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ヨーゼフ・メンゲレ - Wikipedia

ヨーゼフ・メンゲレ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ヨーゼフ・メンゲレJosef Mengele1911年3月16日 - 1979年2月7日)はドイツ南部生まれのドイツ人。ナチス親衛隊の将校。そしてアウシュヴィッツにおいて、各地から送りこまれてきた人々の中から人体実験の為の選別を行っていた医師のうちの1人である。囚人に学術的価値の曖昧な実験を繰り返し、ナチス親衛隊の制服と白手袋を着用してクラシックの指揮者さながらに優雅に選別作業をしている彼の姿を見た人々に「死の天使」と恐れられていたことで有名。人種淘汰、人種改良、人種の純潔、アーリア化を唱えるナチス人種理論の信奉者。愛称のBeppoはJosefのイタリア語読み「Giuseppe」に由来する。 戦後、ドイツから南米へ逃亡しブラジルで海水浴中に心臓発作を起こし死亡した。


目次

[編集] 生い立ち及び経歴

メンゲレはドイツ南部バイエルンギュンツブルクの裕福な農業機械工場経営者カール・メンゲレ(1881年 - 1959年)とその妻・ワルブルガ(? - 1946年)の3人の息子の内の長男として生まれた。弟にカール・メンゲレ(1912年 - 1949年)およびアロイス・メンゲレ(1914年 - 1974年)がいた。1930年、ギムナジウムを卒業。ミュンヘンウィーンボンの各大学で遺伝学、医学、人類学を研究し、1935年に下顎構造の人種間の差に関する研究で人類学の博士号(Ph.D)を得た。1937年、フランクフルト大学では指導教官オトマール・フォン・フェアシュアー(Otmar von Verschür)の下で助手として遺伝生物学と民族衛生学を研究した。1938年には「口唇口蓋裂の家系調査」の研究で医学博士号(M.D.)を取得した。

1931年、20歳のときにワイマール共和国に反対する右翼政治団体である鉄兜団(de)に加わる。同団体は1933年のナチスの政権獲得後、ナチス突撃隊に吸収される。その後、彼は健康上の問題を理由に退団し1937年にナチス党に入党。1938年にナチス親衛隊に入隊。1938年から1939年まで6か月間、チロルの第137山岳兵連隊にて義務兵役に就く。1939年、彼は彼の最初の妻となるイレーネと結婚し子供をもうけ初めての息子にルドルフと名付けた。1940年武装親衛隊に志願、最初は予備医療部隊にそして次に第5SS装甲師団「ヴィーキング」に軍医として配属、そして東部戦線に従軍、1942年に負傷し、前線任務に適さないと判定された。1943年4月20日親衛隊大尉に昇進。この間、第一級・第二級鉄十字章、黒色戦傷章、東部戦線従軍記念メダル等を授与された。同年5月30日アウシュヴィッツに配属され、主任医官になった。

メンゲレは、アウシュヴィッツに21か月間(1943年5月30日 - 1945年1月17日)勤務し、「死の天使」と渾名された。囚人の乗せられた貨車がアウシュヴィッツに到着した時、メンゲレはプラットフォームに立ち、降りてくる囚人の誰が仕事と実験に役立つか、また誰がガス室に送られるべきかを選別・指図した。人体実験を行った理由は、自分の出世の為に実験結果をどうしても認めさせる必要があったからである。後に関係者が言うには、メンゲレは義務としてユダヤ人を絶滅させることが本当に正しいかどうかで葛藤していたという。また戦後生き残った生存者の証言によると、クラシックのアリアを好み、選別作業中や人体実験の合間に口ずさんでいたと言う。

[編集] 人体実験

ヨーゼフは実験対象である囚人をモルモットと呼び、その実験は加圧室に置いたり、有害物質や病原菌を注射したり、血液を大量に抜いたり、熱湯に入れて麻酔なしで手術したり、様々な薬剤をテストしたり、死に至るまで凍らせたり、生きたまま解剖したり、様々な致命的外傷を与えたりするものだった。

彼はナチズムの信奉者であったが、ユダヤ人にヒトラーや他の信奉者とは違った見解を持っていた。一般的なナチズムの信奉者は社会ダーウィン主義に基づきドイツ人が優等民族で、ユダヤ人は劣等民族であると考えていたが彼の主張はエリート層にユダヤ人が多いことから『世界で最も優れた民族はドイツ人とユダヤ人であり、どちらかが世界を支配する。しかしユダヤ人が支配することを私は望まない』というものだった。

また、双子に特別な興味を持っていた。双子に対する実験は1944年に始まり、メンゲレの助手はプラットフォームに立ち「双子はいないか、双子はいないか」と叫び何千もの実験対象を集め、特別室に収容した。実験のほとんど全ては科学的価値が曖昧で、倫理を無視していた。当初の実験は身体を比較するだけであったが徐々にエスカレートしていき、子供の目の中へ化学薬品を注入して瞳の色を変更する実験や様々な切断、肢体や性器の転換および他の残忍な外科手術が行われた。他に2つの同じ臓器が1つの身体で正常に機能するかの確認として、双子の背中と背中、静脈を縫い合わせることで人工の「シャム双生児」を作ることを試みたが、この手術は成功せず単に悪性の感染症に感染させただけだった。この結合した双子の姿はあまりにも見るに耐えなかったため、手術の3日後に両親によって窒息死させられたという。

ヨーゼフの実験対象の囚人は実験から生還しても解剖するためにほとんどが殺害され、役に立たない実験体は処分された。双子たちはヨーゼフを「おじさん」と呼び、ヨーゼフはよく双子の特に少女を車に乗せて楽しげにドライブしていたが、その双子たちが次の週には解剖台の上に乗っていた。この光景は側近の医師たちにも理解が出来なかったという。戦争が終結する直前に人体実験の証拠隠滅のために囚人を皆殺しにすることを試みたが、毒ガスが底をついたので解放している。この時、約3000人の双子のうち180人が生き延びたが、後遺症や精神的ショックが後をひいた。

カイザー・ヴィルヘルム協会人類学・優生学研究所(ベルリン)の所長オトマール・フォン・フェアシュアーのもとへ彼が送ったトラック2台分の記録は後に破却され、彼の仕事の全貌はもはや知られることはない。その後はブラジルで別人になりすまし、1979年に没した。オトマールは戦後告発されずにミュンスター大学遺伝学教授として人生を全うし1969年に没した。2001年、戦後56年を経てベルリンを訪れた生き残りの8人の双子に対してカイザー・ヴィルヘルム協会の後継組織であるマックス・プランク協会の会長フーベルト・マルクル(1938年 - )は謝罪をした。

[編集] 第二次世界大戦後

1945年1月17日、ソ連軍がアウシュヴィッツ収容所を解放する直前、ヨーゼフはグロース=ローゼン強制収容所へ移り、更にベルリンへ移った。ドイツ敗戦後は国防軍兵士に成りすまし、陸軍病院部隊に偽名で紛れ込んだ。ミュンヘン近郊で米軍の捕虜となったが、米軍は捕虜の中にヨーゼフがいる事に気づかなかったので解放された。米軍は戦争犯罪者であるSS隊員を選別するのに負傷用に彫ってあった腕の血液型の刺青で判断していたが、ヨーゼフはそれをしていなかったために見逃された。その後、ドイツ南部のマンゴルディングの村に身を潜め、フリッツ・ホルマンの偽名を用い農家の住み込みとして働く。この時、ニュルンベルグ裁判では同僚であったK・ゲープハルトらが被告として裁判に出廷していた。この裁判中、ヨーゼフの名前も何度か挙げられていたが、連合軍側は既に彼は死んだものとみなしていた。1949年戦犯追及を逃れようとする元ナチ党員の多くとともにヨーゼフはアルゼンチンに逃亡し、家族の支えで薬品会社の共同経営者になる。ヨーゼフは妻・イレーネと離婚して、1958年に彼の兄弟カールの未亡人・マルタと再婚した。なお、イレーネとの離婚の際、離婚手続きを行う為にドイツ大使館に出向き、書類に本名で記載、この書類とともに提出された写真が戦後公式記録に残る唯一の写真となった。彼女と息子はヨーゼフに会うためにアルゼンチンへ移る。1960年アイヒマン逮捕以降、イスラエルの追及を逃れるために南米諸国を転々とするも、すぐに国際逮捕状が出される。

彼を追い詰める国際的な捜査努力にもかかわらず彼は逮捕されずに様々な名で隠れ住み、戦後35年間を生き延びた。 在命中息子をブラジルに招待している(当時の写真は現在も残っている)。このことについて息子は「警察に引き渡すなんて出来なかった」と語っている。なお、人体実験について父に言及すると「息子よ、お前も新聞に書かれていることを信じるのか。全て嘘だ。お前の母に誓って言おう。決して人に危害をかけたことなどないと」と答えたという。

1979年に海水浴中に心臓発作で溺死するまで、彼はパラグアイとブラジルで暮らした。1980年代半ばまで彼はナチ・ハンターによる追及から逃げ果せた。しかし、自身の日記や会社の同僚によると、追跡の恐怖に怯えており、小さな物音にさえ動揺するほど精神衰弱していたという。1992年に遺骨からのDNAテストで本人であることが確認された。

ヨーゼフは、小説『ブラジルから来た少年』および映画『マラソンマン』の中で中心的人物として描かれており、1986年にはアメリカ出身のヘヴィメタルバンド・スレイヤーが「エンジェル・オブ・デス」の曲でヨーゼフについて歌っており、歌詞が過激すぎるとの理由で世界中から物議の対象となった。また、映画『MY FATHER』(2003)ではヨーゼフの実在の息子の葛藤を描いており、ヨーゼフ役をチャールトン・ヘストンが演じている。

[編集] 人物

  • 現在一般的に知られる顔は異常性を引き立てるためにやや醜悪な写真を使用しているが、妻をはじめとして彼を良く知る人物は背が高くハンサムで親切な人物であったという。このことについては実験体となった被害者も認めており、南米の同僚にいたっては「彼がやったとは思えない。やったとしたら命令でしたのだろう」と発言している。
  • 戦後ついに死ぬまで逃げおおせた著名な戦犯の一人である。モサドは彼の目撃情報を掴む度に迅速に動いたがその度にメンゲレは跡形もなく消えていた。これにはナチハンターのサイモン・ヴィーゼンタールも「あと二年もあれば彼を捕まえられたのだが」と舌を巻いた。

[編集] 参考資料

  • ヒトラーの側近たちⅡ「ヨーゼフ・メンゲレ 死の天使」(1998年、第2ドイツテレビ

[編集] 外部リンク


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