和泉式部
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和泉式部(いずみしきぶ、生没年不詳)は平安時代中期の歌人。天元元年頃(978年?)出生とするのが通説。中古三十六歌仙の一人。
越前守の大江雅致の娘。和泉守の橘道貞の妻となり、夫の任国と父の官名を合わせて「和泉式部」の女房名をつけられた。道貞との婚姻は後に破綻したが、彼との間に儲けた娘小式部内侍は母譲りの歌才を示した。
はじめ御許丸(おもとまる)と呼ばれた太皇太后宮昌子内親王付きの女房だったらしいが、それを否定する論もある。まだ道貞の妻だった頃、冷泉天皇の第三皇子為尊親王(977年-1002年)との熱愛が世に喧伝され、身分違いの恋だったとて親から勘当を受けた。為尊親王の死後、今度はその同母弟敦道親王(981年-1007年)の求愛を受けた。親王は式部を邸に迎えようとし、正妃が家出する因を作った。
親王の召人として一子永覚を儲けるが、親王は寛弘4年(1007年)に早世した。寛弘末年(1008年-1011年)、一条天皇の中宮藤原彰子に女房として出仕。40歳を過ぎた頃、主君彰子の父道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し、夫の任国丹後に下った。万寿2年(1025年)、娘の小式部内侍が死去した折にはまだ生存していたが、晩年の詳細は分らない。
恋愛遍歴が多く、道長から「浮かれ女」と評された。真情に溢れる作風は恋歌・哀傷歌・釈教歌にもっともよく表され、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多い。その才能は同時代の大歌人藤原公任にも賞賛され、正に男女を問わず一、二を争う王朝歌人といえよう。
敦道親王との恋の顛末を記した物語風の日記『和泉式部日記』があるが、これは彼女本人の作であるかどうかが疑わしい。ほかに家集『和泉式部正集』『和泉式部続集』や、秀歌を選りすぐった『宸翰本和泉式部集』が伝存する。『拾遺集』以下、勅撰集に二百四十六首の和歌を採られ、死後初の勅撰集『後拾遺集』では最多入集歌人の名誉を得た。
[編集] 遺跡
- 現在、岐阜県可児郡御嵩町には和泉式部の廟所と言われる石碑が存在する。同地に伝わる伝承によると、晩年彼女は東海道を下る旅に出て、ここで病を得て歿したとされている。碑には「一人さへ渡れば沈む浮橋にあとなる人はしばしとどまれ」という一首が刻まれている。
- 福島県石川郡石川町には、この地方を治めた豪族、安田兵衛国康の一子『玉世姫(たまよひめ)』が和泉式部であると言い伝えが残る。式部が産湯を浴びた湧水を小和清水(こわしみず)、十三でこの地を離れた式部との別れを悲しんだ飼猫『そめ』が啼きながら浸かり病を治したといわれる霊泉が猫啼温泉として現存する。
- 佐賀県嬉野市にも和泉式部に関する伝説がある。
- 兵庫県伊丹市に伝わる伝和泉式部の墓、伊丹市ウェブサイト 伝和泉式部の墓
- 大阪府堺市西区平岡町には、居宅跡である「和泉式部宮」がある。「堺市ホーム > 西区役所 > 区の概要・区域図」中段に説明文あり
しかし、これらの逸話や和泉式部の墓所と伝わるものは全国各地に存在するが、いずれも伝承の域を出ないものも多い。柳田國男は、このような伝承が各地に存在する理由を「これは式部の伝説を語り物にして歩く京都誓願寺に所属する女性たちが、中世に諸国をくまなくめぐったからである」と述べている。