ジョン・クリッテンデン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョン・ジョーダン・クリッテンデン(John Jordan Crittenden , 1786年9月10日 - 1863年7月26日)は、アメリカ合衆国の政治家。第15代および第22代アメリカ合衆国司法長官を務めた。
[編集] 生い立ちと初期の経歴
1786年9月10日、クリッテンデンはバージニア州西部(現在のケンタッキー州ヴァーセイルズ近郊)において誕生した。父親は大陸軍の退役兵ジョン・リー・クリッテンデン、母親はジュディス・ハリス (Judith Harris 1765-1813) であった。クリッテンデンはワシントン大学(現在のワシントン・アンド・リー大学)で学び、1806年にウィリアム・アンド・メアリー大学を卒業した。その後クリッテンデンは法律を学び、1807年に弁護士として認可を受けた。クリッテンデンはケンタッキー州ウッドフォード郡で弁護士業を開業した。
クリッテンデンは1809年から1810年までイリノイ準州で検事総長を務めた。クリッテンデンは米英戦争の期間中、州知事の補佐官を務めた。クリッテンデンは米英戦争終戦後、ケンタッキー州ルイビルで弁護士業を再開した。
[編集] 政治生活
クリッテンデンは1811年から1817年までケンタッキー州下院議員を務め、1816年からは同議長も務めた。クリッテンデンは1817年3月4日に連邦上院議員に選任された。クリッテンデンは連邦上院において司法委員会委員長を務めた。クリッテンデンは1819年3月3日に連邦上院議員を辞職した。
クリッテンデンは連邦上院議員を退いた後、ケンタッキー州フランクフォートに移住した。クリッテンデンは1825年にケンタッキー州下院議員を務め、1827年に連邦地方検事に指名承認された。1828年にはジョン・クインシー・アダムズ大統領から連邦最高裁の陪席判事に指名を受けたが、連邦上院から承認を拒否された。クリッテンデンは1829年にアンドリュー・ジャクソン大統領によって連邦地方検事の職を降ろされたた。クリッテンデンは1829年から1832年まで再びケンタッキー州下院議員を務め、1835年3月4日にホイッグ党から再び連邦上院議員に選任された。クリッテンデンは1841年3月3日の任期満了まで連邦上院議員を務めた。
クリッテンデンは1841年3月にウィリアム・ハリソン大統領から司法長官に指名された。クリッテンデンは同年9月まで半年間、司法長官を務めた。その後1842年3月31日、クリッテンデンは空席充当のため再び連邦上院議員に選任された。クリッテンデンは連邦上院議員を1848年6月12日に辞職した。クリッテンデンは連邦上院において軍事委員会に参加した。
クリッテンデンは1848年にケンタッキー州知事に選出された。1850年、クリッテンデンはミラード・フィルモア大統領から再び司法長官に指名され、州知事を辞職した。クリッテンデンは1850年7月から1853年3月まで司法長官を務めた。1855年3月4日、クリッテンデンは再び連邦上院議員に選任され、1861年3月3日の任期満了まで連邦上院議員を務めた。
クリッテンデンは1861年3月4日から1863年3月3日まで連邦下院議員を務めた。そして1863年7月26日、クリッテンデンはケンタッキー州フランクフォートにおいて死去した。クリッテンデンの遺体はフランクフォート市内の州立墓地に埋葬された。
[編集] 外部リンク
- Biographical Directory of the United States Congress - アメリカ合衆国議会の人名辞典サイト[1]内の、ジョン・クリッテンデンの項目(英語)
官職 | ||
---|---|---|
先代: ヘンリー・ギルピン |
アメリカ合衆国司法長官 1841年3月5日 - 1841年9月12日 |
次代: ヒュー・スウィントン・レグリー |
先代: ウィリアム・オウスリー |
ケンタッキー州知事 1848年9月6日 - 1850年7月13日 |
次代: ジョン・ラルー・ヘルム |
先代: リヴァーディ・ジョンソン |
アメリカ合衆国司法長官 1850年7月22日 - 1853年3月4日 |
次代: ケイレブ・クッシング |