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京都市電河原町線 |
路線総延長 |
6.814 km |
軌間 |
1435 mm |
電圧 |
600 V 架空電車線方式 (直流) |
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0.000 急 |
洛北高校前 北大路線 |
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0.264 通 |
一本松 |
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0.523 通 |
下鴨神社前 |
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0.806 急 |
糺ノ森 |
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1.161 通 |
葵橋東詰 |
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賀茂川 |
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1.466 通 |
葵橋西詰 |
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青竜町 |
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1.691 急 |
河原町今出川 今出川線 |
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2.341 急 |
府立病院前 |
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2.566 急 |
荒神口 |
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2.979 急 |
河原町丸太町 丸太町線 |
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3.460 急 |
河原町二条 中立売線 |
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3.904 急 |
河原町三条 |
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4.509 急 |
四条河原町新京極 四条線 |
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河原町駅 |
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阪急:京都本線 |
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5.068 通 |
河原町松原 |
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木屋町線 |
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5.873 通 |
河原町正面 |
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6.214 急 |
七条河原町 七条線 |
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国鉄:東海道本線 |
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国鉄:東海道新幹線 |
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国鉄:奈良線 |
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6.577 急 |
塩小路高倉 伏見線 |
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6.814 急 |
京都駅前 |
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烏丸線 |
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近鉄:京都線 |
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堀川線 |
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国鉄:←山陰本線/↓東海道新幹線 |
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河原町線(かわらまちせん)は、京都市交通局が下鴨本通および河原町通に運営していた京都市電の路面電車路線。京都市三大事業の一つ、街路拡築と電気鉄道敷設の一部として、大正から昭和初期にかけて建設された。京都電気鉄道の建設した木屋町線や寺町線に並行し、順次河原町線が代替した。河原町今出川から北は下鴨線とも呼ばれた。下鴨本通北大路の洛北高校前から南へ賀茂川を渡り河原町通へ入り、塩小路通を西に入って京都駅前まで。
京都市電が全線廃止となる1年前の1977年(昭和52年)9月30日の最終列車の運行をもって、洛北高校前 - 七条河原町間の旅客営業を終了(事実上の廃止)し、翌10月1日に京都市営バスに転換された後、1978年(昭和53年)9月30日の京都市電の最終列車の運行を以って、残る七条河原町 - 京都駅間の旅客営業も終了した。
[編集] 路線データ
- 営業キロ:6.814km
- 軌間:1435mm
- 起点:洛北高校前
- 終点:京都駅前
- 複線区間:全線
- 電化区間:全線
- 架線電圧:直流600V
- 架線柱:片持ち式(河原町三条 - 四条河原町間)
- 併用軌道区間:全線
[編集] 沿革
- 1924年(大正13年)10月1日
- 1926年(大正15年)7月8日
- 1926年12月15日
- 1927年(昭和2年)4月5日
- 河原町五条 - 内平居町間延伸開業
- 京都市電木屋町線:内平居町 - 河原町七条間を編入
- 1929年(昭和4年)1月16日
- 河原町七条 - 塩小路高倉間延伸開業
- 伏見線:塩小路高倉 - 京都駅前間を編入
- 1955年(昭和30年)10月12日
- 河原町今出川 - 洛北高校前間が延伸開業し、洛北高校前 - 京都駅前間全線開業
- 1977年(昭和52年)9月30日
- 「さよなら河原町線」お別れ電車を運行
- 洛北高校前 - 七条河原町間の旅客営業を終了
- 京都市電河原町線事実上の廃止
- 1977年(昭和52年)10月1日
- 京都市営バスに転換
- 洛北高校前 - 七条河原町間の書類上の廃止日
- 1978年(昭和53年)9月30日
- 「さよなら京都市電」お別れ電車を運行
- 京都市電の全線廃止に伴い、七条河原町 - 京都駅の旅客営業を終了
- 1978年(昭和53年)10月1日
[編集] 電停一覧
停留所と所在の通りを示す。接続、距離、急行停車駅は路線図参照
- 洛北高校前
- 一本松
- 松ヶ崎通
- 下鴨神社前
- 東鞍馬口通
- 糺ノ森
- 葵橋東詰
- 下鴨西通、賀茂川
- 葵橋西詰
- 加茂街道、賀茂川
- 河原町今出川
- 今出川通
- 府立病院前
- 広小路通
- 荒神口
- 荒神口通
- 河原町丸太町
- 丸太町通
- 河原町二条
- 二条通
- 河原町三条
- 三条通
- 四条河原町新京極
- 四条通
- 河原町松原
- 松原通
- 河原町五条
- 五条通
- 河原町正面
- 正面通
- 七条河原町
- 七条通
- 塩小路高倉
- 塩小路通
- 京都駅前
[編集] 特記事項
- 祇園祭の山鉾巡行に際しては、経路が重複する四条河原町 - 河原町三条間の運行を休止し、前後の区間で折り返し運転を行っていた。また、この区間では支障にならないよう、道路の片側だけに建植する片持ち式の架線柱が使用されていた。