藤原安子
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藤原 安子(ふじわら の あんし(やすいこ)、延長5年(927年) - 応和4年4月29日(964年6月11日))は、右大臣藤原師輔の長女。母は藤原経邦女盛子。第62代村上天皇中宮。第63代冷泉天皇・第64代円融天皇、為平親王、選子内親王生母。同母兄弟に伊尹・兼通・兼家、登子(重明親王妃)・怤子(冷泉天皇女御)など。
天慶3年(940年)、成明親王(村上天皇)に入内。内裏の飛香舎で婚儀を挙げる。同7年(944年)成明親王が立坊、皇太子妃となる。同8年(945年)、従五位上。同9年(946年)従四位下に進み、村上天皇即位で従三位・女御となり昭陽舎に局を賜る。(のち飛香舎) 天暦4年(950年)第二皇子憲平親王(冷泉天皇)を出産、生後二ヶ月で皇太子に立てられる。同10年(956年)従二位に進み、天徳2年(958年)中宮に冊立。応和4年(964年)、選子内親王を出産後間もなく主殿寮にて崩御。享年38。のち康保4年(967年)冷泉天皇即位で皇太后を、さらに安和2年(969年)円融天皇即位で太皇太后を追贈される。
村上天皇即位前に入内した最初の妃であり、また皇太子憲平親王を始めとして妃のうちで最も多い三男四女をもうけたことから、天皇に非常に重んじられた。しかし『大鏡』によれば非常に嫉妬深い性格で、後に天皇の寵愛を受けた宣耀殿女御藤原芳子(安子の従姉妹)の姿を垣間見した時にはあまりの美しさに妬心やみがたく、壁の穴から土器(かわらけ)の欠片を投げつけるという暴挙に出たという。しかもそれに立腹した天皇が安子の兄弟らに謹慎を命じると、天皇に詰めよってついに撤回させてしまったというから、話半分としても気性の激しい女性だったようであり、また皇太子の生母としての彼女の影響力の大きさが伺える。(なお、この土器投げの逸話は岡野玲子の漫画『陰陽師』に登場する) 安子自身は若くして亡くなったが、安子所生の冷泉天皇・円融天皇の即位は九条流摂関家発展の元となり、やがて安子の甥道長を頂点とする全盛期へ至ることになる。