デロリアン
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デロリアン (De Lorean) はアメリカ合衆国にかつて存在した自動車製造会社である。また同社で製造された自動車『DMC-12』の通称としても用いられる。映画『バック・トゥ・ザ・フューチャーシリーズ』に登場するタイムマシンとして有名。
本記事では、企業としてのデロリアン社と自動車モデルのDMC-12の両方について解説する。
目次 |
[編集] 企業概要
1975年10月24日、当時ゼネラルモーターズの副社長であったジョン・ザッカリー・デロリアンが、理想の車を作るためにGMを辞職し独立して自ら設立したのがデロリアン・モーター・カンパニー(Delorean Motor Company Ltd./DMC)である。本社はミシガン州デトロイトに、製造工場はイギリス・北アイルランドのベルファスト郊外、アントリム州ダンマリー村にあった。1982年に解散(詳細は後述)。
[編集] DMC-12
長い開発期間を経て1981年に登場した同社唯一のモデル『DMC-12』は、イタルデザイン社のジョルジェット・ジウジアーロがデザインし(そのため、ロータス・エスプリやいすゞ・ピアッツァに似ているという人もいる)、ロータス社がメカニック設計を請け負った。同車は、ガルウイング等の先進的な発想を取り入れたため、開発は非常に難航し、ロータス創業者コーリン・チャップマンが生涯をかけて設計したことでも知られている。
バックボーンフレーム上に強化プラスチックボディを載せる手法はロータスが得意とした構造だが、メンテナンスフリーをも狙って外部全体を無塗装ステンレスで覆ったことが極めてユニークである。銀色に光るヘアライン仕上げのステンレスが剥き出しの外装と、近未来的なガルウイングドア装備は見る者に衝撃を与え、後年まで同社のイメージを決定づける存在となった(コーリン・チャップマンはこのステンレス製のボディについて難色を示したと言われる)。なお、ノーマル時の車高(ロードクリアランス)が高いのは、当時の基準におけるヘッドライトの高さを満たすためであった。
エンジンはフランス製(「PRV」V型6気筒SOHC2849cc。プジョー・ルノー・ボルボが乗用車用に共同開発した量産品)を後部に搭載。1973年のエネルギー危機後に設計されたもので、当時としては出力よりも経済性を優先したエンジンであった。 外見からイメージされるほどのスーパーカー的な車ではなく、むしろ個性的なスタイルのスペシャリティ・クーペというのが正確な捉え方である。
初年度は約6,500台を販売するなど売り上げは好調で、ターボチャージャー搭載や4枚ガルウイングドア4座仕様追加等の計画もあったが、1980年のアメリカでは「構造改革」によって所得格差が拡大し、貧困層が急増した背景もあり、発売価格が2万5,000ドル(当時の為替レートで約625万円)とやや高値であったDMC-12は、翌年以降たちまち売り上げが不調になっていった。また、北アイルランドへの工場誘致の条件として交付されていたイギリス政府からの補助金が停止された。後にエンロン社の会計監査も行ったアーサー・アンダーセン社が、デロリアン社の資金を社長ジョン・デロリアンが私的に流用するなどしたことを黙認していたことが、マスコミの調査などで明らかになっている。さらに1982年10月19日に、社長のジョン・デロリアンがコカイン所持容疑で逮捕されるスキャンダルが発生したことにより、会社は資金繰りが立ち行かなくなり倒産してしまった(のちジョン・デロリアンの麻薬嫌疑は、裁判の結果1985年頃に無罪が確定した)[1][2]。
生産期間中には風変わりなバージョンも製造された。1981年モデルの最後を締めくくっているのが2台の純金パネル装備車で、2005年現在もネバダ州リノの National Auto Museum とテキサス州の Snyder Bank に展示されている。(1台12万5,000ドル以上という)。なお、一番最後に製造された車も純金パネルであったが、これは宝くじのような富くじ方式で一般人の手に渡った。
最終生産車が作られたのは工場閉鎖後のことで、工場に残っていたパーツ等で1982年12月24日に作られた4台が、一般向け生産の最後となった。最終的に、8,583台が製造されたと見られている(500台が欠陥品なので実質7,883台と思われる)。
なお、ボディのプレス型は倒産後に他社による再生を恐れた人々が海に捨ててしまったため現存せず、再生産が不可能になっている[要出典]。
日本において、公道を走らせるため車検を取得した場合、自動車検査証の社名表記は「デロリアン」ではなく「デローリアン」になる。
[編集] ジョン・デロリアンとDMC-12のその後
これら多くの逸話と映画での活躍によって、DMC-12は1980年代を代表するカルトカーとなり、21世紀初頭の現代でも多くの自動車マニアのコレクション対象となっている。倒産後のデロリアン社の設備を取得したStephen Wynneは、現在もDMC-12のオーナーに修理用パーツを供給し続けており、1台丸ごと新車を組み立てることも可能である。
ジョン・デロリアンは再び新たな車を創造するプランを抱いていたが、麻薬売買に関わった容疑で逮捕され、のちに裁判の末無罪となったものの、新モデルの開発、発売を果たすことなく2005年3月19日に死去した。あるデロリアン愛好者のウェブサイトによると、2ドア・2シーター、時速60マイル(96km/h)到達まで3.5秒、価格は1万7,500ドル程度と、低価格でありながら非常な高性能を目指していたようである。
[編集] DMC-12の再生産計画
現在、DMC-12の修理などを行っている Stephen Wynneは2007年8月、DMC-12を再生産することを明らかにした。
Wynneは、アメリカのテキサス州ヒューストン郊外に約3700m²の工場を建設し、そこで新DMC-12を再生産することを計画している。オリジナルのDMC-12には配線などにトラブルがあったが、新バージョンではそれらのトラブルは改善される予定である。生産台数は、月20台とデロリアン社があった頃と比べて減るものの、ファンからの期待は高いようである[3]
[編集] その他
- 北海道函館市にある函館出身の人気ロックバンドGLAYの記念館、Art Style of GLAY では、鏡の部屋に半分だけのDMC-12が展示されてあり、観覧客が乗り込むことも可能。これはメンバーであるHISASHIのお気に入りの映画が『バック・トゥ・ザ・フューチャー』であることと、自身の車好きのためだと推測される(彼は別冊カドカワのGLAY総力特集[4]での対談でもDMC-12について語っている)。
- 栃木県那須郡那須町にある那須PSガレージ[5]にもノーマル状態とタイムマシン仕様の2台が展示されており、タイムマシン仕様のDMC-12としてはUSJ内に展示されているものよりも精巧である。
- 愛知県豊橋市に、DMC-JAPAN[6]が存在するがデロリアン社との関係は無い。主に修理を行っており10台前後DMC-12が並んでいる。
[編集] 脚注
- ^ デロリアンの歴史
- ^ 5分で分かるデロリアンの歴史
- ^ DeLorean To Re-Enter Limited Production in 2008 | Gadget Lab from Wired.com
- ^ 『別冊カドカワ 総力特集 GLAY』 角川書店<カドカワムック 213>、2005年1月 ISBN 4-04-894456-8
- ^ 那須PSガレージ
- ^ DMC Japan