ジョン・タイラー
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ジョン・タイラー John Tyler |
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アメリカ合衆国10代大統領
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任期: | 1841年4月4日 – 1845年3月4日 |
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出生: | 1790年3月29日 バージニア州グリーンウェイ |
死去: | 1862年1月18日 バージニア州リッチモンド |
政党: | ホイッグ党 |
配偶: | レティティア・クリスチャン・タイラー ジュリア・ガードナー・タイラー |
サイン: |
「バージニアの」ジョン・タイラー(John Tyler, 1790年3月29日 - 1862年1月18日)は、アメリカ合衆国の第10代副大統領および第10代大統領。彼は独立宣言署名後に生まれた二人目の大統領、および大統領の死に際して副大統領から昇格した最初の大統領。
目次 |
[編集] 生い立ちおよび政治経歴
ジョン・タイラーは、1790年にジョン・タイラー(1747年 - 1813年)およびメアリー・アーミステッド夫妻の息子としてバージニア州グリーンウェイで生まれた。父親はバージニア州知事(1808年 - 1811年)で、彼は下院議員職後に知事(1825年 - 1827年)として父親の後を継いだ。
[編集] 大統領職
「偶然内閣」、「継承内閣」と揶揄されたが、その反発から独断専行し、所属のホイッグ党の政策に従わず除名された。
[編集] 内閣
職名 | 氏名 | 任期 |
大統領 | ジョン・タイラー | 1841 - 1845 |
副大統領 | なし | |
国務長官 | ダニエル・ウェブスター | 1841 - 1843 |
エイベル・アップシャー | 1843 - 1844 | |
ジョン・カルフーン | 1844 - 1845 | |
財務長官 | トマス・ユーイング | 1841 |
ウォルター・フォワード | 1841 - 1843 | |
ジョン・カンフィールド・スペンサー | 1843 - 1844 | |
ジョージ・ビブ | 1844 - 1845 | |
陸軍長官 | ジョン・ベル | 1841 |
ジョン・カンフィールド・スペンサー | 1841 - 1843 | |
ジェイムズ・マディソン・ポーター | 1843 - 1844 | |
ウィリアム・ウィルキンス | 1844 - 1845 | |
司法長官 | ジョン・クリッテンデン | 1841 |
ヒュー・スウィントン・レグリー | 1841 - 1843 | |
ジョン・ネルソン | 1843 - 1845 | |
郵政長官 | フランシス・グレンジャー | 1841 |
チャールズ・アンダーソン・ウィックリフ | 1841 - 1845 | |
海軍長官 | ジョージ・バジャー | 1841 |
エイベル・アップシャー | 1841 - 1843 | |
デイヴィッド・ヘンショウ | 1843 - 1844 | |
トマス・ギルマー | 1844 | |
ジョン・ヤング・メイソン | 1844 - 1845 |
[編集] 結婚と家族
ジョンは、1813年3月29日にレティティア・クリスチャンと結婚した。彼らは8人の子供をもうけた: 歴代大統領の中で一番子供が多い。
- メアリー・タイラー (Mary Tyler, 1815年4月15日 - 1847年6月17日)
- ロバート・タイラー (Robert Tyler, 1816年9月9日 - 1877年12月3日) 彼の妻エリザベス・プリシラ・クーパーは、ファースト・レディーを務めた。
- ジョン・タイラー (John Tyler, 1819年4月17日 - 1896年1月26日)
- レティティア・クリスチャン・タイラー (Letitia Christian Tyler, 1821年5月11日 - 1907年12月28日)
- エリザベス・タイラー (Elizabeth Tyler, 1823年7月11日 - 1850年6月1日)
- アン・コンテッセ・タイラー (Anne Contesse Tyler, 1825年4月5日 - 1825年7月)
- アリス・タイラー (Alice Tyler, 1827年3月23日 - 1854年6月8日)
- タッツウェル・タイラー (Tazewell Tyler, 1830年12月6日 - 1874年1月8日)
レティティアはファースト・レディーを務めたが、1842年9月10日に死去した。ジョンは二年間独身で過ごした。彼の義理の娘エリザベス・プリシラ・クーパーはこの期間の間ファースト・レディーを務めた。その後、ジョンは1844年6月26日にジュリア・ガードナーと再婚した。彼は在職中に結婚した初めての大統領だった。彼らは7人の子供をもうけた。
- デービッド・ガードナー・タイラー (David Gardiner Tyler, 1846年7月12日 - 1927年9月5日)
- ジョン・アレグサンダー・タイラー (John Alexander Tyler, 1848年4月7日 - 1883年9月1日)
- ジュリア・ガードナー・タイラー (Julia Gardiner Tyler, 1849年12月25日 - 1871年5月8日)
- ラクラン・タイラー (Lachlan Tyler, 1851年12月2日 - 1902年1月26日)
- ライアン・ガードナー・タイラー (Lyon Gardiner Tyler, 1853年8月24日 - 1935年2月12日)
- ロバート・フィッツワルター・タイラー (Robert Fitzwalter Tyler, 1856年3月12日 - 1927年12月31日)
- パール・タイラー (Pearl Tyler, 1860年6月20日 - 1947年6月30日)
[編集] 大統領職後
1861年2月、タイラーはワシントン講和会議の議長を務めるため再び公的生活に入る。会議は内戦を回避するための妥協が求められた。一方モンゴメリー会議ではアメリカ連合国憲法が採択された。上院が彼の提案を拒絶すると、タイラーはバージニア州の即時脱退を促した。
1861年のアメリカ連合国臨時議会に参加した後、彼は南部連邦の下院議員に選任されたが、就任前に気管支炎で死去した。アメリカ南部連邦をアメリカ合衆国と見なさない場合、彼は外国で死去した唯一の大統領経験者であるかもしれない。彼の最後の言葉は「たぶんそれが一番良いだろう。」であった。タイラーはヴァージニア州リッチモンドのハリウッド墓地に埋葬された。テキサス州タイラーは彼に因んで命名された。
[編集] 外部リンク
- Official Whitehouse biography
- U.S. Senate Historian's Office: Vice Presidents of the United States--John Tyler
- Tyler's letters refusing government intervention, April and May, 1842
- プロジェクト・グーテンベルクにおける John Tylerの作品
- List of Descendants
- First State of the Union Address
- Second State of the Union Address
- Third State of the Union Address
- Fourth State of the Union Address
- John Tyler's Health and Medical History
- Hollywood Cemetery - John Tyler's final resting place
官職 | ||
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先代: リチャード・メンター・ジョンソン |
アメリカ合衆国副大統領 1841年3月4日 - 1841年4月4日 |
次代: ジョージ・ダラス |
先代: ウィリアム・ヘンリー・ハリソン |
アメリカ合衆国大統領 1841年4月4日 - 1845年3月4日 |
次代: ジェームズ・ポーク |
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関連項目 : アメリカ合衆国大統領 - アメリカ合衆国の歴史 - ホワイトハウス - アメリカ合衆国副大統領 | ||||||
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※ 名前の前の年号は就任年 |
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関連項目 : アメリカ合衆国副大統領 - アメリカ合衆国の歴史 - ホワイトハウス - アメリカ合衆国大統領 | ||||||
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※ 名前の前の年号は就任年 |