
太平洋戦争末期の1945年春、連合艦隊はすでに主力艦艇の大部分を喪失していた。戦艦大和以下、生き残ったわずかばかりの主力艦艇は呉軍港に繋がれていた。3月末、連合軍は、日本本土への上陸に向けた最終段階として沖縄への進攻作戦を開始し、大艦隊が沖縄沖に集結した。これに対して日本軍は沖縄防衛のため天号作戦を発動させ、特攻作戦である菊水作戦に呼応する形で、大和を中心とする艦隊を編成し沖縄沖へ出撃させることとなった。[1]
連合艦隊司令長官の豊田副武大将の指揮下に立案された作戦は、大和以下の艦隊を沖縄本島に突入させ、艦を座礁させ固定砲台として砲撃を行い、弾薬が底をついた後は乗員が陸戦隊として敵部隊へ突撃をかけるという生還を期さない特攻作戦であった。計画では、行動可能であった戦艦大和と長門を投入する予定であったが、位置(長門は当時横須賀在泊)や燃料の都合上大和のみとなる。当初片道分の燃料のみを搭載予定となっていたが、連合艦隊護衛総隊割り当て分の一部及び基地補給班が員数外(在庫としては計測されない物。例えとして、この艦隊の燃料には、基地の重油タンクの「底の方に貯まっている物まで」全て使われたという証言が、実際に残っている)を集め往復分を確保した[2]。
3月29日、大和は呉を出航し徳山沖で待機した。しかしアメリカ軍の制空権下における航空機の援護のない水上部隊の特攻など失敗に終わることは目に見えていた。第2艦隊司令長官の伊藤整一中将は最後まで作戦に反対だったという。4月5日に連合艦隊参謀長 草鹿龍之介中将が水上機で飛来し、伊藤中将を説得した。伊藤中将は草鹿中将の「一億総特攻の魁となって頂きたい」という言葉を聞き作戦を了承したという。
4月1日、連合軍は沖縄への上陸を開始した。これに対する日本軍の菊水作戦の発動は4月6日と決定された。
[編集] 両軍戦力
[編集] 日本軍
日本軍では、作戦のために第2艦隊からなる第1遊撃部隊が編成され、水上特攻を担当する部隊となった。出撃した部隊は以下の編制であった。参加兵力は計4,329名。平均年齢は27歳であったという[3]。
- 第1遊撃部隊(司令長官:伊藤整一中将、参謀長:森下信衛少将)
- 対潜掃討隊(瀬戸内海離脱後命令により反転帰還)
[編集] アメリカ軍
- 第58機動部隊(司令官:マーク・ミッチャー中将)
[編集] 戦闘
[編集] 出撃
4月6日16時、戦艦大和以下の第1遊撃部隊は徳山沖を出撃した。16時10分、伊藤長官は麾下の艦艇に対し出撃に際しての訓示を発する。
神機将ニ動カントス。皇国ノ隆替繋リテ此ノ一挙ニ存ス。各員奮戦激闘会敵ヲ必滅シ以テ海上特攻隊ノ本領ヲ発揮セヨ | ||
— 伊藤整一第二艦隊司令長官
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このように悲壮なる決意をもって第二艦隊は出撃したのである。豊後水道で対潜掃討隊と分離した後、艦隊は一路沖縄への進路を取る。 しかし20時20分頃、都井岬南方30海里の地点に配備されていたアメリカ軍の潜水艦スレッドフィンとハックルバックは豊後水道を南へ向かう日本艦隊を発見し、アメリカ艦隊へ日本艦隊の出撃を通報した。
4月7日払暁、日本艦隊は大隅半島を通過し外洋へ出て、南へ九州から沖縄へと向かった。日本艦隊は中央に矢矧、大和の順でならび、その周りを1,500メートルずつ離れて8隻の駆逐艦が輪形陣を敷き、20ノットで進んだ。 鹿屋基地の第5航空艦隊の零戦計20機前後が、司令長官宇垣纏中将の独断で早朝から午前10時頃までにかけて交代で護衛に当たった。駆逐艦のうち朝霜は7日早朝に機関故障を起こし艦隊から落伍した。アメリカ軍の偵察機は日本艦隊を追跡した。10時、日本艦隊は西に向きをかえ撤退するように見せかけたが、11時30分に沖縄へ向けて進路を変えた。
[編集] 第1波攻撃
大和の出撃を察知し、沖縄攻略の任に当たっていたアメリカ第5艦隊司令長官スプルーアンス大将は戦艦同士の決戦を求めたが、艦隊の進路が不明なため最終的にミッチャー中将の第58機動部隊による航空攻撃を許可した。
10時ごろ、沖縄の東に位置していた8隻の空母から数波にわたる約400機の攻撃隊が発進した。攻撃隊はF6Fヘルキャット戦闘機、F4Uコルセア戦闘機、SB2Cヘルダイバー爆撃機、TBF/TBMアベンジャー攻撃機で構成されていた。その他の支援艦艇も航空攻撃が失敗に終わった場合に備えて日本艦隊阻止のため集結した。日本艦隊には直掩機がなく、沖縄から2時間かけて到着したアメリカ軍の攻撃隊は日本艦隊の対空攻撃の射程外で、組織だった攻撃をおこなうために日本艦隊を取り囲むことが出来た。
第1波の攻撃隊は12時30分に攻撃を開始した。日本艦隊は速度を25ノットに上げ回避行動を開始し対空戦闘をはじめた。大和は約150基の対空火器を装備していた。雷撃機は転覆を狙うため左舷に攻撃を集中した。12時46分、矢矧の機関部に魚雷が命中した。これにより機関部員は全滅し矢矧は航行不能となった。第1波の攻撃で大和には爆弾2発と魚雷1本が命中した。速度の低下はなかったが爆弾の命中により艦尾で火災が発生した。また、この攻撃で涼月が大破して落伍し、浜風が沈没した。さらに、機関の故障で艦隊から落伍していた朝霜も、大和以下に対する空襲の開始直前に攻撃を受け、撃沈されている。
[編集] 第2波・第3波攻撃
13時20分から14時15分の間に第2波と第3波の攻撃隊が来襲した。攻撃は大和に集中し大和は少なくとも8本の魚雷と15発の爆弾を受けた。爆弾は艦の上構に損害を与え、対空射撃能力が低下した。魚雷はほとんどが左舷に命中していた。そのため艦は傾き転覆の危機がせまった。13時33分、右舷の機関室とボイラー室に注水がおこなわれた。この際そこにいた多数の乗員にはこのことが知らされず、水にのまれた。右舷の機関の喪失と多量の浸水のため速度は10ノットに低下した。低速で進む大和は雷撃機の格好の目標となり、航行能力をそぐために舵や船尾に攻撃は集中した。この間、霞が直撃弾2発、至近弾一発を受けて缶室に浸水、航行不能となり、第一波攻撃で航行不能となっていた矢矧にはさらに少なくとも6本の魚雷と12発の爆弾が矢矧に命中した。矢矧の救助に向かった磯風も攻撃を受けて大破し航行不能となった。矢矧は転覆し14時5分に沈没した。
14時2分、大和の沈没は避けられないことを知らされ伊藤中将は作戦の中止を命じた。乗員は艦から脱出した。14時5分、大和は転覆し始めた。伊藤中将と艦長有賀幸作大佐は退艦を拒否して艦に残った。14時20分、大和は完全に転覆し沈没を開始した。14時23分、大和は爆発した。この爆発は弾薬庫の誘爆または、機関室の水蒸気爆発によるものと考えられている。きのこ雲は2万フィートの高さにまで上り、213キロ離れた鹿児島でも目撃されたという伝説がある。(
)[編集] 帰投
16時39分に第1遊撃部隊指揮官に対して乗員救助の上佐世保への帰投が命ぜられた。この海戦で日本側は大和を始め軽巡矢矧、駆逐艦浜風が撃沈され、霞と磯風も航行不能となり処分された。また分離行動中の朝霜も爆撃で沈没し全員が戦死した。涼月は艦首を失ったが後進で佐世保に帰還した。被害の少なかった駆逐艦冬月、雪風、初霜は大和の生存者280名、矢矧の生存者555名と磯風、浜風、霞の生存者800名以上を救助したが、約3,700名がこの戦いで戦死した。生き残った艦は生存者を佐世保へ連れ帰った。
米軍機は10機が対空砲火で撃墜された。その乗員の内何人かは水上機や潜水艦に救助された。米軍の戦死者は合計12名であった。大戦を通じて米軍などの連合軍が行ってきた沈没船生存者への機銃掃射はこのときも現出し、「戦艦大和の最期」を著した吉田満をはじめ多くの生存者が、このとき米軍機の機銃掃射を受けたと証言している。
[編集] 時系列
4月5日 | 13:59 | 第1遊撃部隊に出撃準備下令。 |
4月6日 | 15:20 | 第1遊撃部隊が徳山沖を出撃。 |
19:45 | 第1警戒航行序列(対潜序列)。 | |
20:20 | 磯風が敵潜水艦らしきものを発見。第二艦隊米潜に発見される。 | |
4月7日 | 06:00 | 第3警戒航行序列(対空序列)を取る。 |
06:30 | 大和が唯一搭載していた水上偵察機を本土に帰還させる。 | |
06:57 | 朝霜(第21駆逐隊司令座乗)が機関故障のため随伴不能となり艦隊より離脱。 | |
06:30頃-10:00頃 | 第5航空艦隊所属の零戦部隊による艦隊上空直衛が交代で実施される。この間、奄美諸島近海に展開していたアメリカ海軍第58機動部隊から、作戦機約400機からなる攻撃隊が、第1次攻撃隊と第2次攻撃隊とに分かれて、相次いで出撃する。 | |
10:00頃 | 第1遊撃部隊が米軍の飛行艇2機に発見される。その後、艦隊は、米高速空母機動部隊から攻撃隊に先駆けて出撃したF6F戦闘機、F4U戦闘機計10数機の接触を受けながら、偽装航路を中止し、沖縄に向けて南下する。 | |
11:35頃 | 大和に搭載された対空電探が、約100キロの距離にいる米軍艦上機の大編隊の接近を探知する。 | |
12:10 | 落伍した朝霜より「ワレ敵機ト交戦中」との無電が入る。 | |
12:15 | 大和以下の各艦が総員対空戦闘配置を完了する。 | |
12:21 | 朝霜より「九十度方向ヨリ敵機三十数機ヲ探知ス」との無電連絡が入る。この後同艦は消息を絶った。 朝霜は、この直後に沈没したと推定される。(単艦戦闘で生存者がいないため最期の戦闘の詳細は不明) |
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12:30頃 | 敵攻撃隊の大編隊が雲間から降下し、第1遊撃部隊上空へ殺到し始める。第一次空襲始まる。 | |
12:35頃 | 大和以下の各艦が対空戦闘開始。 | |
12:47 | 浜風轟沈。この頃、大和後部に初弾命中。電探室および主計課壊滅。 矢矧航行不能 |
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13:00 | 第一次空襲終了。 | |
13:22 | 敵機群第二波約50機来襲。 | |
13:33 | 第二次空襲始まる。 大和左舷に魚雷3本命中。大和の舵が取舵のまま故障。 |
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13:56 | 磯風、航行不能 | |
14:05 | 矢矧沈没。 | |
14:20 | 大和、左舷に傾斜20度、総員最上甲板が命ぜられる。 伊藤長官が長官室に向かう。 |
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14:23 | 大和沈没(左舷側へ大傾斜、転覆ののち、前後主砲の弾火薬庫の誘爆による大爆発を起こして爆沈)。 | |
14:23 | 伊藤中将戦死により第1遊撃部隊指揮権を先任指揮官の古村少将が承継。 | |
14:25 | アメリカ軍の攻撃が終了。[4] | |
16:39 | 作戦中止が下命される。 | |
16:57 | 霞沈没(砲雷撃により処分)。 | |
17:42 | 初霜が第2水雷戦隊司令官を救助。 | |
22:40 | 磯風を雪風の砲雷撃により処分。 | |
4月8日 | 冬月、雪風、初霜及び涼月が佐世保軍港に帰投。 |
[編集] 影響
大和の沈没により、第2艦隊は作戦を中止し、帰投した。この海戦は、日本海軍の水上戦闘艦艇の事実上の壊滅を意味するものとして広く認識されている。これ以降、水上部隊による攻撃作戦は、機雷封鎖と燃料不足のために行われることはなく、残存艦艇の殆どが、身動きできないまま敵機の空襲で瀬戸内海に沈んでいった。
[編集] 坊ノ岬沖海戦を題材とした作品
[編集] 映画
- 『戦艦大和』 原作:吉田満『戦艦大和ノ最期』、新東宝、1953年
- 『連合艦隊』 監督:松林宗恵、特技監督:中野昭慶、東宝、1981年
- 『男たちの大和/YAMATO』 原作:辺見じゅん、監督:佐藤純彌、東映、2005年
- 岡本喜八監督作品『激動の昭和史 沖縄決戦』(東宝・1971年)や、1964年の松竹映画『駆逐艦雪風』などでも、坊ノ岬沖海戦が描かれている。
[編集] 長時間テレビドラマ
- 『海にかける虹~山本五十六と日本海軍』(「新春12時間超ワイドドラマ」。テレビ東京・東映、1983年。第6部「長官機撃墜の謎・戦艦大和の出撃」)
- 『戦艦大和』(原作:吉田満『戦艦大和ノ最期』、監督:市川崑、フジテレビ・東宝、1990年)
- 『愛と哀しみの海・戦艦大和の悲劇』(監督:堀川弘通、TBSテレビ・東宝、1990年)
[編集] 脚注
- ^ あくまで菊水1号作戦は航空戦であり、大和や二水戦を初めとする第2艦隊の行動は天一号作戦の一部である。
- ^ 実際は全速で沖縄と呉との間を4往復できる量はあったという説もある。この時、大和のために輸送船の護衛艦の燃料割り当てカットの電話を受けた海上護衛総司令部参謀だった大井篤大佐は「国をあげての戦争に、水上部隊の伝統が何だ。水上部隊の栄光が何だ。馬鹿野郎」と軍令部の海上物資輸送への理解度の無さに激怒したというエピソードが残されている。
- ^ 太平洋戦争 日本軍艦戦記 ISBN4-16-766-095-4 より
- ^ この前後、大和沈没の模様を撮影していた米軍機(複数機)が、急襲してきた岩本徹三中尉指揮の日本軍機(第5航空艦隊第203航空隊所属の零戦部隊)により撃墜。 なお、この際既に戦闘力を失った彼らに対し米軍機が機銃掃射をしたとされる(これは米軍機の常套手段でもあった)。
[編集] 参考文献
- 吉田満『戦艦大和ノ最期』(文庫)、講談社(1994)、ISBN 4061962876
- 八杉康夫『戦艦大和 最後の乗組員の遺言』、ワック(2005)、ISBN 4898310869
- 山本七平『「空気」の研究』、文芸春秋(1983)、ISBN 4167306034
- 大井篤『海上護衛戦』(文庫)、学習研究社(2001)、ISBN 4059010405
- 能村次郎『慟哭の海 戦艦大和死闘の記録』、読売新聞社