藤原敏行
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藤原 敏行(ふじわら の としゆき、生年不詳 - 延喜7年(907年))は、平安時代初期の歌人、書家。没年は延喜元年(901年)説もある。
父は藤原富士麿(陸奥出羽按察使)、母は紀名虎の娘。妻は紀有常の娘(在原業平室の姉妹)。子に季方、有快、伊辛、伊衡、伊望など。藤原南家に生まれ、官位は従四位上右兵衛督に至った。三十六歌仙の一人で、家集に「敏行集」がある。
目次 |
[編集] 三絶の鐘
当時、空海とともに能書家として有名であるが、現存する書跡は、署名のある次のものだけである。
- 神護寺鐘銘
- この銘は、禅林寺の真紹の発願によるものであるが、鋳型が出来上がる前に真紹が歿したので、和気彝範が遺志を継ぎ、貞観17年(875年)8月23日、志我部海継を雇い鋳成したことが序文に示されている。全文32行で、字数は245字である。謹厳な楷書で陽鋳(ようちゅう、浮き彫り)されている。隷書をよくした小野篁および紀夏井の流れを汲んだ勁健な書法である。なお、この銘文の序は橘広相、銘は菅原是善、書は敏行と、当時の三名家がそれぞれ成したので、古来「三絶の鐘」と呼ばれている。この神護寺の梵鐘は国宝。
[編集] 逸話
『宇治拾遺物語』によれば、敏行は、多くの人から法華経の書写を依頼され、200部余りも書いたが、魚を食うなど、不浄の身のまま書写したので、地獄に落ちて苦しみを受けたという。
[編集] 代表歌
- すみの江の岸による浪よるさへや夢のかよひぢ人目よくらむ(古今和歌集、百人一首18、)
- 秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(古今和歌集、秋歌上、169)
- 白露の色はひとつをいかにして秋の木の葉をちぢに染むらん
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 『日本と中国の書史』 - 社団法人 日本書作家協会発行 木村卜堂編著