下田武三
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下田 武三(しもだ たけそう、1907年4月3日 - 1995年1月22日)は、日本の外交官。東京出身。外務事務次官・駐米大使・最高裁判所判事・日本野球機構(プロ野球)コミッショナー等を歴任した。
[編集] 来歴・人物
1945年には外務省条約局第一課長としてポツダム宣言の翻訳に当たった(詳細は同項目参照)。戦後は条約局長を経て佐藤栄作内閣で外務事務次官、次いで駐米大使を歴任し、沖縄返還を巡る交渉に深く関わった。
その後、最高裁判事に就任。尊属殺法定刑違憲事件で最高裁が尊属殺重罰規定を違憲とした際、ただ一人合憲の反対意見を出した事で知られる。1972年実施の最高裁判所裁判官国民審査における不信任率15.17%は、歴代最高である。
1979年からは日本野球機構の第7代コミッショナーを務めた。各球団のオーナーの意向が強く、なかなか指導力を発揮出来ないと批判される歴代コミッショナーの中で、初の外交官出身者となった下田はプロ野球人気の振興に務め、前任者の金子鋭の退任につながった江川事件の収拾をはじめとした業績を残した。そのうちのいくつかは、下田の退任後も継続されている。
また、コミッショナー在任中に外交官時代の経験を証言として出版し、退任後はプロ野球に関する回想録を出版した。1995年、87歳で亡くなった。
コミッショナー時代の幾多の実績と功績から、当時を知る野球関係者、報道関係者やファンの中には、下田の野球殿堂入りを望む声がある。[要出典]
[編集] コミッショナーとしての主な業績
- 江川事件後の混乱を収拾させた。
- 「飛ぶボール」の飛距離を測定して、反発力を落とすようメーカーに要望を出し、1981年のシーズンからボールを旧に復させた。同時に、王貞治などのホームラン打者が用いていたことで知られる圧縮バットの使用も禁じた。
- 1984年のロサンゼルスオリンピックから野球が公開競技となることが決まり、1981年12月24日に12球団のオーナーらに要望書を送付して新設する野球場は国際規格で建設するよう訴えた。
- 1982年、判定を不服として審判岡田功らに対し暴行を働いた島野育夫、柴田猛(当時両者とも阪神タイガースコーチ)に対し無期限出場停止処分を下した(半年後に処分は解除)。
- 1983年6月8日、試合進行の妨げになるとして、投球のサイン交換に用いられていた乱数表の使用を禁止した。
- 1984年、折れたバットの直撃を受けて当時西武ライオンズの黒田正宏が負傷した際には、すぐさま品質改善のためにバット製造業者に調査を依頼した。
- 同年には日本の野球応援はうるさいとして、応援倫理三則を定めた。
- 日本シリーズでセパ両リーグの条件を公平にするため、指名打者制度の導入を決めた(実施は1985年から)。
[編集] 著書
- 下田武三『日米関係の展望』(内外情勢調査会、1970年)
- 下田武三、永野信利『戦後日本外交の証言-日本はこうして再生した(上)』(行政問題研究所、1984年)
- 下田武三、永野信利『戦後日本外交の証言-日本はこうして再生した(下)』(行政問題研究所、1985年)
- 下田武三『プロ野球回顧録』(ベースボール・マガジン社、1988年)
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