ジョセフ・マッカーシー
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ジョセフ(ジョー)・レイモンド・マッカーシー(Joseph Raymond "Joe" McCarthy, 1908年11月15日 - 1957年5月2日)は、ウィスコンシン州選出の共和党上院議員(任期:1947年 - 1957年)。
マッカーシーと彼のスタッフは、アメリカ合衆国政府と娯楽産業における共産党員と共産党員と疑われた者への攻撃的非難マッカーシズムと呼ばれた行動で知られる。これは1948年頃から1950年代半ばのアメリカで起きた特に激しい反共産主義者運動で、そのときメディア、映画産業、政治家、軍隊、そしてその他の場で、共産主義者への共感について疑われた人々は、多くの人が攻撃的魔女狩りと見ていたものにさらされたのだった。
以来、マッカーシズムは、政府が認めていない思想や政治的態度を罰しようとする魔女狩りを意味するようになった。
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[編集] 初期の経歴
マッカーシーはウィスコンシン州のグランド・チュウトで生まれる。実家は農場を経営していた。1930年から1935年までミルウォーキーのマーケット大学で法律を学び、弁護士の資格を取った。シャワノの町の法律事務所で働きながら、1936年に民主党員として治安判事になるための運動に乗り出したが、成功しなかった。1939年に巡回裁判官に当選した。
1942年、アメリカ合衆国が第二次世界大戦に参戦した少しのち、兵役免除を受けられる立場にあったのだが、マッカーシーは海兵隊の大尉として軍務に就く。彼は南太平洋の爆撃任務に観測手および射撃手として戦闘参加した。この事から「テールガンナー・ジョー」というあだ名がついた。
1944年、まだ軍務に就いていた彼は、ウィスコンシン州の共和党上院議員候補者指名のための予備選挙に立候補したが、現職のアレクサンダー・ワイリーにあっさり敗北した。1945年4月に軍隊を除隊。巡回裁判官の地位を反対なく再選出されたのち、彼は1946年の上院議員選挙のため、より組織的な運動を始め、ウィスコンシン州現役上院議員のロバート・M・ラフォレットジュニアに挑戦した。マッカーシーは州の党組織の支援を受け、そしてかろうじて候補者指名に勝った。彼は簡単に民主党の対立候補に選挙で勝利した。
[編集] 上院議員
最初の上院議員の任期中、マッカーシーは注目されなかった。彼は議会での法案投票には保守的だったが、共和党の方針に完全に従ったわけではなかった。しかし彼は大衆とメディアの注意をひくことに長け、たくさんの異なった組織に対し非常に多くの演説を行った。その主題は広範囲にわたっていた。彼の最も注目に値する初期のキャンペーンは住宅法と反砂糖配給制度だった。彼の横顔が全国的に知られるようになったのは1950年2月9日、ウェストバージニア州のホィーリングの共和党女性クラブでの演説のあとだった。
マッカーシーの演説での言葉は、今現在議論の対象となっている。当時きちんと演説内容が記録されておらず、メディアの存在もきわめて少なかったためである。しかしこの時彼がひとつの文書を示し「国務省で働いている著名な共産主義者のリストを持っている」と主張した点で、衆目は一致している。演説のある報告では「私は正規の党員であるかまたは共産党に確かに忠誠であると思われる人物の205人の実例のリストを手に持っている」としている。マッカーシー自身は、57人の既知の共産党員に言及したのであり、205人という数字は国務省に雇われている者のうち、色々な安全上の理由から雇うべきでない者の数であると述べている。述べられた正確な数は、マッカーシー上院議員に対する偽証罪の告発の時に一時問題となった。
単に国家への忠誠心についてだけでなく、酒の飲み過ぎとか無能力とかなど、色々な問題点を持っている職員をリストしている国務省の文書が存在していたのは事実である。しかしマッカーシーの演説は、ヨーロッパにおけるソ連の侵略の可能性と、マッカーシーの演説と同時に進行しているアルジャー・ヒスの裁判に注目している国家にとっては衝撃的だった。マッカーシー自身も演説へのメディアの大きな反応に驚き、そして絶え間なくその後告発、共産党員数の両方をコロコロと修正したが、それは彼のやり方の特徴的な側面だった。
数日後ソルトレイクシティにおいて57人の数字を示し、そして2月20日の上院では81人と主張する、といった具合に。彼はこれら全ての例を議論したマラソンスピーチを行ったが、その根拠は希薄か、存在しないものだった。にも拘わらず、演説の衝撃は大きかった。上院は告発を調査するためタイディングス委員会を招集し、これらは事実無根であることがそのうちに分かった。しかしマッカーシーのような有力な議員に対しては、所詮無力だった。彼は告発を少しだけ変え、そしてそれを上院や報道に対して示すのだった。
[編集] 反共産主義者十字軍
1950年から1953年の間マッカーシーは、政府が内部にいる共産主義者を扱うことに失敗しているという非難をし続けたが、一方で彼が一夜でスターダムにのしあがったことは、力ある国民的追随者とかなりの収入を得ることになった。彼の収入は上院の委員団により調査され、その結果、彼のキャンペーンにおける問題ある行動と財政的な不正行為が明らかとなったが、法律的行動に出るための根拠を見つけられなかった。マッカーシーは彼の事務所の調査員であるジーン・ケールと1953年9月29日に結婚した。
1953年における共和党の選挙勝利には彼の攻撃が助けとなった。敗北した民主党候補者の内、最低でも一人は、マッカーシーによる非難に原因の一端がある。選挙勝利後、党の指導者は彼の人気の大きさをリベラルな民主党員を攻撃するための武器と認め、彼を上院政府活動委員会常設調査小委員会の委員長に任命した。しかし彼が信頼できないところ、及び言い逃れしようとするところは、決して党により完全には信用されていないことを意味した(特にドワイト・D・アイゼンハワー大統領に)。
彼の委員会は、下院非米活動調査委員会と上院内部安全小委員会とは異なって、政府機関に焦点を合わせた。それは最初「アメリカの声」の官僚組織への調査を行い、そして国務省の海外情報図書館から親共産主義的文献と考えられるものを強制排除させた。その内マッカーシーは、政府内部における共産主義者の影響への非難を始めた。今や政権は共和党の手にあるにも拘わらず、である。これはアイゼンハワーを怒らせた。彼は今も続いている人気からマッカーシーに公然と反対しようとはしなかったが、しかし今やマッカーシーを危険なルーズ・キャノン(自分勝手で信頼できない人物)と考え、彼を影響力ある位置から引き離すために、舞台の裏で仕事を始めた。
マッカーシーは、ジョンズ・ホプキンズ大学の教授であるオーエン・ラティモアを合衆国におけるソビエトのNo.1スパイだとして告発した。
[編集] 没落
1953年の秋、マッカーシーの委員会は合衆国陸軍への調査を始めたが、それは不幸な結果となった。委員会は陸軍通信部隊におけるスパイ団を暴露しようとしたが、失敗した。委員会は陸軍の歯科医アーヴィング・ペレスを召喚したが、彼は立証のための質問で20回にわたって憲法修正第五条(黙秘権)を使った。ペレスは軍隊の人間を共産党に勧誘したことを告発された。確かに知られていることだが、ペレスは「破壊組織」のメンバー員に関する国防省のフォームにおける質問に答えることを拒否し、陸軍軍医総監は1953年初め彼の解雇を勧告した。マッカーシーはペレスがその勧告のあと解雇されずに、そのかわり少佐の地位に昇進したことについて、真剣な関心があることを表明した。
この後者の問題を調査する中で、マッカーシー上院議員はラルフ・W・ツウィカー大将に対する扱いに関して、メディアの敵対的な注意を彼自身に対しもたらすことになった。マッカーシーはツウィカーの理解力を「五歳の子ども」の理解力と比喩し、そしてツウィカーは「大将の制服を着るにふさわしくない」と述べた。1954年初め、陸軍はマッカーシー上院議員と彼の助手で弁護士のロイ・コーンを、もう一人のかつての援助者でコーンの友人のG・ディビッド・シャインに対し好都合な扱いをするよう陸軍に対し圧力をかけたと告発した。マッカーシーは、非難は不誠実によるものであり、前の年のツウィカーへの質問に対する報復であると主張した。
昇進にあたって、マッカーシーは上院調査小委員会のスタッフを本質的に入れ替えたが、普通、前任者を解職することはない。注目すべきはロイ・コーンであった。コーンはウィリアム・レミントン(William Remington:以前の商務省の雇用者で共産党のメンバーに関し偽証で有罪となった)、ジュリアスとエセル・ローゼンバーグへの熱心な告発や、そして合衆国の共産党指導者への裁判で知られていた。なお、1995年に公開されたベノナの写しはレミントンとジュリアス・ローゼンバーグがソ連のために働いていたことを証明したが、後述の通りマッカーシー自身はそのような証拠には触れていなかったとみられる(また、エセル・ローゼンバーグのスパイ行為は証明されていない)。
マッカーシーが小委員会の会議を主催することになった時、コーンは、何の法律的経験を持たない26歳の検察官だった。コーンは聴聞を、公開の場でやりたがらない傾向があった。これはマッカーシーの「議会秘密会」と「記録しない」会議を首都から遠く離れたところで行い、公開の精査と質問を最小限にするという好みとうまく混ざりあった。コーンは、調査のために反ユダヤ主義的動機という非難を避けることを選んだが、調査を追求する自由を与えられていた。
二、三人の注目すべき人物が、マッカーシーが委員会を主催するようになってすぐに委員会を辞めたが、その中にロバート・F・ケネディもいた。彼は文字通りロイ・コーンと殴り合いをした。これらの辞職によりB・マシューズが執行指揮者に任命された。マシューズはかつていくつかの「共産主義者戦線組織」のメンバーだったが、1930年代の急進主義的グループへの好意を捨てたあと、彼は熱心な反共産主義者となった。マシューズは叙任されたメソジスト牧師であったため「マシューズ博士」と呼ばれていたが、単位をとってはいなかった。マシューズはのちに「我々の教会の赤たち」という文書のなかでプロテスタントの聖職者内の共産主義への共感を書いたために、何人かの上院議員を怒らせ、退職した。しかしマッカーシーは小委員会と誰を雇うかあるいは雇わないかについて、影響力を維持した。この結果、更に何人かの辞職者が生じた。
上院は1954年12月2日65対22でマッカーシーを「上院に不名誉と不評判をもたらすよう指揮した」として非難した。
マッカーシーの決定的な没落の原因が彼の陸軍への調査であることは確かであるとしても、合衆国上院の何人かのメンバーがマッカーシーに対し1953年のだいぶ前から反対していた事は注目する価値がある。一つの例はマーガレット・チェイス・スミスであり、彼女はメイン州共和党員(そしてそのとき唯一の女性の上院議員)で、1950年6月1日の「良心の宣言」の中でマッカーシーの名を挙げずに(それは上院のルールにより要求されていた)彼のやり方を非難している。六人の上院議員の同僚が彼女に加わっている。
マッカーシーへのもっとも有名な攻撃のひとつは、ジャーナリストのエドワード・R・マローによるテレビのドキュメントシリーズの「今(それを)見よ(See it Now)」の中の一編で、それは1954年3月9日に放映された。ショウのほとんどはマッカーシーの演説のクリップであり、それは否定的反応のほとんどがマッカーシー自身から生まれるようにしたものだった。このクリップの中で、マッカーシーは民主党を「20年間にわたる裏切り」(1933年~1953年)と非難し、陸軍大将を含む証人をどなりつけた。この放送は大衆に大きな反響とマッカーシーへの不信を巻き起こし、反マッカーシー派を勇気づける結果となった。
マッカーシーは大酒飲みで、このことにより多くの記者とのきさくな関係が築かれた。上院での不信任は彼に怒りと落胆をひきおこし、身体を蝕んだ。彼はついに急性肝炎でベセスダ海軍病院で1957年5月2日に死去した。上院の議場で告別式が催され、当時はまれな国葬の栄誉をあずかった。聖マタイ大聖堂はカトリック教会として与えられる最高位をマッカッシーに与え、マッカーシーの棺が安置されたワシントンの葬議場の外には、早朝から深夜まで弔問に訪れた市民3万人が列をなした。ウィスコンシン州アップルトンのセントメアリー墓地に葬られた。妻のジーンと養女のチィアニーが後に残された。
[編集] ベノナ
1995年、ベノナ(ソ連暗号解読プロジェクト)が機密扱いをはずされ、ソ連の暗号通信の内容が明らかになった結果、具体的な数には関係なく、マッカーシーがソ連のスパイ行為を過小に見積っていたことが判明している。ベノナは特にソヴィエトのスパイに色々な方法で協力した合衆国の市民、移民、そして永住者を含む少なくとも349人の人々について言及している。マッカーシーはベノナ秘密情報への接触はなく、彼の情報は他の情報源からだと信じられている(FBIのフーヴァー長官からだという)。
ベノナはマッカーシーにより調査されたある人物達が事実ソ連のスパイであることを明らかにしている。たとえば、メリー・ジェイン・キーニーはマッカーシーにより単に「共産主義者」とされているが、実際には彼女も、その夫もソ連のスパイだった。マッカーシーにより名指しを受けたロークリン・カーリーは、ルーズベルト大統領の特別顧問だったが、ベノナによりソ連のスパイであることが確かめられた。
[編集] マッカーシーへの支持
後世に良く言われるようにマッカッシーが次第に大衆の人気を失っていったというのは間違いである。彼へのバッシングがピークに達し、上院の譴責決議まであと数ヶ月という時のギャラップ世論調査ではマッカッシーの行動への支持率は50%、不支持率は29%で、「どちらでもない」という人を除くと支持率は63%にものぼった。1950年から54年(マッカーシーの反共運動期間)にかけての同調査ではカトリックのマッカッシー支持者が56%、不支持者が29%、プロテスタントの支持者は45%、不支持者は36%であった。
また、上院の譴責決議がなされた年、ハーバード大学で、ある演説者が「そこいらの大学と違ってハーバードからはアルジャー・ヒス(ソ連のスパイという事が判明)やジョー・マッカーシーのような人物を出してないのが自慢だ」という発言をしたのに対しジョン・F・ケネディは「偉大なアメリカの愛国者と売国奴の名をよくも一緒くたにできたものだ!」と激怒しマッカーシーを擁護した。民主党の方針でマッカッシーの譴責決議案に賛成票を投じざるをえなかったケネディはかねてから必要とされていた手術を受けることを口実に、投票を棄権している。
[編集] 著書
- 『共産中国はアメリカがつくった-G・マーシャルの背信外交』"America's Retreat from Victory - The Story of George Catlett Marshall", 1951年
- (本原俊裕訳/副島隆彦監修・解説)『共産中国はアメリカがつくった G・マーシャルの背信外交』(成甲書房, 2005年) ISBN 4880861928
[編集] 外部リンク