ジャン=マリー・バレストル
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ジャン=マリー・バレストル(Jean-Marie Balestre, 1921年4月9日 - 2008年3月27日)は国際自動車連盟(FIA)の元会長。国際自動車スポーツ連盟(FISA)の元会長でもある。フランス・サン=レミ=ド=プロヴァンス出身。
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[編集] 略歴
第二次世界大戦後、自動車ジャーナリストとして雑誌「Auto Journal」を創刊。1950年にフランス自動車スポーツ連盟(FFSA)の設立に関わり、1973年に会長に就任した。1978年、国際自動車連盟の国際スポーツ委員会(FIA-CSI)会長に就任すると組織を改編し、国際自動車スポーツ連盟(FISA)を設立した。
1980年にはF1のグラウンド・エフェクト・カーの可動式スカート規制問題をめぐりFISAとF1製造者協会(FOCA)が対立し、「FISA・FOCA戦争」と呼ばれるF1分裂騒動が発生する。FISAはFOCA系コンストラクターのみが出走したスペインGPを選手権無効レースとし、FOCAは1981年の南アフリカGPを独自開催するなどしたが、両者は1981年3月にコンコルド協定を締結して和解した。
バレストルは1986年にFIA会長にも就任し、車輌安全規格の強化(クラッシュテストの導入)などモータースポーツの安全対策を実施した。1986年には死亡事故が発生した世界ラリー選手権のカテゴリ、グループBを廃止し、1989年にはF1の過給式エンジン使用を禁止した。
1989年の日本GPで、FISAはアラン・プロストと接触したアイルトン・セナを「シケイン不通過」のかどで失格処分とした。バレストルはセナを「危険なドライバー」とみなしスーパーライセンス剥奪を示唆。この一件では「バレストルが同国人のプロストを身びいきしているのでは」という報道もなされた。
1991年にはF1フランスGPの開催地をマニ・クールに変更した(同サーキットはバレストルと関係の深いリジェチームの本拠地に隣接する)。また、当時盛況であった世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)をスポーツカー世界選手権(SWC)としてリニューアルし、それに伴いエンジン規定をF1と共通化するなどレギュレーションを大幅に改訂したところ、参加チームの大幅減少、果てはカテゴリー自体の消滅を招く結果となった。
1991年、バレストルはFISA会長選挙でマックス・モズレーに敗れ、1993年のFIA会長選挙でもモズレーに地位を譲った。モズレーは「FISA・FOCA戦争」においてFOCAのバーニー・エクレストン会長の法律顧問を務めた人物であり、1993年にFISAをFIAの下部組織へ統合した。
その後、バレストルは1996年までFFSAの会長職を務めた。
[編集] 性格
- フランスびいき?
- 略歴の1989年の日本グランプリに関する一件のように、同国人のプロストを身びいきし、セナに対しては厳しい態度を取ることが多かった。
- 1986年イタリアGP後のコンストラクターズ会議にて「1988年からのターボエンジンの過給圧を2.5バールに規制する」という案を緊急動議した。この際、ホンダの桜井淑敏総監督に対し、「(母国フランスの)ルノーはF1に最初にターボエンジンを持ち込んだのに、一度もチャンピオンになれないままF1から(一時)撤退するのに、おまえたちは何度も勝ちやがって」と発言。これに対し桜井は「ルノーの功績は認めるが、それとチャンピオンになれるかどうかは別問題。彼らは技術競争に負けたのだからしょうがない」と反論した。それを聞いたバレストルから「F1にイエローはいらない」という人種差別的暴言が飛び出し問題になった。[1]
[編集] 脚注
- ^ F1速報特別編集F検問題集 ISBN 978-4-89107-487-6