ザカリー・テイラー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ザカリー・テイラー Zachary Taylor |
|
アメリカ合衆国12代大統領
|
|
任期: | 1849年3月5日 – 1850年7月9日 |
---|---|
副大統領: | ミラード・フィルモア |
|
|
出生: | 1784年11月24日 バージニア州バーバースヴィル |
死去: | 1850年7月9日 ワシントンD.C. |
政党: | ホイッグ党 |
配偶: | マーガレット・テイラー |
サイン: |
ザカリー・テイラー(Zachary Taylor, 1784年11月24日 - 1850年7月9日)は、第12代アメリカ合衆国大統領。
在職中に死去した2人目の大統領である。また在任中に死亡した歴代大統領8人の内、20で割り切れない年に選出された(いわゆるテカムセの呪いとは関係なく死亡した)唯一の大統領でもある。「オールド・ラフ・アンド・レディ」(老暴れん坊)として知られていた。(なお日本語では「ザカリー」と表記されることが多いが、英語の発音は「ザッカリー」である。)
目次 |
[編集] 生涯
第4代大統領のジェームズ・マディスンのまた従兄弟であり、ジェファーソン・デイヴィスは義理の息子になる。 テイラーは職業軍人だった。1808年に中尉としての任務から始まり、米英戦争(1812年 - 1815年)、ブラック・ホーク戦争(1832年)および第二次セミノール戦争(1835年 - 1842年)で戦った。ジェームズ・ポーク大統領は、1846年にリオグランデ砦へ彼を派遣した。メキシコ軍がテイラーの軍勢を攻撃した時、テイラーは4対1と数で圧倒されていたにもかかわらず、メキシコ軍を破った。ポークはメキシコに対して宣戦布告した。
メキシコ戦争の英雄として、政党の誘いで大統領に立候補。政治的な野心はなく、大統領選挙人名簿にも登録せず、また、自らに投票さえしなかった。
1850年7月4日、ワシントン・モニュメントでの式典参加後に、テイラーは病気になった。当日は猛暑で、テイラーはキュウリ(さくらんぼとの説もあり)と牛乳を摂りすぎて体調を崩し、五日後に重度の消化不良で死去した。大統領就任の十六ヶ月後であった。彼はケンタッキー州ルイビルに埋葬された。
当初、その死については砒素による毒殺説が根強く、もしもこれが事実であれば、テイラーはエイブラハム・リンカーンに先んじること15年、アメリカ史上初の暗殺された大統領となるところであったが、遥か後年、1991年に至り遺体の学術調査が行なわれた結果、コレラ説が有力となり、その可能性は否定された。
[編集] 内閣
職名 | 氏名 | 任期 |
大統領 | ザカリー・テイラー | 1849 - 1850 |
副大統領 | ミラード・フィルモア | 1849 - 1850 |
国務長官 | ジョン・ミドルトン・クレイトン | 1849 - 1850 |
財務長官 | ウィリアム・メレディス | 1849 - 1850 |
陸軍長官 | ジョージ・ウォーカー・クロウフォード | 1849 - 1850 |
司法長官 | リヴァーディ・ジョンソン | 1849 - 1850 |
郵政長官 | ジェイコブ・コラマー | 1849 - 1850 |
海軍長官 | ウィリアム・プレストン | 1849 - 1850 |
内務長官 | トマス・ユーイング | 1849 - 1850 |
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- White House Biography
- Zachary Taylor State of the Union Address
- Inaugural Address of Zachary Taylor
- Medical and Health history of Zachary Taylor
- プロジェクト・グーテンベルクにおける Zachary Taylorの作品
[編集] 注釈
官職 | ||
---|---|---|
先代: ジェームズ・ポーク |
アメリカ合衆国大統領 1849年3月5日 - 1850年7月9日 |
次代: ミラード・フィルモア |
|
||||||
---|---|---|---|---|---|---|
関連項目 : アメリカ合衆国大統領 - アメリカ合衆国の歴史 - ホワイトハウス - アメリカ合衆国副大統領 | ||||||
|
||||||
※ 名前の前の年号は就任年 |