ジェファーソン・デイヴィス
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ジェファーソン・デイヴィス Jefferson Davis |
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アメリカ連合国唯一の歴代大統領
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任期: | 1861年2月18日 – 1865年5月10日 |
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副大統領: | アレクサンダー・スティーヴンズ |
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出生: | 1808年6月3日 ケンタッキー州クリスチャン郡 |
死去: | 1889年12月6日 ルイジアナ州ニューオーリンズ |
政党: | 南部民主党 |
配偶: | ヴァリナ・ホーウェル |
ジェファーソン・デイヴィス (Jefferson Davis, 1808年6月3日 - 1889年12月6日) は、アメリカ合衆国の軍人および政治家。下院議員およびフランクリン・ピアース内閣での陸軍省長官。彼は南北戦争におけるアメリカ連合国の唯一の大統領。
目次 |
[編集] 生い立ちおよび軍歴
ジェファーソン・デイヴィスは1808年6月3日に、ケンタッキー州トッド郡との境界の近く、クリスチャン郡の農場で生まれた。彼はサミュエル・エモリー・デイヴィスの10人の子供の末っ子で、母親のジェーンは裕福な家庭の出であった。祖父はウェールズからアメリカ合衆国に移住し、バージニア州とメリーランド州で官吏として暮らした。彼の父親と伯父はアメリカ独立戦争に於いて大陸軍に加わり、父親はジョージア州騎兵隊に所属、サヴァナの戦いでは歩兵士官として戦った。彼の兄も独立戦争に貢献した。米英戦争では彼の兄弟の内の三人がイギリスと戦い、二人はニューオーリンズの戦いでの功績をアンドリュー・ジャクソンによって称えられた。
彼の幼年時代に一家は数回転居した。1811年にルイジアナ州セント・メアリー・パリッシュに移り住み、翌年にはミシシッピ州ウィルキンソン郡へ転居した。
1813年にデイヴィスは姉のメアリーと共に自宅から1マイルほど離れた丸太小屋の学校に通い始めた。彼は二年後にケンタッキー州ワシントン郡の聖トマス・アクィナスのカトリック神学校に入学した。彼は1818年にミシシッピ州ワシントンのジェファーソン・カレッジに進学し、1821年にはケンタッキー州レキシントンのトランシルヴァニア大学に入学した。1824年にはニューヨーク州ウェストポイントのアメリカ陸軍士官学校に士官候補生として入学した。
デイヴィスはウェストポイントで4年の任期を全うして卒業し、1828年6月に少尉として任官した。彼は第1歩兵師団に配属され、フォート・クロフォードに配置された。彼の最初の任務は1829年に、砦の修理および拡張のためにレッド・リバー堤防の材木切断を監督することであった。同年彼はウィスコンシン州フォート・ウィネベーゴに転属となる。1831年にイエロー・リバーの製材工場の建設および監督の間に肺炎に罹患し、彼はフォート・クロフォードに戻ることとなった。
[編集] 退役と政治活動
デイヴィスは1834年に、所属連隊長であったザカリー・テイラー大佐(のち第12代アメリカ合衆国大統領)の娘と恋愛関係なったが、ザカリー・テイラーに結婚を反対された。そのため、1835年に軍を除隊し、ケンタッキー州ルイビル近くの叔母の家でテイラー嬢と結婚した。しかしながら、夫妻はまもなくマラリアにかかり、夫人は新婚3ヶ月で死亡した。
1843年から、デイヴィスは民主党から政治活動に入り(兄の死によって後を継いだとも言われる)、ミシシッピ州で連邦下院議員に立候補したが、このときは落選した。1844年の選挙では当選し、連邦下院議員となった。1845年には社交界の花形であったヴァリナ・ハウエルと再婚した。
[編集] 2度目の軍役
1846年に米墨戦争が勃発すると、デイヴィスは下院議員を辞職し、義勇兵連隊(ミシシッピ・ライフル連隊)を組織し、その連隊長となった。この連隊は(当時新兵器であった)雷管銃を装備し、十分な訓練によって戦闘能力の高い部隊として注目された。
デイヴィスと彼の連隊は、同年9月にモンテレー包囲戦に参加した。翌年2月の、ブエナ・ビスタの戦いでは勇敢に戦い、足に銃創を負った。総司令官であったテイラー将軍(デイヴィスの元義父)は、彼の勇気と積極性を評価して「娘は、私よりも勇敢な男を見る目があった」と評した。
ポーク大統領は、ディヴィスを連邦軍准将に昇進させ州兵旅団長に任命しようとしたが、彼は合衆国憲法が州兵将校の任命権は連邦政府ではなく州政府にあると定めているとして、この昇進を断った。ミシシッピ州知事は、デイヴィスの戦功を理由として、彼をジェシー・スパイトの死去によって空席となっていた連邦上院議員に指名した。彼は1847年12月に連邦上院議員となり、翌年1月の選挙で正式に議員となった。
[編集] 政治活動への復帰
デイヴィスは、上院軍事委員会の委員長に就任した。彼は上院議員に再選されたが、1年もたたない1851年9月にミシシッピ州知事選挙に出馬するため議員を辞職した。しかし、知事選挙には999票差で敗れた。彼はポストを失った後も政治活動を続け、1852年の大統領選挙では民主党の候補であるフランクリン・ピアースのために、南部諸州で選挙活動を行った。
ピアースは大統領に当選すると、デイヴィスを陸軍長官に任命した。1857年の大統領選挙ではピアースに代わりジェームズ・ブキャナンが民主党の大統領候補となり(当選したが)、デイヴィスは内閣には留まらず、上院議員選に立候補して当選した。
1858年から1859年にかけてデイヴィスは健康を害し、北東部で静養していたが、その間に何度か議会外で、南部の分離運動に反対する演説を行っている。
1860年には、(反奴隷制派政権の誕生への奴隷制維持派の危機感の高まりから)南部での分離運動はさらに強くなり、現実に共和党(反奴隷制派)の候補であったリンカーンが大統領に当選すると、サウスカロライナ州は連邦からの分離を宣言した。デイヴィスは、南部諸州が分離することが必要とは考えなかったが、憲法上の理由から各州が連邦から分離する権利を認めたようである。1861年1月、デイヴィスは連邦上院において、ミシシッピ州代表として連邦からの分離を宣言し、決別演説を行って議員を辞職した。
[編集] 大統領職
議員辞職の4日後、デイヴィスはミシシッピ州兵の少将に任命された。1861年2月9日、アラバマ州モンゴメリーにあった分離諸州の憲法制定会議は、彼をアメリカ連合国(南部)の暫定大統領に指名し、彼は2月18日にこれを受諾した。デイヴィスはミシシッピ州議会で分離に反対の意見を述べたが、多数が分離賛成であることを見て多数意見に従うことにした。また、デイヴィスは大統領に指名されるとは予想しておらず、過去の経歴を生かせる、陸軍長官か将軍のポストを希望していた。
デイヴィスは直ちにワシントンへ平和的な分離の達成、南部領域の連邦資産の買い取り、連合国政府の承認などを求めて使節団を派遣した。一方では、P.G.T.ボールガール将軍を、サウスカロライナ州チャールストン周辺の部隊の司令官に任命し、ついでボールガールにチャールストン港内のサムター要塞接収を命じて事実上南北戦争の口火を切った(4月12日のサムター要塞の戦い)。連合国の首都は1861年5月にヴァージニア州リッチモンドに移り、デイヴィスと彼の家族は5月29日に大統領官邸に入った。
デイヴィスは11月の選挙で、任期6年の大統領に正式に当選した。彼は、それまで選挙で当選した職で一度も任期を全うしたことがなかったが、このときも(アメリカ連合国の消滅により)任期を全うすることは出来なかった。
1862年2月22日に正式大統領に就任。6月1日に、ロバート・E・リー将軍を北バージニア軍(連合国の東部戦域における主力軍)司令官に任命した。また、12月には西部地方の軍隊への視察をおこなった。1863年8月、ゲティスバーグの戦いで敗北したリー将軍は辞任を申し出たが、デイヴィスは却下した。1864年には戦況は連合国にとって最悪の状況となり、デイヴィスは士気高揚のため、ジョージア州で遊説をおこなった。
デイヴィスは、彼の行なった連合国の戦争指導について批判を受けている。彼は、戦争末期まで総司令官を任命しようという周囲の働きかけを拒否し続け、彼自身でその任務を遂行した。1865年1月31日にリーが総司令官に任命されたが、このときには成功の可能性のある戦略を策定するにはすでに手遅れであった。彼自身もウェストポイント出身の優れた将官だったのだが健康に問題を抱えており、また大統領として他の仕事も山積しており戦争指導者として強力に戦争を指導したとは言いがたいだろう。
また、彼は連合国のすべての拠点に、同程度の防衛努力をおこなうという戦略方針を遂行したことにも責任を問われた。この戦略は、連合国の限られた戦争資源を薄くばらまくことになり、結果として西部にある戦略的重要拠点が、合衆国軍の戦力を集中させた攻撃にさらされることとなった。ただし、南部連合と言う特殊な国の大統領を務めていた事情を考えればこれはある意味仕方のない選択でもあった。南軍と北軍を比べた場合、南軍は「軍隊」と言うより「郷土防衛軍」と言う存在に近かったのだ。例えばリー将軍の場合などはバージニア州出身の将軍がバージニア州やノース・カロライナ州出身の兵を指揮してバージニア及びノース・カロライナ周辺でバージニア州などに侵攻してくる北軍と戦っていたのである[1]。逆に北軍の場合は攻勢に回ることの方が多かったのでこれはあまり大きな問題にはならなかった。
他の戦線でも多かれ少なかれこの傾向は見られ、大規模な配置転換や一部の拠点を見捨てると言うような事は非常に行いにくかったのだ。もし特定の部隊が所属する州を見捨てるような配置転換を強行したら(もしくは強行しようとしたら)その州が連合国から脱退する可能性すらあったのだ。西部戦線の要所だったヴィックスバーグが陥落寸前だった時、状況を改善するため南軍司令部はリー将軍の北バージニア軍から部隊を抽出して援軍として派遣しようとリー将軍に何度か掛け合ったが正面に位置する北軍の数的優勢を盾にリー将軍は援軍派遣を拒否し続けた。それどころかリーはデイヴィスに「北部勢力圏内で会戦に勝利することができれば西部戦線の危機も解決できる」と力説し、デイヴィスに北部進撃を認めさせている。結局南軍司令部が北バージニア軍から1個軍団抽出して西部戦線に派遣できたのはリーがゲティスバーグで敗北し、ヴィックスバーグが陥落した後だった。
ちなみにこの時西部戦線に派遣されたロングストリート将軍率いる1個軍団は北軍のウィリアム・ローズクランツ将軍率いるカンバーランド軍と南軍のブラッグストン・ブラッグ将軍が率いるテネシー軍が激突したチカモーガの戦いに間に合い、ロングストリート将軍の指揮の妙もあり大いに活躍した。この戦いで完敗を喫した北軍はチャタヌーガに向けて敗走する事となるがブラッグ将軍が敵を迅速に追撃せず、また特にミスを犯していない部下の将軍を3人も罷免するなどと言うことを行ったため[2]部下の信望を失う事となった。
また、野戦軍の指揮官人事についても大きな失策をおこなっている。彼は、個人的に親しいブラッグストン・ブラッグ将軍を(米墨戦争時からの付き合いがあった)、重要な会戦で大失策を犯して部下の司令官たちの信頼を失っているにもかかわらず、交代させることを拒否し[3]、一方では、有能だが自分に対して批判的なジョゼフ・E・ジョンストン将軍を更迭して、代わりに無謀なところのあるジョン・ベル・フッド将軍をテネシー軍司令官に任命した[4]。後者は、アトランタの失陥とテネシー軍の壊滅という無残な結果を導くこととなった。アトランタ失陥に関しては北軍の物量に圧倒されたと言う側面が強いので誰が指揮を執っていても最終的には陥落していた可能性が高いが、無謀な攻撃を繰り返してテネシー軍を疲弊させ最終的にナッシュビルの戦いで壊滅させた責任は間違いなくフッドのものだった。その後テネシー軍は一応再建されたが補充された将兵の大半は民兵上がりの年配者か銃を撃ったことすらないような若年兵ばかりであり、更迭されたフッドに代わって再度テネシー軍の司令官に任命されたジョンストン将軍は「シャーマン将軍率いる北軍を撃破せよ」と命令された時「(このような軍では)彼(シャーマン)を多少悩ます程度しかできません」と答えている。
1865年4月3日、ユリシーズ・S・グラント中将指揮下の合衆国軍によるリッチモンド占領が目前となると、デイヴィスは閣僚たちと共にリッチモンド=ダンヴィル鉄道を利用し、ヴァージニア州ダンヴィルに逃れた。追いつめられた首脳たちはW.T.スサーリン少佐邸に滞在した。デイヴィスはこの邸宅で連合国大統領としての最後の布告を書いた。ダンヴィル到着から6日後、彼はノースカロライナ州グリーンスボロに移動した。4月16日には、ミシシッピ州メリディアンへ脱出しようとしたが、5月10日にジョージア州アーウィンヴィルで、郵政長官ジョン・レーガン、前テキサス州知事フランシス・ラボックと共に逮捕された。
[編集] 内閣
職名 | 氏名 | 任期 |
大統領 | ジェファーソン・デイヴィス | |
副大統領 | アレクサンダー・スティーヴンズ | 1861 - 1865 |
国務長官 | ロバート・トゥームズ | 1861 |
ロバート・ハンター | 1861 - 1862 | |
ジュダ・ベンジャミン | 1862 - 1865 | |
財務長官 | クリストファー・メミンジャー | 1861 - 1864 |
ジョージ・トレンホルム | 1864 - 1865 | |
ジョン・レーガン | 1861 - 1865 | |
陸軍長官 | リロイ・ポウプ・ウォーカー | 1861 |
ジュダ・ベンジャミン | 1861 - 1862 | |
ジョージ・ランドルフ | 1862 | |
グスタヴス・スミス | 1862 (Acting) | |
ジェイムズ・セードン | 1862 - 1865 | |
ジョン・ブレッキンリッジ | 1865 | |
海軍長官 | スティーヴン・マロリー | 1861 - 1865 |
郵政長官 | ジョン・レーガン | 1861 - 1865 |
司法長官 | ジュダ・ベンジャミン | 1861 |
トマス・ブラッグ | 1861 - 1862 | |
トマス・ワッツ | 1862 - 1864 | |
ジョージ・デイヴィス | 1864 - 1865 |
[編集] 収監と引退
1865年5月19日にデイヴィスはヴァージニア海岸にあるフォート・モンローの穹窖砲台に収監された。彼は三日間足かせを付けられた。一年後に反逆罪で起訴される。収監中ディヴィスは自らの元奴隷であったベン・モンゴメリーにミシシッピの自宅を売却するように手配した。
翌年、2年間におよんだ監禁の後に、彼はホーレス・グリーリー、コーネリウス・ヴァンダービルト、ガーリット・スミスを含む北部、南部州の著名な国民によって支払われた保釈金により釈放された。釈放後デイヴィスはカナダ、キューバおよびヨーロッパを訪れた。1868年12月に法廷は起訴を無効にする動議を拒絶した。しかし検察当局は1869年2月に訴訟を取り下げた。
1869年にデイヴィスはテネシー州メンフィスのカロライナ生命保険会社の社長に就任した。1870年のロバート・E・リーの死に際してデイヴィスはリッチモンドで行われた追悼集会の司会を務めた。その後再び上院議員に選出されたが、憲法修正第14条によって連邦政府から除外され、1875年にその職を拒絶した。
1876年に彼は対南米貿易奨励協会を発足させた。翌年デイヴィスはイギリスを訪れ、1878年に帰国しミシシッピ州の「ボーヴォワール」に向かい三年をそこで過ごす。そこで生活する間にデイヴィスは『The Rise and Fall of the Confederate Government』の執筆を始める。執筆が終わると彼は再びヨーロッパを訪れ、翌年アラバマ州、ジョージア州に旅行した。
彼は1889年10月に『A Short History of the Confederate States of America』の執筆を完了した。ジェファーソン・デイヴィスは1889年12月6日に81歳でニューオーリンズで死去した。彼の葬儀はそれまで南部で行なわれた葬儀の中で最大のもののうちの一つであり、葬列はニューオーリンズからリッチモンドまで続いた。彼はバージニア州リッチモンドのハリウッド墓地に埋葬された。
1978年には彼の米国市民権が議会によって回復された。
[編集] トリビア
奴隷制堅持を標榜するアメリカ連合国の大統領だったのにも関わらず、実は黒人の養子(Jim Limber Davis)がいた。彼はデイヴィスが北軍によって逮捕されたときに北部に連れ去られしまい、消息不明となってしまった。
[編集] 注釈
- ^ ゲティスバーグやメリーランド州侵攻など少数の例外を除けば北バージニア軍は常に守勢に立って戦っていた。
- ^ ミスを犯したのは総指揮を取ったブラッグの方であり、部下の将軍達ではなかった。この時罷免された3人がすぐ復職している事からもそれは明らかであろう。結局このせいでロングストリート将軍も反ブラッグ派となってしまった。
- ^ チカモーガの戦いの後ブラッグは北軍を追撃しチャタヌーガに篭ったカンバーランド軍を包囲したまでは良かったのだが北軍が手早く対応したせいもあり包囲されているカンバーランド軍より包囲してる側のテネシー軍の方が飢えが深刻だと言う状況に陥ってしまう。低下する士気をなんとか鼓舞するためにデイヴィスはこの戦線を訪れたのだがそこでロングストリート等にブラッグを更迭するように求められたのだ。この時はデイヴィスはブラッグを更迭することを拒否しているが、その後に行われたミッショナリー・リッジの戦いでブラッグが完敗を喫したためついに彼を罷免し、代わりにジョゼフ・E・ジョンストン将軍をテネシー軍司令官に任命している。
- ^ ブラッグの後を継いだジョンストンはシャーマン将軍率いる北軍の矢面に立たされる事となった。テネシー軍は物量でも兵力でも完全に圧倒されていたためジョンストンは会戦を避けつつなんとかアトランタ失陥を防ごうとしていたのだがその消極的な態度が嫌われ、積極的な(と言うより積極的なだけの)フッドが代わりに任命されたのだ。
[編集] 外部リンク
- プロジェクト・グーテンベルクにおける Jefferson Davisの作品
- The Papers of Jefferson Davis at Rice University
- Biography of Jefferson Davis
- Biography and Pictures
- Extensive Biography from public domain 1911 Encyclopædia Britannica
- Jefferson Davis' final resting place
官職 | ||
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先代: チャールズ・マギル・コンラッド |
アメリカ合衆国陸軍長官 1853年 - 1857年 |
次代: ジョン・ブキャナン・フロイド |
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アメリカ連合国大統領 1861年 - 1865年 |
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