中宮
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中宮(ちゅうぐう)とは、日本の天皇の妻たちの呼称のひとつ。
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[編集] 概要
「中宮」という言葉の本来の意味は「皇后の住居」である。転じて、そこに住む皇后その人を指して「中宮」と呼ぶ。もとは中国語で、中国でも同様の意味に用いられていた。また、皇太后・太皇太后も同じく后位にあることから、その住居及びそこに住む本人の呼称として同様に「中宮」が用いられた。大宝律令では、皇后・皇太后・太皇太后の三者に一括して奉仕する官司として中務省に中宮職を設置することが規定された。
[編集] 中宮イコール皇太夫人の時代
大宝律令制定後、女性天皇の即位が相次ぎ、皇后が立てられることがなかったので、中宮職は実際には機能しない状態が続いた。唯一の男性天皇である文武天皇も、最高位の妻(事実上の正妻)は夫人である藤原宮子であり、皇后を立てることはなかった。
しかるに、神亀元年(724年)に聖武天皇が即位すると、生母宮子を皇太夫人と称することとされたが、このとき中宮職が設置され、皇太夫人宮子に奉仕することになった。皇太后に準じる待遇で、皇后ではなかった母の権威を高めるために天皇がとった特別措置といえる。このとき后位にある者がほかに誰もいなかったために可能だった措置でもあった。中宮職に奉仕されていることに基づき、宮子が中宮と呼ばれることもあった。
その後、天平元年(729年)に夫人藤原安宿媛が皇后に立てられると、宮子に付置されている中宮職の扱いが問題となった。令の規定に従えば、中宮職は皇后安宿媛に付置されるべきである。しかし、天皇は、皇后のためには令外官として皇后宮職を新たに設置し、中宮職はそのまま皇太夫人宮子に奉仕を続けさせることを選んだ。宮子は孫の孝謙天皇が即位すると太皇太后の称号を贈られたが、そのまま天平勝宝6年(754年)の死去まで継続して中宮職に奉仕された。一方、聖武の譲位にともなって皇太后となった安宿媛には、あらためて新設された皇太后宮職が付置され、天平宝字4年(760年)の死去まで、一貫して皇太后宮職に奉仕された。
この一連の経緯がその後の定例となり、皇后には皇后宮職、皇太后には皇太后宮職、太皇太后には太皇太后宮職、皇太夫人には中宮職がそれぞれ個別に設置されて奉仕に当たる体制ができあがった。ちなみに、太皇太后宮職の設置がはじめて史料的に確認できるのは貞観6年(864年)に太皇太后となった藤原順子のケースである。
中宮職が皇太夫人専属の官司となるのにともない、中宮もまたもっぱら皇太夫人の呼称として用いられることになった。宮子以後、淳仁天皇の生母当麻山背から醍醐天皇の養母藤原温子まで、7人の皇太夫人が現れたが、いずれも中宮職に奉仕された。そのうちの4人はその後さらに皇太后に転じているが、その際はあらためて皇太后宮職が設置されて奉仕している。
[編集] 中宮イコール皇后の時代
藤原温子が延喜7年(907年)に死去すると、皇太夫人の地位に就く者は絶えた。淳和天皇の皇后正子内親王の立后以来約100年、その間6代の天皇はいずれも皇后を立てることがなかったが、延喜23年(923年)、醍醐天皇は女御藤原穏子を皇后に冊立し、久しぶりに皇后を復活させた。このとき、皇后宮職ではなく中宮職が設置されて穏子に付置されることになった。中宮職が皇后に付置された最初の例である。このときはじめて中宮は皇后の呼称となる。穏子は、醍醐の死去と息子朱雀天皇の即位にともなって皇太后に、さらに朱雀が同母弟の村上天皇に譲位すると太皇太后に転じたが、その間一貫して中宮職に奉仕され、中宮と呼ばれた。中宮職が令の規定に従って運用された最初のケースである。しかし、同時に最後のケースともなった。それに続く、村上天皇の皇后藤原安子、冷泉天皇の皇后昌子内親王も中宮職に奉仕され、中宮と呼ばれた。
天禄4年(973年)に円融天皇が女御藤原媓子を皇后に立てるに際し、皇后昌子を皇太后に移したが、このとき皇太后宮職が復活され、昌子に奉仕することになった。媓子には中宮職が付置され、これ以降は、中宮職は完全に皇后専属の官司として定着する。中宮はもっぱら皇后の呼称となったのである。若くして死去した媓子に代わって皇后となった藤原遵子も同様に中宮職に奉仕され、中宮と呼ばれた。この時期には皇后宮職が設置されることはなかった。
[編集] 中宮と皇后宮の並立の時代
永祚2年(990年)に藤原道隆の娘定子が一条天皇のもとに入内して女御となった。折りから道隆の父摂政兼家が死去し、新たに摂政となった道隆は自己の政治的立場を強化するためにも定子を皇后に立てることを望んだが、当時、皇后には円融の退位後も遵子がそのままとどまっており、皇太后には一条の生母藤原詮子が、太皇太后には昌子が就いており、后位に空席はなかった。なんらかの罪を犯したり不祥事を起こしたりしたわけでもない者を后位から退けることは当然できなかった。しかし、道隆は、本来、皇后が「天子の嫡妻」(『令義解』による令の条文の解釈)であることから、現時点ではあくまで「上皇」円融の妻である遵子を皇后にとどめたまま、在位の天皇の嫡妻である定子の立后に強引に踏み切った。同時に2人の皇后が並立する事態がはじめて生じたのである。このとき、遵子に付置されていた中宮職は定子に付置されることとされ、遵子にはあらためて皇后宮職が復活されて付置された。皇后が2人いることからその呼称の区別が問題となり、付置されている官司にちなみ、遵子を「皇后宮」と呼び、定子を「中宮」と呼ぶこととされた。
道隆の死去とその嫡男伊周の失脚により、藤原道長が最高権力者となると、定子は一条の第1皇子敦康親王の母でありながら、実家の没落により後ろ盾のない無力な皇后に転落してしまった。一方、道長は娘の彰子を一条に入内させ、まず女御とし、さらに皇后とすることを望んだ。一条は、伊周の失脚を嘆いて内裏を退出し出家していた定子をあえて再度入内させて世人の批判を浴びるほど定子を深く愛しており、彰子の立后には消極的であったが、長い逡巡の末、周囲の説得もあってついに道長の意向を受け入れた。長保2年(1000年)、遵子を当時は空席となっていた皇太后に移して皇太后宮職を付置し、定子には中宮職をあらためて皇后宮職を付置し、彰子が皇后に立てられて中宮職を付置された。定子は皇后宮、彰子は中宮と呼ばれた。これで、1人の天皇が2人の皇后を持つことができる先例が開かれることになった。
以後、鎌倉時代の末まで、皇后の定員は2名となり、一方を皇后宮、他方を中宮と呼ぶ慣行が確立した。ただし、つねに2名の皇后が存在していたわけではない。また、その後「天子の嫡妻」ではない女性に名誉称号として皇后の位を与える慣行も並行して行われるようになった。
皇后宮も中宮もその本質はあくまで皇后であり、両者の間に優劣や上下関係はない。ただ、班列(宮中の席次など)は皇后宮、中宮の順とされた。皇后宮と中宮との使い分けについても固定した明確なルールは存在しない。ただ、次のようなおおよその傾向を見出すことはできる。
- ある天皇が、妻のなかから最初に皇后を立てた場合、その皇后は中宮とされる。
- その天皇が、別の妻を2人目の皇后とする場合、1人目の皇后は皇后宮に移り、あとから皇后になった者が中宮とされる。
- 幼少の天皇の准母、すでに譲位した上皇の妻など「天子の嫡妻」の条件に当てはまらない皇后は皇后宮とされる。
これはあくまでもおおよその傾向であり、例外はいくつもある。後冷泉天皇の皇后藤原寛子は後冷泉の2人目の皇后であったが、立后に際しては1人目の皇后章子内親王がそのまま中宮にとどまり、寛子は皇后宮とされた。その後、章子が皇太后に転じたあとを受けて、皇后宮から中宮に移っている。堀河天皇の准母として皇后となった媞子内親王は「天子の嫡妻」ではなく、生涯独身であったが、中宮とされた。
南北朝時代以降、皇后の冊立が絶え、その間は皇后宮・中宮の呼称も用いられることがなかった。寛永元年(1624年)に至って、徳川秀忠の娘源和子が後水尾天皇の嫡妻として女御から皇后に立てられて、約300年ぶりに皇后が復活したが、このときの呼称は中宮であった。江戸時代にはほかに3人の皇后がいるが、すべて「天子の嫡妻」であり、いずれも中宮と呼ばれた。また、皇后が同時に2人立てられることはいっさいなくなり、皇后宮の呼称は用いられることはなかった。
明治元年(1868年)に皇后となった藤原美子も当初は中宮と呼ばれたが、翌年皇后宮と改められた。1889年(明治22年)制定の皇室典範には「中宮」の呼称は採りいれられなかったため、ここに中宮は廃絶し、美子が最後の中宮となった。同時に皇后の定員も1名に固定された。
[編集] 参考文献
- 橋本義彦 「中宮の意義と沿革」『平安貴族社会の研究』、橋本義彦、吉川弘文館、1976年。ISBN 4642020675
- 倉本一宏 『一条天皇』 吉川弘文館〈人物叢書〉、2003年。ISBN 4642052291