ペギー葉山
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ペギー葉山(ペギー はやま、本名:森 繁子[もり しげこ]、旧姓:小鷹狩[こたかり]、1933年12月9日 - )は日本の女性歌手、タレント。社団法人日本歌手協会会長。東京都新宿区出身。青山学院高等部(現・高中部)卒業。1952年にキングレコードより(現在も所属)レコードデビュー。
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[編集] 略歴
東京・四ツ谷生まれ。 幼少時から歌が好きだったことから、青山学院中等部在学中に声楽を習い、音大進学を志していたが、高等部2年の時にビング・クロスビーの主演映画『我が道を行く』を観た際、劇中でクロスビーが歌う「アイルランドの子守唄」に感動し、クラシックからポピュラー/ジャズへの転向を決意。
ほどなく友人の紹介から進駐軍のキャンプで歌い始め、その歌を見込んだティーブ・釜萢の口利きで、当時の一流ビッグバンドである渡辺弘とスター・ダスターズの専属歌手として活躍する。
学校卒業後の翌1952年11月にキングレコードから「ドミノ/火の接吻」を発売し、レコードデビュー。 渡辺弘とスター・ダスターズの専属解除後の1955年2月には初渡米。各地で歌い、盛況を博す。
1958年、ミュージカル『あなたの為に歌うジョニー』で芸術祭個人奨励賞受賞。 翌1959年には「南国土佐を後にして」の空前の大ヒットで、ジャズ/ポピュラー界だけではなく歌謡界においても、その地位を不動のものにする。 そして1960年、オーストラリア/ゼネラルテレビの招きで、テレビ番組『今宵のメルボルン』に1ヶ月間レギュラー出演する。この年の8月にはロサンゼルスの日米修好百年祭に日本人代表として招かれる。この際にミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』を鑑賞。帰国後、自身の作詞で劇中歌「ドレミの歌」を紹介/発売している。
しかし、生来病弱であったことに加え、その人気による過密スケジュールから、1963年の春に気胸を患い半年間の療養を余儀なくされた。が、病気療養中に「ラ・ノビア」もヒットしたことも幸いし、ブランクをものともせず無事復帰した。 また、復帰翌年の1964年には「学生時代」がヒットし、人気の健在ぶりを示した。
1965年に俳優の根上淳と結婚、1968年には長男を出産している。 根上とは、芸能界きってのおしどり夫婦で知られ、1997年に根上が糖尿病の合併症から来る脳梗塞で倒れてから2005年に亡くなるまで歌手業の傍ら在宅介護を続けた。
タレントとしての活動も多くこなし、知られているものではNHK紅白歌合戦の紅組司会(1966年)や「歌はともだち」(NHK)の司会に、「ひらけ!ポンキッキ」(フジテレビ)のしつけコーナー、「ウルトラマンタロウ」のウルトラの母役などがある。
1974年には司馬遼太郎に続き、二人目となる高知県名誉県人の称号を贈られる。
1995年に紫綬褒章、2004年には旭日小綬章をそれぞれ授章。
2007年6月からは、青木光一の後を継ぎ、社団法人日本歌手協会7代目会長に就任。
現在も、歌手としての活動のほか、日本歌手協会会長としての業務、亡夫の介護体験をもとにした講演を行うなど、デビュー55年を超えてもなお第一線で活躍し続けている。
[編集] エピソード
- 生まれたのは1933年11月9日だが、当時同居していた祖父が出生届を引き出しに入れたまま出し忘れたことから戸籍上の出生日は1933年12月9日となった。このことから幼少時は誕生日プレゼントを2度貰っていた。
- 父方の先祖は広島藩主/浅野家の家老職を勤めたこともある由緒ある家系。また母方の祖父は白虎隊の生き残りである。
- 戦争中、父方の実家がある広島に疎開する予定だったが、直前に父が「広島の近くは呉という軍港もあるし、海の近くより山奥の方が安全だろう」と急遽集団疎開に切り替え、福島県石城郡大野村(現在のいわき市)に疎開し被爆を免れた。なお父方の祖父は被爆の際に亡くなり、原爆投下一ヵ月後に白骨化した状態で発見された。
- 作曲家の古賀政男とは家が隣同士であったことから家族ぐるみで交流があった。ペギーの長男誕生祝に古賀は曲を書き下ろし贈ったが当時はレコード会社の違いなどの事情もあり、世に出すことは叶わず譜面も紛失し幻の曲となっていた。しかし古賀の生誕100年の年だった2003年にペギーが書棚整理した際に発見、コンサートで披露。好評であったことに加え、当時クリアできなかった権利問題もクリアできたことからCD化されている。
- 芸名の由来だが、"ペギー"は友人宅の混線電話がきっかけで親しくなったテレホン・フレンドのアメリカ人から「君の声はペギーという感じだ」と言われたことから、"葉山"は進駐軍廻りの際に一緒にアルバイトしていた学生に「長谷川一夫にフランク・シナトラ…芸能人にとって、ハ行は縁起がいい。」と言われ、「確かにその通り。ペギーだけでは苗字が無いし、それなら何か…」ととっさに思いついたのが葉山であったことからである。ただ、芸名の由来となったペギーの愛称を付けたアメリカ人とは一度も会ったことが無いそうである。
- 当時、巡業等で地方へ行くとペギー葉山ではなく、ペリー葉山、ペンギン葉山、ペジー葉山といった誤記が多数あった。
- 代表曲「学生時代」はペギー自身の学生時代がモデルである。当初曲名は「大学時代」だったが『自分は大学へは行っていないから』と現在のタイトルへと改めてもらった。
[編集] 代表曲
- ケ・セラ・セラ(ドリス・デイのカバー)
- 島原の子守唄(もともとは島倉千代子が歌っていたものだがペギー葉山のカバーによって世に知られるようになった)
- 南国土佐を後にして(1959年当時で100万枚を超える大ヒット。第40師団歩兵第236連隊の歌のリメイク)
- 学生時代
- 大人と子供(1962年当時同じキングの童謡歌手だった庄司淳と歌っていた)
- ドミノ([アンドレ・クラヴォー]]のカバー)
- ドレミのうた(『サウンド・オブ・ミュージック』より、日本語訳詞も自身の手によるもの)
- ウンパッパ(『オリバー!』より、『みんなのうた』でも使われた)
- ドミニク(スール・スーリールのカバー)
- ラ・ノビア(コニー・フランシスのカバー)
- 算数チャチャチャ(『みんなのうた』)
- 町の小さな靴屋さん
- ラ・マンマ
- 琵琶湖周航の歌(加藤登紀子が吹き込んだ盤が有名だが、1962年にペギーもこの曲を吹込みヒットしている)
- ブリデント
- 爪
- マンボ・イタリアーノ
- 我が心に歌えば
[編集] アルバム
- 恋歌・万葉の心を求めて(万葉集の恋歌を、現代風にアレンジして、山口洋子が作詞、小六禮次郎が編曲、作曲をニューミュージックのシンガーソングライター(大塚博堂・来生たかお・南佳孝・西谷翔・米山拓巳)が担当。監修・犬養孝。1980年、日本レコード大賞企画賞受賞)
[編集] 出演作品
[編集] CM
[編集] 賞歴
[編集] 著作
- わが心に歌えば(主婦と生活社・1975年10月)
- 代々木上原めおと坂(夫/根上淳との共著・立風書房・1987年4月)
- 歌う看護婦 夫を在宅介護 愛とバトルの二千日(光文社・2004年9月)
[編集] その他
[編集] サウンドオブミュージックに出演
全国公演のブロードウェイミュージカルに修道院長役で昨年に引き続き出演する。