ヤエノムテキ
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ヤエノムテキ | |
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品種: | サラブレッド |
性別: | 牡 |
毛色: | 栗毛 |
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生誕: | 1985年4月11日(23歳) |
死没: | (現役種牡馬) |
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父: | ヤマニンスキー |
母: | ツルミスター |
母の父: | イエローゴッド |
生国: | 日本(北海道浦河町) |
生産: | 宮村牧場 |
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馬主: | (有)富士 |
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調教師: | 荻野光男(栗東) |
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厩務員: | 荻野功 |
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競走成績 | |
生涯成績: | 23戦8勝 |
獲得賞金: | 5億2,422万7,500円 |
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ヤエノムテキ(1985年4月11日 - )は日本の元競走馬である。1990年JRA賞最優秀父内国産馬。主な優勝レースは1988年皐月賞、1990年天皇賞(秋)、京都新聞杯、大阪杯、鳴尾記念。東京競馬場の芝2000メートルの元レコードホルダー。国内レーティングの最高は1989年の112。現在は種牡馬。
目次 |
[編集] 血統
ヤエノムテキは浦河の宮村牧場という小さな牧場で生まれた。母ツルミスターは3戦未勝利という戦績で、近親にも特に目立った活躍馬はいなかったが、血統にイエローゴッド、ソロナウェー、トサミドリ、トキノチカラとダービー馬を輩出した種牡馬が名を連ねている事から、同馬を管理していた荻野光男調教師の勧めもあって繁殖牝馬となる事ができた。 父ヤマニンスキーは競走成績こそ22戦5勝重賞未勝利と目立たなかったものの、父ニジンスキー母父バックパサーという血統は名馬マルゼンスキーと一緒であり、マルゼンスキーの代替種牡馬としてそれなりの人気を集めていた。
[編集] 4歳
ヤエノムテキは気性面や体質面の問題により4歳の2月までデビューが遅れたが、西浦勝一騎手鞍上で新馬戦、続く沈丁花賞(共にダート戦)をそれぞれ7馬身差、12馬身差という大差で勝ちあがった。その後、皐月賞の優先出走権を得るために連闘で「東上最終便」毎日杯に挑むも、オグリキャップから離された4着に沈んだ。優先出走権は得られなかったものの、その後6分の3の抽選をくぐり抜けて皐月賞に出走する事ができた(なお、この年の皐月賞は東京競馬場で行われた)。 単勝25倍の9番人気で挑んだ皐月賞では、第2コーナーでメイブレーブ、マイネルフリッセによる斜行で1番人気のモガミナインが不利を受ける中、その影響を受ける事無くサクラチヨノオーをマークしながら進み、直線で鋭く脚を伸ばして2着のディクターランドに4分の3馬身差をつけて優勝した。 その後ダービーに出走するも4着に終わったヤエノムテキは、放牧に出る事無く夏場も走り続け、中日スポーツ賞4歳ステークス2着、UHB杯1着の成績を残し、秋初戦の京都新聞杯も快勝して1番人気で菊花賞に挑んだが、距離が合わなかったのか10着に敗れた。その後当時2500mで行われていた鳴尾記念を勝って1988年を終えた。
[編集] 5歳
年明けの日経新春杯2着の後、大阪杯を快勝して1番人気で宝塚記念(GI)を迎えたが7着に敗れた。秋には調整の失敗もあってぶっつけで天皇賞(秋)に挑むも4着、有馬記念は6着と不完全燃焼に終わった。
[編集] 6歳
年明けから春にかけては、日経新春杯2着、マイラーズカップ3着、大阪杯3着と勝ちきれない競馬が続いた。安田記念からはそれまで主戦だった西浦騎手から岡部幸雄騎手に鞍上を替えるも2着、宝塚記念は3着と勝ちきれない競馬が続いた。 そして迎えた天皇賞(秋)は7番枠からスタートすると中団の内側を追走、直線では内を突いて残り400mで先頭に立つと、最後はメジロアルダンの急襲をアタマ差抑えて優勝、GI2勝目を飾った。 その後ジャパンカップ6着を経て引退レースとなる有馬記念に出走したヤエノムテキは本場場入場直後に放馬してしまう。馬体に異常無しとしてレースには出走したもののいいところ無しの7着に敗れ、現役生活を終えた。
[編集] 引退後
引退したヤエノムテキは総額5億円のシンジケートが組まれ、1991年(平成3年)に種牡馬デビューした。しかし、1996年には早くもシンジケートが解散、その後安価のシンジケートが組まれたがそれも解散。現在は、同馬のファン150人がヤエノムテキ会を結成し、北海道の浦河で種牡馬として供用されている。
2006年3月時点で、通算コンパラブルインデックス0.94に対してアーニングインデックスは0.76。これまでに競走に送り出した177頭のうち116頭が勝ち馬になっており、457勝をあげている。2005年、ヤエノムテキの子は一年間で350万円ほどの賞金を稼ぎ、種牡馬順位で535位だった。年間アーニングインデックスは0.16。オグリキャップは536位、メジロアルダンは538位である。
[編集] 代表産駒
- ムテキボーイ(東京湾カップ・テレビ埼玉杯)
- フジノムテキ
- マイネルナチュラル
- ミツアキムテキ
- コトブキグローリ
- ユウキツバサオー
- ヤエノビューティー
- クリヤームテキ
- ムテキヒーロー
- メイショウカケハシ
[編集] エピソード
- JRAからヤエノムテキの引退式が提案されたが、同馬の気性の悪さを考慮して調教師らが断っている。
- 勝ったGIレースは2つとも東京競馬場芝2000メートル(うち一度は代替開催)であること、同コース、同距離のレコードホルダーであることから、引退の翌年作られたヤエノムテキのポスターには「東京の二千に咲いたムテキの舞い」と書かれた。
- 厩務員(持ち乗り調教助手)の荻野功によると、同期の牝馬シヨノロマンが近くを通ると、じっとそちらの方を見たまま動かなくなった。
- 荻野功は1980年代にアメリカ合衆国のマッカナリー厩舎で研修を行ったことがあり、現地で岡部幸雄と知り合った。その時に「日本でいい馬を育て、岡部に乗ってもらう」ことが目標となっていたが、1990年にヤエノムテキによってそのことが実現した。
[編集] 血統表
ヤエノムテキの血統 ニジンスキー系/Menow 5.5×5=9.38%, Nearco 5×5=6.25% | |||
父
ヤマニンスキー 1975 栗毛 |
Nijinsky II 1967 鹿毛 |
Northern Dancer | Nearctic |
Natalma | |||
Flaming Page | Bull Page | ||
Flaring Top | |||
* アンメンショナブル Unmentionable 1970 鹿毛 |
Buckpasser | Tom Fool | |
Busanda | |||
Petticoat | Palestinian | ||
Sabana | |||
母
ツルミスター 1980 鹿毛 |
* イエローゴッド Yellow God 1967 栗毛 |
Red God | Nasrullah |
Spring Run | |||
Sally Deans | Fun Fair | ||
Cora Deans | |||
フジコウ 1964 黒鹿 |
* ソロナウェー Solonaway |
Solferino | |
Anyway | |||
ハマミドリ | トサミドリ | ||
フジサカエ F-No.1-o |
[編集] 外部リンク
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