エゴン・クレンツ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エゴン・クレンツ Egon Krenz |
|
|
|
任期: | 1989年10月18日 – 1989年12月3日 |
---|---|
|
|
出生: | 1937年3月19日 ドイツ・コルベルク(現ポーランド領) |
政党: | ドイツ社会主義統一党 |
共産主義思想 国際組織 人物 出来事 |
エゴン・クレンツ(Egon Krenz, 1937年3月19日 - )は、元東ドイツの国家評議会議長でドイツ社会主義統一党書記長。
目次 |
[編集] プロフィール
[編集] 生い立ち・FDJ
ポンメルンのコルベルク(現在のポーランド領コウォブジェク)で生まれる。父は仕立て屋。第二次世界大戦末期の1944年に一家は戦火を避けダムガルテン(現:メックレンブルク=フォアポンメルン州)に移住。1953年、東ドイツの支配政党ドイツ社会主義統一党(SED)の青年団組織である自由ドイツ青年団(FDJ)に加入、1955年にドイツ社会主義統一党に入党。機械工の修業をしていたが辞めて学業に転じ、1957年に国家教員免許を取得して卒業。卒業と同時に兵役に従事し、1958年には兵士代表として第5回党大会に参加している。
兵役終了後、リューゲン地区のFDJ第一書記、次いで1960年からロストック地区のFDJ第一書記を歴任。1961年にFDJ中央委員会書記に就任し、大学など高等教育機関での党活動の責任者になった。1964年から1967年までモスクワにあるソビエト共産党の党中央委員会学校に留学し、社会学学士号を取得。次いでFDJ中央委員会宣伝担当書記に就任し学校における党の宣伝活動に従事(‐1974年)。同時期ピオネール団「エルンスト・テールマン」の代表を兼任。1971年、人民議会議員に選出、議会委員に就任。1973年、SED党中央委員に選出。1974年にはFDJ中央委員会第一書記となり東ドイツ唯一の公的青年団組織を指導する立場になった。1981年には国家評議会委員に選出され、さらに1983年には党中央委員会政治局員に選出。1984年には国家評議会副議長に選出され、議長であるエーリッヒ・ホーネッカーに次ぐ地位に昇りつめた。そもそもFDJはホーネッカーが設立した組織であり、その生え抜きであるクレンツは「ホーネッカーの秘蔵っ子」と言えた。
[編集] 書記長就任
1989年、クレンツは中央選挙管理委員会委員長として地方選挙の不正の責任者となった。同年6月に起きた天安門事件については「秩序を維持するために何か行われたようだ」と述べた。しかし1980年代半ばに指導者の地位に就いたミハイル・ゴルバチョフの指導の下始まった、ソビエト連邦の民主化(ペレストロイカ)の影響は、東ドイツも避けて通らなかった。民主化運動が頻発したが、クレンツは党若手として穏和な手段での対処を主張した。政治局員の圧力で1989年10月18日に辞任したホーネッカーの後を継いで、社会主義統一党書記長に就任した。10月24日には国防委員長も兼任。思うところがあったのか、妻子を連れて東ベルリン郊外にある政治局員専用の団地から引っ越した。
[編集] ベルリンの壁崩壊
就任後は社会主義政権の枠内での緩やかな民主化を図ろうとしたものの、早急な民主化を訴える国民の要求に答える形で、11月9日には東西ドイツを自由に旅行できるよう海外旅行自由化法を制定。即日公布・施行した。(但し、報道への発表は11月10日の朝を予定していた。 )
旅行自由化法は実際は旅行ビザの発給を大幅に緩和する法律であり、越境にはあくまで正規の旅行ビザが必要であったが、9日に行われた記者会見で東ドイツ政府のスポークスマンで社会主義統一党政治局員のギュンター・シャボウスキーが、「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と誤って発表したために、多くの東ベルリン市民がベルリンの壁周辺の検問所に多数詰めかけ、検問所の国境警備隊も発表をそのまま受け検問所を開放したために、東ベルリン市民をはじめとする東ドイツ国民は東西ドイツ間を自由に行き来するようになった。
これがきっかけになり、最初は東西ベルリン市民によって、後に東ドイツ政府によって正式にベルリンの壁が撤去され、ベルリンの壁崩壊が実現することになった。そして東西ドイツは1990年10月のドイツ再統一へと向かう。
[編集] ドイツ再統一後
その後12月3日に中央評議会政治局は解散し、それに伴いクレンツも6日に辞任しマンフレート・ゲルラッハにその座を譲った。1990年1月には長年務めた人民議会議員を辞職、更に民主社会党(PDS)と改名した社会主義統一党からも除名された。
しかし統一後に、東ドイツ時代のベルリンの壁における越境者射殺と不正選挙の責任を問われ起訴された。再審が繰り返された長い裁判の結果最終的にドイツ連邦最高裁判所においてクレンツをはじめ他の2名に対し6年半の懲役が下され、1999年から2003年にかけてシュパンダウ刑務所で服役した。服役中も昼間は外出が許されており、ベルリン・テーゲル国際空港でロシア向けの航空機ビジネスをしていた。彼は1997年に「壁」の犠牲者に対し遺憾の意は表明したが、自己の責任については否定を続けている。
現在クレンツはメックレンブルク・フォアポンメルン州に住んでいる。クレンツの東ドイツ時代の旧友の一人に、アメリカから東ドイツに亡命したミュージシャン・俳優のディーン・リード(1986年に自殺)がいるが、最近リードの生涯の映画化を計画している俳優のトム・ハンクスがたびたびクレンツを訪問していると伝えられている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Lebendiges virtuelles Museum Online経歴紹介(ドイツ語)
|
|
|
|
|