岩本徹三
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岩本 徹三 | |
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1916年6月 - 1955年5月20日 | |
生誕地 | 樺太国境 |
死没地 | 島根県益田市 |
最終階級 | 海軍中尉 |
戦闘 | 日中戦争、太平洋戦線、沖縄菊水作戦 |
賞罰 | 功5級金鵄勲章 |
岩本 徹三(いわもと てつぞう、1916年(大正5年) - 1955年(昭和30年)5月20日)は、太平洋戦争中の大日本帝国海軍の零戦搭乗員。最強の零戦パイロットと謳われる名操縦士である。
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[編集] 経歴
南樺太で生まれ、北海道、島根県で育った。最終階級は日本海軍中尉。太平洋戦争時の日米パイロットの中で唯一200機を超える最終撃墜数202機(自己申告)を有する撃墜王(エース・パイロット)である。撃墜数については異論も多いが、戦闘機搭乗員として日中戦争から太平洋戦争終戦まで7年に及ぶ広大な最前線での戦闘飛行経験の持ち主は、岩本徹三以外に存在しない。
[編集] 出身~搭乗員へ
警察官の父親の元に樺太国境近くに三男一女の兄弟の三男として生まれた。父が北海道の署長に転勤して小学校時代は札幌で過ごし、スキーで小学校に通っていたこともある。13歳のとき父の退官で島根県益田へ引越し、高等科2年から県立益田農林学校に進んだ。数学と幾何は優で、クラブではラッパを吹き、趣味では読書、植物や花など育てることを好む。幼少時よりワンパクですばしっこく勉強より体を動かすことを好み、地引網で魚の群れを追い込む浜辺の漁師を手伝ったりする反面、一本気の頑固な正義感の持ち主で教師を辟易させたことがあると伝えられる。
益田農林学校を18歳で卒業後、「若いときは勉強のため大学受験し、いずれは実家の農業を担ってほしい」という父親の意に反して密かに海軍の水兵を受験し、1934年(昭和9年)に呉海兵団に四等航空兵として入団した。半年後第三一期普通科整備術練習生となり卒業するが、次いで操縦を志望し、難関を越えて入団から二年後、第三四期操縦練習生として霞ヶ浦海軍航空隊に入隊した[1]。霞ヶ浦友部分遣隊の操練生時代には、後に零戦搭乗員たちから尊敬される磯崎千利大尉(最終階級)から教えを受けている。
[編集] 支那事変
単機格闘戦の達人、黒岩利男一空曹(当時)[2] に率いられ、昭和13年2月に大陸戦線に進出。初陣で5機を撃墜するなど、日中戦争では最多数撃墜を公認(14機)された。1940年(昭和15年)に日中戦争の論功行賞で生存者金鵄勲章の最後となる叙勲申請の栄誉をうけ、1942年(昭和17年)夏に下士官(一飛曹)としては異例の功5級金鵄勲章(大尉~少尉の生存者のうち武功抜群相当)を初回叙勲された[3]。
[編集] 開戦前夜
岩本徹三は若いが技量実績抜群の戦闘機隊トップエースとして、1940年(昭和15年)4月から日本海軍の中心である連合艦隊の第 1 艦隊所属の第 1 航空戦隊、龍驤で艦隊訓練を開始、予備艦になって整備中だった龍驤を使っての激しい母艦訓練を開始した。訓練内容は、離艦・着艦、母艦へ夜間着艦訓練、編隊空戦の連携訓練、洋上航法、夜間航法、無線兵器の電信電話での母艦との通信連絡およびフェアチャイルド社製クルシー航法機器による帰投などであった。
翌年、1941年(昭和16年)4月付で連合艦隊内の第 1 航空艦隊( 1 航艦)創設にともない、第 1 航空艦隊の第 3 航空戦隊となった瑞鳳戦闘機隊に配属になり、飛行学校を卒業したての若い後輩たちを迎え訓練を続行した。 同年秋に最新型の高速大型空母翔鶴、瑞鶴が進水し、第 5 航空戦隊が創設された。 3 航戦の岩本たち瑞鳳戦闘機隊隊員たちは第 5 航空戦隊創立第 1 期メンバーとして二手に分かれて瑞鶴および翔鶴に着任した。
1941年秋の出港まで、岩本たち1航艦の搭乗員はその理由を知らされず九州各基地に搭乗機種、艦ごとに集合して、当時世界3大海軍国の米国、英国を飛行技量でしのぐ最高の艦隊搭乗員実力を目指して連日、日夜激しい訓練がつづけられていた。当時の第 1 航空艦隊には3人乗り雷撃隊、水平爆撃攻撃隊、2人乗り急降下爆撃隊、単座戦闘機隊合せて艦隊搭乗飛行士総数1,000名に満たず、その内に前年度からの熟練者はかなり少なかった。
岩本の回想録の記述には、以後の太平洋戦線での様々な実戦局面で、幸運や勘ではなく、この時期に艦隊戦闘機隊訓練で体得した技術を洋上、夜間の飛行操縦術へ科学的に応用活用し、確率を上げて生き抜いた様子がところどころに描写記述され残されている。用語は当時の艦隊勤務の搭乗員には常識であり、注釈は不要で省略された。
[編集] 単座戦闘機洋上航法訓練
岩本のような単座戦闘機搭乗員にとって、誘導機なしの戦闘機のみの洋上航法はベテランでも失敗する、習得困難な技術だった。しかしその中にあって、1940年当時の龍驤戦闘機隊分隊長の菅波正治大尉、1941年の瑞鶴戦闘機隊分隊長の佐藤正夫大尉は、単座戦闘機の洋上航法の技量に優れ熱心だった[4]。複座・多座の攻撃機爆撃機搭乗員に比較して無線電信電話機能も弱く、ジャイロ航法支援機器もなかった。当時の洋上航法は、操縦しながら航法計算盤(現在も航空免許で使用される円形計算尺)をつかって計算し、尾翼の放射状に描かれた各々の細ストライプ線の角度を目安に海面の波頭、波紋の様子を観察してビューフォート風力表によって測定し『風向、風力』をとり、風で流された針路を『偏流修正』し、『実速』(計器指示飛行速度を飛行高度から海抜 0 m に高度換算した実際の対地速度、当時の呼称)を計算し飛行距離、飛行時間を算出予測する航法だった。その航法精度は、洋上 150 海里を進出して変針し、そののち方向、時間を距離計算して帰投し、その地点からの矩形捜索で晴天目視で母艦艦隊位置確認可能な誤差範囲(例えば 20 海里)におさめる程度の精度で危険だったが実戦で母艦に単機帰投した例も多かった。大戦の後半は機材不良に加え艦隊航空隊の訓練内容・機会不足で若年搭乗員の技量練度は大幅に低下し比較すること自体無理な状態になった。
[編集] 日本海軍の着陸誘導灯システム
岩本の回想録に登場する着陸誘導灯システムであって、戦前当時の日本海軍航空隊では、航空母艦への昼間・夜間着艦のため昭和10年代から独特の誘導灯システムが空母着艦用に開発され、飛行甲板左舷後部に水平に張り出した『後方マスト』に設備され使われた。陸上基地にもこの誘導灯システムは導入され、『夜設』とよばれ夜間着陸用意時には滑走路の左手前に設置され、終戦の年まで運用された。水平に並べた赤色灯列と緑色灯列をそれぞれ降下角に一致させ前後に段違いに並べ、各色光アレイの列の重なり具合の見え方で適正な降下スロープ( 6 度)に乗っているか、上か下かを操縦者が自ら判断し修正操縦可能なシステムであった。着艦信号士官(LSO)が手旗信号や光信号で合図しながら夜間着陸指示誘導する当時の欧米海軍システムに比較し合理性があり優れた。赤と緑の灯火アレイは、昼間の陸上基地での母艦戦闘機隊着艦模擬訓練時には赤と白の板の列で代用された。これは空港で見られる有視界着陸用に設備運用されている Precision Approach Path Indicator に等価な設備であったと、旧海軍航空関係者たち、戦後自衛隊に入った関係者たちの様々な回想録[5]、著作で詳細に力説された。この着艦誘導灯システムは大戦中に捕虜尋問によって米海軍に知られていた。第2次大戦後の欧米航空業界には同種の作用効果をもつ赤色灯・白色灯の一列ライトアレイという方法による PAPI 誘導灯システムが開発、飛行場に導入され、今日、世界の滑走路の左手前に設置され、無線電波誘導自動着陸システムの故障・電波障害時の安全なバックアップとして併用されている。また英国海軍は1950年代に航空母艦用に同種の作用効果をもち緑灯と赤灯のフレネルレンズという手段の進化した光学着艦システムを発明し飛行甲板左舷後部に設置運用開始、これを見た米海軍は meatball とニックネームで呼んだ。
[編集] 当時の艦隊飛行隊搭乗員
岩本が開戦前から所属した母艦戦闘機隊は新型航空母艦の登場と艦隊の陣容一新に伴い、編成が順次変更されていた。そのなかで岩本は貴重な中堅の熟練搭乗員の一人になった。
開戦直前の1941年の状況は、母艦搭乗員は全体数が不足し、他の各軽空母からも経験豊富な攻撃機、急降下爆撃機搭乗員ペアたちが引き抜かれ、第 1 航空艦隊の各航空戦隊に配属、充実が図られていた。
岩本が1940年に訓練勤務した当時の龍驤は、技量実力ともに最高潮に達する直前の『第 1 艦隊』の第 1 航空戦隊であって、赤城、加賀、龍驤と鳳翔でローテーションを組んで整備と前線配備を行っていた。
- 加賀は1933年10月~1935年11月まで休み、近代化大改装を行った。
- 赤城は1935年末~1938年9月まで休み、近代化大改装を行った。
- 加賀は1938年12月~1940年10月まで予備艦となり第2次改装を行った。
- 龍驤は1939年11月~1940年11月15日まで予備艦となり休み、整備した。
- 赤城は1940年10月~1941年4月まで予備艦となり休み、整備した。
1941年4月16日に連合艦隊は新たに『第 1 航空艦隊(1 航艦)』を設立し、赤城、加賀は 1 航艦 1 航戦に編入され、飛龍、蒼龍は 2 航戦として編入された。このとき龍驤は赤城、加賀との長年のペアを解消し単艦で 4 航戦に転出し離れ、交代で、就役したばかりの新小型空母瑞鳳、および1941年末に完成予定の翔鳳が第 3 航空戦隊として 1 航艦に編入された。岩本たちは前年度からの母艦龍驤での訓練で選抜された中堅搭乗員として、 3 航戦の空母瑞鳳に配属される形で 1 航艦に編入された。その半年後、1941年9月、10月に最新最大の高速大型航空母艦の翔鶴、瑞鶴が進水、相次いで予定通り就役し、瑞鶴、翔鶴による第 5 航空戦隊が創設され、第 1 航空艦隊に編入された。交代で、3 航戦は瑞鳳、翔鳳(就役前)とともに転出し、このとき 3 航戦だった岩本たち瑞鳳戦闘機隊隊員は、辞令上は10月4日付け、第 5 航空戦隊設立当初のメンバーとして、それぞれ二手に分かれて瑞鶴、翔鶴に着任し順調に戦力が整った。これと同時期に並行して赤城を初めとする第 1 航空戦隊、第 2 航空戦隊とも人員交流が行われ各科航空兵力の攻撃部隊集中とバランスが図られ補強され、さらに龍驤から赤城に雷撃隊を引き抜き、1941年秋に陣容が整った。
[編集] 開戦~ラバウル、トラック島時代まで
太平洋戦争開戦時は、第一航空艦隊所属の航空母艦「瑞鶴」戦闘機隊員[6]で、真珠湾攻撃時は艦隊の上空直衛任務に就いた。その後母艦と共にインド洋作戦、珊瑚海海戦と転戦後、内地に帰還、大村空教員、横空勤務[7]、追浜空教員任務を経て3月、北千島防備にあたる第二八一航空隊に配属され、4月には飛曹長に任官し分隊士となる[8] 。
ビスマルク・ニューギニア作戦の往路、空母「瑞鶴」はトラック島からラバウル航空隊の発祥となる千歳空戦闘機隊(後に多数撃墜者となる吉野俐一飛曹、西澤広義一飛曹ら)をラバウルにはこんだ。
世界史上初の空母対空母決戦となる珊瑚海海戦では、瑞鶴上空直掩において、頭脳的なポジション取りと補給で「レキシントン」、「ヨークタウン」急降下艦爆隊の数次攻撃を防ぎきった。
この頃後輩に当たる堀建二2飛曹は、岩本から次のような指導を受けたことを記憶している。「どんな場合でも、実戦で墜されるのは不注意による。まず第一は見張りだ。真剣に見張りをやって最初にこちらから敵を発見する。そして、その敵がかかってきたら、機銃弾の軸線を外す。そうすれば墜されることはまずない。地上砲火による場合。これは、どうにもならん。避けようがないからな。その場合は潔くあきらめるさ!」岩本はまた次の武士道的言葉を、常々自身に言い聞かせていたと言われる。「媚びず、諂わず、とらわれず。」
横須賀鎮守府付属追浜空教員時代、1943年(昭和18年)2月上旬に芦ノ湖上空で同僚の木村泰熊上整曹たちとともに、快晴の富士山上空を飛翔する零戦21型の代表的傑作写真を撮影し残しており、この機の部隊標識番号がオヒ-101である。
米軍の本格的反攻が開始されて戦況が悪化してくると、昭和18年11月、一大航空消耗戦が展開されていたラバウルに派遣され、第二〇一航空隊に編入後、同年12月にはラバウル航空隊として名高い第二〇四航空隊の一員となる(後に二五三空に異動)[9]。激しい戦いにより海軍のエース級搭乗員が消耗して次々と戦死する中、生残りの数少ない実力派の搭乗士官(飛曹長=准士官)として空中指揮を担当[10]。
彼は彼の先輩、同僚、後輩たちとともに、ラバウル航空隊の伝統と誇りにかけて知力と死力を尽くして戦った。 ラバウル要塞は、米軍からは、ラバウル周辺の空域をドラゴンジョーズ(竜のアゴ)と呼ばれ恐れられていた。これは、ラバウルの地形が竜のアゴに似ていることと、侵攻すれば大損害を受けることを恐れてのあだ名であった。12月以降、敵戦爆連合のラバウル空襲は猛烈で「爆撃機を1週間のべ1,000機平均(ニミッツの太平洋戦記)」、「陸・海・海兵隊と連合国空軍によるラバウル総攻撃(グレゴリーボイントン)」という空前の規模で数ヶ月間、圧倒的機数で連日行われた。このころのラバウル航空隊にはレーダー早期警戒と無線連絡、縦深備えの複数飛行場と陸軍高射砲部隊[11]、熟練整備員と技術将校の所属する空技廠[12] 。数10機の日本軍機で、粘り強く対抗しつづけ、同僚・後輩にも多数機撃墜者を輩出している。世に知られたラバウル航空隊69対0勝利の記録フィルム、日本ニュース映画「ラバウル」「南海決戦場」はこの時期の撮影であり、地上員からも撃墜50機以上を数えたことが目撃されている[13] 。また1月7日の多数機撃墜戦果は翌日奏上され御嘉賞されたことが知られている。
岩本は編隊による優位高度からの一撃離脱戦法を多用していた。1943年末のラバウルはすでに4機編隊単位の編隊攻撃になっていたが、さらに基地航空の単座戦闘機乗り編隊空中指揮官としては希な、機上無線機のモールス電信を活用して戦った。基地司令部との交信で来襲情報を受信し、迎撃隊を有利な位置に導いて戦闘指揮した。岩本の空戦戦法は、常に先制攻撃、優位優速のうちに離脱する編隊戦法が主流であるが、単機での格闘戦でも絶対的な自信を持っていた。
彼の視力はラバウル激戦や夜間飛行の計器を照らす紫外線照明で傷み劣化し、大戦の最後の年には1.0と海軍パイロットとして下限になっていたが、九州防空、沖縄特攻の制空隊出撃では、部隊で一番に敵発見していた。教えを請われると「敵機は目でみるんじゃありゃんせん、感じるもんです。」と海軍らしいシャレを言いつつも、戦場の経験から敵編隊群の布陣を想定しプロペラが太陽の光を反射する輝きを察知してゆく彼の発見方法、実戦技術を将来の部隊指揮官と期待される若年士官たちに教え、鍛えていた[14]。
邀撃戦での彼の指揮は、敵編隊を観察し有利と見た場合一気に降下攻撃~離脱し、逆に不利と見た場合は接敵を避け戦場を離れて高度を稼ぎつつ、再び好機があれば降下攻撃を繰り返した、と書き残している。後世の戦史研究家には同時期のヨーロッパ戦線のハルトマンなどの空戦流儀によく似ていた冷静かつ合理的な戦法だと評する者もいた。物量作戦をもって圧倒的な優勢を誇る米軍に対抗し、自身もラバウルで142機の撃墜を報じている。このころの岩本は、部下に対し「俺たちは基地航空隊の名にかけて、立派な戦いをして、艦隊戦闘機隊に負けぬように戦果を挙げなければ、戦死した戦友に申し訳ないぞ」と檄を飛ばし苦しい戦いを続けた。
岩本は三号爆弾による対編隊攻撃の名手としても知られた。彼とその仲間たち(岩本飛曹長、小町定上飛曹、熊谷鉄太郎飛曹長ら)は三号弾(三号特爆)による対編隊爆撃機攻撃の名手であり、戦後の回想録および複数の目撃証言でその詳細が明らかにされた。三号弾は17年後半に導入されたが非常に成功確率の低い兵器で主に敵編隊のかく乱に使われていた。昭和18年12月ラバウル、彼ら古参搭乗員は小隊を組んで試験的に実施した最初の攻撃で帰途集結旋回中の編隊26機を一気に撃墜、その後機会があるごとに熟達し、一撃で艦爆14機、トラック基地B-24迎撃戦では余裕のある接敵さえ適えばほぼ確実に命中できる域にまで達したという。(三号特爆)SBD艦爆30機、B-24重爆 協同24機。 一方他部隊では思うように戦果を挙げることが出来ず、指導要員として岩本らを寄越すよう度々要請してきたが、補給の優先順位等で含むところのあった岩本の上官は、それらの要求に頑として応じなかった。
昭和19年2月、米機動艦隊により大損害を受けたトラック島の防御を固めるため二五三空はラバウルより撤収しトラック島に移動。岩本も以後トラック島にて防空戦に従事した。ところがそれ以来部隊はほとんど補充を受けることが出来なかったため[15]、遂に可動機数不足に陥り、昭和19年6月、機材を自力で補充するべく空輸要員を内地に派遣。岩本もその一員として帰還した。当然機材受領後にトラック島に復帰する予定だったが、帰還直後に米軍のサイパン侵攻が始まり、戻るための主要空路が遮断されてしまった。このため復帰は取り止めとなり、岩本はしばらく木更津空にとどまったあと、8月、柴田武雄司令の岩国第三三二航空隊に異動となった。この時期までに飛行時間は単座戦闘機操縦者として驚異的な 8,000時間を超え、離着陸回数 1 万 3,400 回を超えた[16]。
[編集] 内地への帰還~戦後まで
内地では各航空隊を転々としつつ、教官兼指揮官として勤務した。昭和19年9月戦闘三一六飛行隊(二五二空)、台湾沖航空戦・フィリピン戦から戻った11月に少尉任官後、昭和19年11月戦闘三一一飛行隊(二五二空、後六〇一空に編入)、昭和20年3月末に岡嶋清熊少佐の戦闘三〇三飛行隊(二〇三空)、昭和20年6月二〇三空補充部隊などで、教官的役割を果たすことが多かったが、戦闘にも多数参加しており、10月の台湾沖航空戦、フィリピン戦、初陣若年搭乗員を率いた編隊による昭和20年2月16日関東地区迎撃戦、沖縄戦開始直前の夜間単機強行偵察、4月~6月半ばまで数次にわたる菊水作戦の特攻直掩および制空戦[17] 、戦艦大和復讐戦、鹿屋基地上空でのB-29編隊単機迎撃など何度か死線を越えて引き続き戦果を挙げ続けた。
1944年8月の神風特攻専用の皇国兵器開発要員募集に対しては、「戦闘機乗りは何度も戦って相手を多く落すのが仕事だ、一度で死んでたまるか、俺は否だ」と主張し、それに影響された戦闘機隊の若手士官たちは多くいた[18]。比島で神風特攻作戦志願書に「否」と書いて却って先に特攻に出された若年搭乗員たち、見かねて特務士官として強硬に反対し飛行隊指揮官から酷い虐待を受け続けた岡部健二、「全機特攻」を絶叫する中島少佐に対し「特攻は邪道」と軍刀に手をかけながら激論した真珠湾ベテランの岡嶋清熊大尉もいたが、彼自身は部隊の一員として上官の指揮に従い、フィリピン、沖縄で黙々と任務を遂行し、制空隊指揮官の一人として特攻隊の前方掃討、援護に当った。内地で無理な短時間で苦しい訓練をして自ら育て上げた自慢の若い少年搭乗員達が、影で涙しながら次々と特攻作戦に投入され全滅していったことは回想録にあからさまには書かれていない。ただところどころに作戦に対する激しい感情の文章がでてくる。特攻機の突入を目の当たりにして髪の毛が逆立つ思いであった、など。
海軍の組織内部にあって彼は代表的特務士官・准士官として、飛行隊や若手指揮官たちを実質的に支える高い実務遂行能力発揮を期待されていた。しかし彼は同時に、軍の組織統率を乱す常軌を逸した私的命令(他部隊の参謀、士官が所轄の違う部隊の隊員に頭越しに指揮命令して動かす軍法違反)に対してはたとえ階級が上の士官、聯合艦隊幕僚に対しても決然と筋を通す、強いプロ意識を持っていた。岩本を理解する柴田武雄、中野忠二郎、福田太郎、八木勝利、岡本晴年、岡嶋清熊といった上官たちからは信頼を寄せられ、彼の戦闘機隊の戦いは草鹿龍之介はじめとする当時のラバウル基地の南東航空艦隊(第11航艦)司令部幹部が「このときの戦闘機隊の奮戦は物凄かった」と回想録で激賞し、経験の浅い若手士官たち、部下の下士官・兵や整備兵たちにも信頼され愛された人間であった。彼の予科練出身の252空所属若年搭乗員の回想には「優しい人柄で決して乱暴はせず、むしろそれほどエライ方といった印象は受けなかった」と記述された。また、下士官以上の搭乗員は長髪が許可されていたところ、戦況の思わしくない1944年夏当時に坊主刈りを強制した隊の若い参謀命令に対し、帝国日本海軍戦闘機隊搭乗員の伝統である長髪のまま押し通し、八木司令に笑われ例外扱いにされた。救命胴衣の背面には通常は所属部隊と姓名官職を書くところ、自らを名刀工虎徹作の刀に見立てて救命胴衣の背中に「零戦虎徹」、「天下の浪人」など大書していた。
彼にはラバウル時代、レーダーを避けた単機夜間洋上超低空飛行によるブーゲンビル島トロキナ飛行場銃撃の経験があり、茂原二五二空では後にサイパン銃撃隊(第一御盾隊)隊員となる若年搭乗員達を訓練していた。また、最後は天雷攻撃隊(3号弾25番=250kgを抱いてのB-29編隊体当たり特攻隊)の教官として若年搭乗員達を教えた。岩国の第二〇三航空隊で終戦を迎えるが、喪失感のあまり3日ほど抜け殻のようになったと述べている。終戦後の9月5日、海軍中尉に任官。
戦後は東京のマッカーサーGHQに2度召喚され、戦犯逮捕はまぬがれたが公職追放となった。同郷の幸子夫人と結婚するがすぐに単身、千葉・北海道の開拓団を志すも、1年半で心臓を悪くして挫折し島根に戻った。その後は戦後の世相に適応できず、次第に心のはけ口をアルコールに依存していった。山陰の地方町で職を転々とし、飛行機操縦や機械整備技術を活かす職場のない苦しい生活を送った。昭和27年、GHQ統治支配が終わり紡績会社に安定した職を得て、ようやく落ち着いたが、昭和28年、盲腸を医師が腸炎と誤診し大手術、入院中に背中が痛みだし原因不明のまま麻酔をかけず数度の大手術で切開され敗血症を併発、昭和30年5月に病没。享年38。元エースは、病床にあっても「元気になったらまた飛行機に乗りたい」と語っていた。
戦後20年を経て、彼自身の詳細な回想録および複数の目撃証言が世にでるに至り、そのおどろくべき戦闘が明らかにされた。二〇四航空隊や三三二航空隊の司令だった柴田武雄元大佐からは「戦闘機乗りになるために生まれてきたような男」と回顧されたことが知られており、また「虎徹」は日本海軍戦闘機搭乗員にとって「名戦闘機隊長南郷茂章少佐」の伝統と誇りを追慕するものである。
[編集] 顔・姿
岩本徹三には、当時戦った人たちの回想録に掲載された生前の写真や、動画フィルムが存在する。書籍では鹿児島基地で撮影の岩本徹三が最も多く掲載されている。体格は細身で身長は小柄な 150 cm 前後であり、当時の海軍では戦闘機向きとみなされた。
[編集] 写真についての情報
岩本徹三の顔は、長い戦歴中に変った。
- 1936年、操練生当時の少年の若々しい顔
- 1941年秋、瑞鶴の愛機 EII-102 垂直尾翼前に立つ細身の写真。
- 1941年12月7日、ハワイ攻撃前日の瑞鶴飛行甲板上、第1航空艦隊・第5航空戦隊・瑞鶴戦闘機隊の集合写真、幹部の座る第2列の右端で口ヒゲを生やし、やや丸くなった顔。
- 1944年2月20日、ラバウル・トベラ飛行場、トラックへ後退する日の253空戦闘機隊集合写真、すでに眼は落ちくぼみ頬はこけた。このとき同僚の小町定上飛曹はまだ元気で健康な顔。
- 1945年4月、鹿児島基地での有名な写真「鹿基ニテ 岩本少イ」、痩せて強い日差しにまぶしそうな顔。
- 1945年3月、「零戦かく戦えり」の阿部三郎の章およびその後の「予備学生の零戦搭乗員記」で掲載写真に選ばれた岩本徹三の写真は飛行帽・飛行服姿で笑って立ってる姿。
[編集] 開戦時・瑞鶴戦闘機隊隊員23名のその後
開戦時、第一航空艦隊・第5航空戦隊・瑞鶴戦闘機隊所属 23 名のその後
氏名・階級 | 卒業期 | 戦死年月日 | 戦死場所、戦死時所属隊 |
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1列目 | |||
清末銀二 一飛曹 | 甲飛 2期 | 戦死、1944年 2月 7日 | ラバウル邀撃戦、2航艦・龍鳳戦闘機隊 |
不明 | *** | *** | *** |
倉田信高 一飛兵 | 操練 54期 | 戦死、1945年 4月 6日 | 九州邀撃戦、203空・戦闘303飛行隊 |
前七次郎 一飛兵 | 操練 54期 | 戦死、1944年 2月11日 | ラバウル邀撃戦、2航艦・隼鷹戦闘機隊 |
藤井孝一 一飛兵 | 操練 54期 | 戦死、*** | *** |
松本達 一飛兵 | 操練 50期 | 戦死、1942年 4月 9日 | インド洋ツインコマリー、1航艦5航戦・瑞鶴戦闘機隊 |
2列目 | |||
牧野茂 一飛曹 | 操練 27期 | 戦死、1942年 4月 9日 | インド洋ツインコマリー、1航艦5航戦・瑞鶴戦闘機隊 |
塚本祐造 中尉 | 海兵 66期 | 終戦時生存 | |
牧野正敏 大尉 | 海兵 65期 | 戦死、1942年 4月 9日 | インド洋ツインコマリー、1航艦5航戦・瑞鶴戦闘機隊 |
佐藤正雄 大尉 | 海兵 63期 | 戦死、1943年11月 9日 | ラバウル「ろ」号作戦、1航艦・瑞鳳戦闘機隊 |
児玉義美 飛曹長 | 乙飛 2期 | 戦死、1942年 6月 6日 | ミッドウェー海戦、1航艦・飛龍戦闘機隊 |
岩本徹三 一飛曹 | 操練 34期 | 終戦時生存 | |
3列目 | |||
不明 | *** | 戦死、*** | *** |
亀井富男 一飛曹 | 甲飛 2期 | 戦死、1942年10月26日 | 南太平洋海戦、第3艦隊・瑞鶴戦闘機隊 |
坂井田五郎 二飛曹 | 操練 43期 | 戦死、1942年 8月26日 | 第2次ソロモン海戦、第3艦隊・瑞鶴戦闘機隊 |
加納慧 一飛曹 | 乙飛 6期 | 戦死、1944年10月16日 | 台湾沖航空戦、254空 |
伊藤純二郎 一飛曹 | 甲飛 1期 | 戦死、1944年10月 2日 | 台湾、221空 |
不明 | *** | 戦死、*** | *** |
4列目 | |||
佃精一 一飛曹 | 甲飛 2期 | 終戦時生存 | |
二杉利次 一飛曹 | 操練 54期 | 戦死、1944年 6月24日 | 硫黄島・米機動部隊邀撃戦、横須賀空 |
中田重信 二飛曹 | 操練 42期 | 戦死、1945年 4月24日 | フィリピン・ルソン島、201空 |
黒木実徳 三飛曹 | 操練 42期 | 戦死、1944年 2月12日 | ラバウル邀撃戦、2航艦・飛鷹戦闘機隊 |
小見山賢太 二飛曹 | 乙飛 7期 | 戦死、1944年 6月19日 | マリアナ沖海戦、第1機動部隊第3艦隊2航戦・652空 |
- 海兵:海軍兵学校、操練:操縦練習生、甲飛:甲飛予科練、乙飛:乙飛予科練
- 清末(キヨスエ)は筆記文字の転載時、清水、清洲(キヨス)と誤記された書籍がある。
- 倉田は金田と誤記された書籍がある。
[編集] 動画フィルム映像についての情報
日本ニュース194”南海決戦場”の後半、1944年1月に撮影されたラバウル基地上空の戦闘フィルムで、岩本徹三飛曹長(当時)の姿が大写しで撮影収録された。
彼の回想記には、トラック島基地に内地から岩本たちをラバウルで撮影したフィルムを持ってきた・・・最後に私が一人、スクリーンいっぱいに大写しになっているのにはびっくりした、と記述、幸子夫人の回想には、当時はのちに結婚するとも知らぬまま、彼がラバウル出陣していた頃に益田小学校の屋内体操場で「益田の岩本さん」のニュースが上映されたので大勢で見に行き、指揮所の上官に向かって戦果を報告するところが大写しになった、と記述した。
日本ニュース194”南海決戦場”後半に収録のラバウル戦闘の映像では、連合軍飛行機が次々と炎上、空から海上、地上に落ちてくる映像撮影のあと、東飛行場(ラクナイ)滑走路脇の平屋建て指揮所の様子が収録された。指揮所正面の屋根切妻の腰板が半分ほど吹き飛び、壁も一部壊れ向こうが明るく見えている指揮所の暗い壇上に司令長官や司令たちが立ち並んで報告を受け、その前庭の土の搭乗員整列場所に各中隊搭乗員が並んで集合。報告を終えた搭乗員たちは仲間どうし敬礼挨拶しあい解散。
白い半そで服、半ズボン夏服姿の難しい顔して草鹿任一中将らしい長官や他の上級士官たちが、帰りの遅れている搭乗員たちを心配し指揮所の前に出てきて待ち、指揮所前の階段わき、指揮所建物向かって下手側に立てかけた大きな黒板に戦闘報告記入している周囲に若い士官たちが左右に集まり指揮所の壇上の手すりから覗き込み見ているシーンが続く。
その次のシーンで、カボックと落下傘バンドを外し、搭乗員帽をかぶったまま搭乗員服に身をつつんだ小柄な実務・空中指揮官クラスの搭乗員が一人、搭乗員帽をかぶって中腰で黒板に白墨で書いている斜め後ろ姿。横書き文字筆跡は、クセや固さ崩しのない整った横書き楷書、当日ラバウル東飛行場零戦隊の全体集計した戦果報告をそのまま最後まで書きつづけ、撃墜計69、被害 被弾8、全機帰着(最後の「全機帰着」の行に、嬉しく誇らしい勢いある動作でアンダーラインを2本書き込む)まで、収録された。
ニュースフィルムではこの直後、最後に、司令賞の一升の酒瓶を1本づつ2本もらってきてみんなに囲まれて喜ぶ小高飛長と遠藤ニ飛曹たちの姿が続いて終わる。この日本ニュース194の動画映像フィルムからは実際には、潮書房、光人社、学研、デルタ出版など各誌に、出典記載のないラバウル戦闘中の零戦写真として多く焼き増しされ、掲載された。このフィルムに撮影された零戦の尾翼機番の部隊マークはすべて204空の「9-」で始まる。
[編集] 著書
- 遺稿の空戦ノート(未公開の大学ノート3冊)
- 零戦撃墜王初出版(今日の話題社, ISBN なし)昭和47年7月10日発行
- 零戦撃墜王新装版(今日の話題社, ISBN 4-87565-121-8)昭和61年2月25日発行
- 零戦撃墜王 (光人社NF文庫, ISBN 476982050X)
遺稿空戦ノート(零戦撃墜王新装版の巻末に掲載されたオリジナルノート沖縄戦1ページ写真より)
- 原文は横書き、各行約40~42文字程度にそろえ、1ページ28行である。
- 空戦機種、機数は文章中に直接は記入されていない、別欄に分けられている。
- 空中指揮官(准士官以上)の現認証明、行動調書に似た記述形式で、論文のように読まれることを意識した、細かいが各行大きさを揃えた読みやすい字で丁寧にびっしりと、詳細な戦況報告図とともに書きこまれている。
- 精神的にきちんとした真面目な性格の人の筆跡、文体である。小説家原稿のようなかきなぐった荒れた字体や修正はない。
「ラバウルで142機」は遺稿ノート中の掲載されなかった未公開部分の各戦闘結果集計に基づくものである。戦後暫くして判明した事実に基づく内容の擦り合わせ修正はなく、日付を1ヶ月程ずらした(陰暦日付に近い)個所が数ヶ所あるが、搭乗員の日記は防諜のため日付を隠して書くことは他にも例があり、また戦後はGHQの統治支配が昭和27年春まで続き多数戦犯の外地拘置所やシベリア抑留も続いていた時代であり、どのような理由によるかは今日では確かめようがない。なお、光人社NF文庫では細部に修正あり、写真のコメント文は強い口調になった。
[編集] 夫人たちの活動
夫人は、未公開の回想録を後世に伝えた功労者の一人。彼がラバウルで活躍していた頃は郷里の女学生であり日本海軍のエースパイロットとして報道映画で紹介された彼を見たのが初めてでであった。戦後山陰の郷里にもどった彼と平凡な見合い結婚で結婚し、生き残って苦しい生活の続いた彼を助けた。彼は不運にも早世してしまい、海軍時代を詳細に記した大学ノート3冊の回想録は日の目をみることなく死後10数年間夫人の下に保管されたままになっていた。 今日の話題社の中村正利はこの遺稿の存在を知り、原文を極力尊重して書き写し、戦史研究の秦教授が監修協力し「零戦撃墜王」と題し出版された。単行本の出版に際し、戦記画家の高荷義之画伯が挿画・装丁図、新装本ではさらに零戦の武装系統図と動作解説を追加、全面的に担当した。
[編集] 脚注
- ^ 海軍時代は勉強に苦心し、消灯のあと本を持って外に出て街灯の光でおそくまで勉強したこともあったと伝えられる。
- ^ 日本最初の敵機撃墜を果たした生田小隊3名(生田大尉、黒岩三空曹、武雄一空兵、階級当時)の一人。
- ^ 同じく片翼帰還の国民的英雄、樫村寛一飛曹長も准士官として異例の功5級金鵄勲章を叙勲されている。
- ^ p.494-495, 海軍戦闘機隊史
- ^ あゝ零戦一代、翼なき操縦士、他
- ^ ハワイ攻撃前日の瑞鶴甲板上で撮影した上官戦友後輩たちの集合写真をずっと大切に持っていた。
- ^ 1942年秋の10月31日、このころ海軍戦闘機隊の技術中心、横空は編隊空戦を徹底的に猛訓練していた時期にあたる
- ^ 281空の司令は中国戦線の12空で飛行隊長だった所茂八郎中佐、飛行隊長蓮尾隆市大尉、分隊長には望月勇中尉ら。
- ^ 消耗により二〇一空が解散したため。尚、二〇四空は翌1944年(昭和19年)1月にトラック島へ後退したが、その際搭乗員と機材は第二五三航空隊に引き継いだので、岩本も以後二五三空に所属した。
- ^ 当時の海軍戦闘機隊搭乗員は二直程度の交代勤務に就くことが多かったようだが、岩本はそのうちの一つの直全体について編隊指揮を執った。配下機数は主に可動機数の関係で上下したが、概ね20機弱から40機前後だった。なお、よく知られるドイツ空軍の実力制と異なり、日本海軍の空中指揮は実力者ではなく階級上の上官が執るという悪弊があったため、搭乗員の練度が低下した大戦中盤~終盤において、有資格者に実力が伴うか否かは正しく死活問題だった。
- ^ 佐藤弘正『ニューギニア兵隊戦記』(光人社NF文庫)には、この時期1月~2月のラバウル大空襲と防空戦闘光景の手描き絵と詳細が記述されている。腕利きの、独立野戦高射砲大塚隊、およびラエ・サラモア基地防空戦でB24を14機落し最後尾で死のサラワケット越えしてきた野戦高射砲50大隊第二中隊(浦山中隊、ラバウル原隊に戻り飛行場に配置された)。
- ^ ラバウルの空技廠については「最後のゼロファイター(ヘンリーサカイダ、碇義朗 光人社)」にこの時期の基地体制、その後続く困難な状況がアメリカ人著者の観点から米軍側資料を基準として、記述されている。
- ^ この時期の米軍公式記録では、日本軍機による被撃墜(killed)はほとんどなかったことになっており、映像フィルム記録に残る煙を吐いて水しぶきを上げて湾や密林に次々墜落していった敵機、あるいは回想録に小艇で海上の多数の落下傘降下者を救助に出た記述と矛盾するが、事実は今日では確かめようがない。なお、海兵隊では新聞が騒がない通常一般搭乗員の場合、行方不明者は終戦後6ヶ月経過してから戦死と判定される(グレゴリーボイントン)。
- ^ 『零戦、かく戦えり!』
- ^ 1944年4月末のトラック第2次大空襲直後に内地から一度補充(雑誌丸「B24狩りの覇者 零戦五二型 戦闘100日詳報 253空 中山飛曹長」に詳しい)、ラバウルから復元零戦数機を引き抜き一度補充。
- ^ 大戦後期の日本海軍航空隊搭乗員の飛行時間は、哨戒パトロールを務める偵察機・多発機では、最古参搭乗者でようやく1万時間~7,000時間、空戦・格闘戦訓練が主務の戦闘機操縦者では、最古参で実質6,000時間~4,000時間、20代前半で活躍中のベテランで実質約2,000時間近くであった。戦闘機パイロットの実飛行時間を3倍換算するルールが定義・実施されたのは戦後の米軍・日本自衛隊から。岩本徹三の実飛行時間は多い。
- ^ 「海軍予備学生 零戦空戦記 土方敏夫」「零戦かく戦えり(スピットファイア空戦記 阿部三郎の項) 青春ネスコ」などに詳しい。
- ^ 『修羅の翼』
[編集] 参考文献
- 伊沢, 保穂・秦 郁彦 「エース列伝」『日本海軍戦闘機隊』 酣燈社、東京, 日本、1971年。
- 零戦搭乗員会 『海軍戦闘機隊史』 原書房、東京, 日本、1987年。ISBN。
- 岩本, 徹三 『零戦撃墜王』 光人社 NF 文庫、東京, 日本、2004年。ISBN 4-7698-2050-X。
- 石川, 清治 「ポートモレスビー空爆行」『雑誌 丸』 潮書房、東京, 日本、1971年。ISBN。
- キング, E.J., 米海軍元帥 「日本殲滅戦争・作戦報告」『特集文藝春秋 ニッポンと戦った五年間 -連合軍戦記-』 文藝春秋、東京, 日本、1956年。ISBN。
- 富岡, 定俊, 海軍少将・軍令部作戦部長 「日米作戦の比較・キング報告を読んで」『特集文藝春秋 ニッポンと戦った五年間 -連合軍戦記-』 文藝春秋、東京, 日本、1956年。ISBN。
- シャーマン, R.C., 艦長・海軍大佐 「空母「レキシントン」最後の日」『特集文藝春秋 ニッポンと戦った五年間 -連合軍戦記-』 文藝春秋、東京, 日本、1956年。ISBN。
- ハルゼイ, W.F., 海軍大将 「太平洋の刺青提督」『特集文藝春秋 ニッポンと戦った五年間 -連合軍戦記-』 文藝春秋、東京, 日本、1956年。ISBN。
- 角田, 和男 『修羅の翼』 光人社、東京, 日本、2002年。ISBN 4-7698-1041-5。
- 奥宮, 正武 『ラバウル海軍航空隊』 朝日ソノラマ、1998年。ISBN。
- 宮崎, 勇 『帰ってきた紫電改』 光人社。ISBN。
- 守屋, 清 「p.178, ラバウルも敵の空に」『回想のラバウル航空隊(海軍短現主計科士官の太平洋戦争)』 光人社、2002年10月。ISBN 4-7698-1073-3。
- 磯崎, 千利 「直衛戦闘機隊ソロモンに果てるとも」『雑誌 丸』 潮書房、1986年。ISBN。
- 中野, 忠二郎 「零戦隊ブイン上空の大迎撃戦」『雑誌 丸』 潮書房、1974年。ISBN。
- 杉野, 計雄 「海軍戦闘機隊エースの回想」『撃墜王の素顔』 光人社 NF 文庫、2002年。ISBN 4-7698-2355-X。
- 第204海軍航空隊 「プロローグ 69対0」『ラバウル空戦記, 学研M文庫』 学習研究社、東京, 日本。ISBN 4-05-901070-7。
- 草鹿, 龍之介 「ソロモンの死闘: 日々、烈しい空中戦, 二百機対三十機の苦戦, 飛行機の増援を懇請」『聯合艦隊(草鹿元参謀長の回想)』 毎日新聞社、東京, 日本、1952年4月。ISBN。
- 佐薙, 毅 「ラバウル航空魂未だ健在なり」『雑誌 丸』 潮書房、東京, 日本、1973年。ISBN。
- 横山, 保 「零戦隊空戦始末記」『あゝ零戦一代』 光人社 NF 文庫、東京, 日本、1978年。ISBN 4-7698-2040-2。
- 柴山, 積善 「ソロモンに死闘する零戦隊」『雑誌 丸』 潮書房、東京, 日本、1969年。ISBN。
- 佐藤, 弘正 『ニューギニア兵隊戦記』 光人社 NF 文庫、東京, 日本、2000年。ISBN 4-7698-2278-2。
- ボイントン, グレゴリー; 申橋 昭 訳. “第9章 ラバウル攻撃”, 海兵隊コルセア空戦記 (BAA BAA BLACKSHEEP). 東京, 日本: 光人社. ISBN 4-7698-1169-1.
- サカイダ, ヘンリー・碇 義朗 「4章 パイロットは悲し」『最後のゼロファイター (Rabaul's LastEagles)』 光人社、1995年7月。ISBN。
- サカイダ, ヘンリー・小林 昇 訳 『日本海軍航空隊のエース 1937 - 1945』 オスプレイ社。ISBN。
- Tillmann, Barrett. Hellcat Aces of World War 2. Ospray. ISBN.
- 米国戦略爆撃調査団; 大谷内 一夫 訳. JAPANESE AIR POWER 米国戦略爆撃調査団報告 日本空軍の興亡. 光人社. ISBN.
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- 土方, 敏夫 「p.248, 第八章 ニ○三航空隊戦闘三○三飛行隊 - 菊水七号作戦」『海軍予備学生 零戦空戦記』 光人社、東京、日本、2004年9月。ISBN 4-7698-1208-6。
- 零戦搭乗員会 「敗戦の日、スピットファイア撃墜記(阿部三郎) - 歴戦の岩本少尉」『零戦、かく戦えり!(文春ネスコ)』 文藝春秋、東京、日本、2004年6月。ISBN 4-89036-203-7。
- 潮書房編集部 「私が見た二人の撃墜王《西沢広義と岩本徹三》岩本分隊士との出会い (安部正治)」『丸 12月別冊 戦争と人物 6, 全特集 撃墜王と空戦』 潮書房、東京、日本、1993年12月。
- 神立, 尚紀 「宮崎勇の回想:特攻を希望しない者は前へでろ」『零戦最後の証言』 光人社、東京、日本、1999年10月。ISBN 4-7698-0938-7。
- 御田, 重宝 「p.132, 第ニ章 神風たちの周辺, 正攻法のニ航艦も特攻を決意, p.224, 第四章 さまざまな曲がり角「特攻は、統率の外道」と大西長官」『特攻』 講談社、東京、日本、1988年11月。ISBN 4-06-204181-2。