ナイル川
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ナイル川 | |
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水系 | |
種別 | |
延長 | 6,650 km |
水源の標高 | 1,134 m |
平均流量 | 2,830 m³/s |
流域面積 | 2,870,000 km² |
水源 | ルヴィロンザ川 |
河口(合流先) | 地中海 |
流域 | タンザニア ブルンジ ルワンダ ウガンダ コンゴ民主共和国 ケニア エチオピア スーダン エジプト |
ナイル川(アラビア語: النيل an-nīl)は、アフリカ大陸東北部を流れる大河川。全長6,650km。英語名、「Nile River」。
目次 |
[編集] 概要
一般にはビクトリア湖が源流だと思われているが、ビクトリア湖には流れ込む川が存在し、ナイル川の最上流はブルンジのルヴィロンザ川である。
ビクトリア湖からはヴィクトリアナイルとして知られる。約500km下流に行くとキオガ湖を経てアルバート湖に着く。アルバート湖からはアルバートナイルとして知られる。スーダンに入り、支流のバハル・エル=ガザルと合流する。そこからは白ナイル川とよばれる。
白ナイル川はスーダンのハルツームで、エチオピアのタナ湖から流れてくる青ナイル川と合流する。さらに、ハルツームから約300 km下流で、支流のアトバラ川と合流する。エジプトに入ると、アスワン・ハイ・ダムとそれによって出来たナセル湖がある。それからさらに北へ流れ、地中海に注ぐ。河口附近には三角州が発達している。
その肥沃な流域はエジプト文明を育んだ。ナイル川は7月中旬、エチオピア高原に降るモンスーンの影響で氾濫を起こす。この洪水は上流より肥沃な土壌をエジプトをはじめとするナイル河畔にもたらしていた。氾濫が収まった後に農地を元通り配分するため、エジプト文明に測量と幾何学を発達させた。水害を防ぐためアスワン・ダム、アスワン・ハイ・ダムが建設されたが、貴重な歴史的文化遺産がダム湖に沈む為、遺跡の移動を余儀なくさせられた。
現在、ダムの建設による塩害や土砂の流出などにナイル川下流地域で悩まされており、エジプト政府はこの対策をせまられている。
[編集] 河川交通
古代エジプト文明の時代には、エジプト人はナイル河畔に居住していた。その影響力は、ナイル川を河川交通路として利用することにより、現在のエチオピアやウガンダなど上流部にまで及んでいた。冬季においては季節風を利用し、帆掛舟により、川を遡ることができた。現在でも、ファルーカと呼ばれる帆船が、交通手段として利用されており、観光船の運航も行われている。
このほか、ナイル川の河川交通の難所として知られていたスーダン南部のサッド湿地においては、多目的利用のジョン・グレイ運河建設計画があったが、これは政情不安により途中で工事が中止されている。
[編集] 水文
上流のアルバート湖付近のアルバート・ナイル川の流量は約1,048立方メートル/秒であり、一年を通じて大きな変化は無い。スーダン南部のサッド湿地においては蒸発散により、流量大きく減少し約510立方メートル/秒となる。サッド湿地を下り、ソバト川と合流すると、白ナイル川と呼ばれるようになる。ソバト川は流量の変化が大きく、増水期の3月には約680立方メートル/秒であり、渇水期の8月には約99立方メートル/秒となる。増水期には浮遊物が多く、これがナイル川に流れ込み、白ナイルの語源となっている。ソバト川の影響により、合流点付近の白ナイル川の流量も約609立方メートル/秒から約1,218立方メートル/秒の範囲で変化している。
ハルツームで青ナイル川と合流し、アトバラでアトバラ川と合流している。アトバラより下流では、大規模な河川の合流は無い。1月から6月にかけての乾季の間、青ナイル川の流量は約113立方メートル/秒であり、ナイル川の流量のうち、白ナイル川からのものが7割から9割をしめる。アトバラ川は雨季以外ほとんど流量は無い。
雨季には青ナイル川の流量は大きく増大する。8月の青ナイル川流量は約5,600立方メートル/秒以上となり、ナイル川の流量のうち8割から9割をしめる。ダム建設以前のエジプト・アスワンにおける流量は渇水期と増水期で15倍に達した。
そのほか、乾燥地帯を流下する河川であるために蒸発散による影響を大きく受けている。
[編集] 地史
ナイル川は、エチオピア高原が隆起してきた白亜紀以降に形成されたと考えられている。中新世以降、その状況は5つの時期に分類される。中新世の頃のものは古ナイル(Eonile)と呼ばれ、侵食系であった。その頃は地中海海盆は干上がっており、この盆地に向けて峡谷が形成されたものと思われている。古ナイルによって形成された峡谷は埋積され、現在ではそれらの領域の一部にガス田が見られる。現在のナイル川となったのは更新世末期のことである。[1]
[編集] 歴史
[編集] ナイル川源流の探索
ナイル川源流を探ることは古代より行われていた。17世紀頃には青ナイル川の源流がタナ湖であることがヨーロッパ人にも知られるようになったが、白ナイル川については不明のままであった。
1858年にジョン・ハニング・スピークがリチャード・フランシス・バートンとともにヴィクトリア湖を「発見」した。バートンは前年に発見したタンガニーカ湖を源流と主張し、スピークはヴィクトリア湖が源流と主張した。この論争を受けて、デイヴィッド・リヴィングストンがこの地域を探検したが、源流の確定には至らず客死し、その跡を継いだヘンリー・モートン・スタンリーにより、ヴィクトリア湖が源流であるとほぼ確定された。その後も、ヴィクトリア湖に流れ込む川の探検が続けられており、ルヴィロンザ川やカゲラ川などが源流とされるようになってきている。