ウォーターゲート事件
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ウォーターゲート事件(Watergate Scandal, もしくは単に"Watergate")とは、1970年代に起きたアメリカの政治スキャンダル。リチャード・ニクソン大統領の辞任に結びついた。事件は、ニクソン政権の野党だった民主党本部があるウォーターゲート・ビル(ワシントンD.C.)に、不審者が盗聴器を仕掛けようと侵入したことから始まった。当初ニクソン大統領とホワイトハウスのスタッフは「侵入事件と政権とは無関係」との立場をとったが、ワシントン・ポストなどの取材から次第に政権の野党盗聴への関与が明らかになり、世論の反発によって合衆国史上初めて現役大統領が任期中に辞任に追い込まれる事態となった。
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[編集] 事実の経緯
[編集] 不法侵入
1972年6月17日、ワシントンD.C.のウォーターゲート・ビルで働く警備員フランク・ウィルズは、建物の最下部階段の吹き抜けと駐車場の間のドア上に奇妙なテープが貼られているのに気付いた。ウィルズは、このテープはドアの鍵がロックされないようにするためのもので、清掃員が作業の過程で貼ったと考えて一旦はぎ取ったが、すぐさま何者かによってテープが貼り直されており、不審に思った彼は、ワシントン市警に通報した。
警察の到着後、同ビルに入居していた民主党全国委員会本部オフィスへの不法侵入の罪で、5人の男が現行犯逮捕された。5人とは、バーナード・バーカー、バージリオ・ゴンザレス、ユージニオ・マルチネス、ジェームズ・W・マッコード・ジュニアおよびフランク・スタージスである。いくつかの証拠写真から彼らは3週間前にも同オフィスへ侵入しており、今回の侵入は正常に動作していなかった盗聴器を再設置するためのものであったことが判明した。
二度も同じオフィスへ侵入しなければならなくなったことは、侵入犯側の多くのミスの最たるものであったが、さらに致命的なミスとなったのは、警察が押収したマッコードの手帳の中にエドワード・ハワード・ハントのホワイトハウス内の連絡先電話番号が見つかったことであった。ハントはニクソン大統領再選委員会(Committee to Re-elect the President, CREEPまたはCRP)で以前働いていたことがあり、侵入犯がニクソン大統領に近い誰かと関係があることを示唆するに十分であった。ニクソン大統領のロナルド・ジーグラー報道担当官は、「三流の盗み(third rate burglary)」とのコメントを発し、ホワイトハウスとは無関係であるとして一蹴した。
[編集] 「ディープ・スロート」
審問の過程で、マッコードがCIAの元局員で大統領再選委員会の警備主任であったことが判明する。ワシントン連邦地方検事局(アール・J・シルバート主任検事補ほか)はマッコードとCIAの関係の調査を始め、彼が大統領再選委員会から賃金を受取っていることを発見する。同じ頃、ワシントン・ポストの記者ボブ・ウッドワードは同僚カール・バーンスタインと共に独自に調査を始め、事件に関する様々な事実を紙面に発表した。その内容の多くはFBIおよび他の政府調査官には既に知られていたものではあったが、ウォーターゲート事件に対する世間の注目を集めることとなり、ニクソン大統領とその側近を窮地に立たせる結果となった。ウッドワードに「ディープ・スロート」と名づけられた内部情報提供の中心的人物(当時のFBI副長官であったマーク・フェルト。2005年5月31日に本人が告白)との関係は、この事件のまた別のミステリーとなった。
[編集] 捜査妨害
ニクソン大統領とハリー・ロビンス・ハルデマン大統領首席補佐官は、7月23日、FBIの犯罪調査を遅らせるようCIAに依頼する件について議論を行ったが、その様子はテープ録音されていた(後に特別検察官に提出を求められることとなる)。 議論の後、ニクソンは「国家安全保障」が危険にさらされるだろうと主張し、CIA(バーノン・A・ウォーターズ副長官、陸軍中将。ニクソン副大統領とは大佐時代の南米旅行以来の交際。軍人だから命令に100%従うと思われた。)にFBIの調査を妨害するよう指示した。妨害しようとしたことは、ウォーターゲートの盗聴工作の資金である、メキシコ人ビジネスマンを隠れ蓑にしたケネス・H・ダールバーグからの秘密献金である。「メキシコ人はCIAの協力者であるから、メキシコでの捜査はCIA工作の暴露につながる」というのが表向きの理由であった。
事実、犯罪および多数の他の政治的不正工作は、ジョージ・ゴードン・リディおよびエドワード・ハワード・ハントを中心としたニクソン大統領再選委員会職員によって試みられた。彼らは以前ニクソン政権において「鉛管工(plumber unit)」という愛称の特別調査ユニットで働いていた。ユニットは情報漏洩を調査し、民主党員および反戦運動活動家に様々な工作を行った。最も有名なのはペンタゴン・ペーパーズを漏洩したダニエル・エルズバーグが通院していた精神科医、ルイス・J・フィールディングのオフィス侵入工作である。その工作では、ハントとリディは何も見つけられなかった。はるか後に侵入はニクソン大統領とその側近に関係づけられ、エルズバーグ訴追は「政府の不正行為」のため却下された。
ジョン・N・ミッチェル司法長官、ハルデマン首席補佐官、チャールズ・W・コルソン特別補佐官およびジョン・アーリックマン内政担当補佐官、およびニクソン自身のようなホワイトハウスをリードする人物がこれらの出来事を計画する際にどれほど多く関与したかはいまだ論争の主題である。ミッチェル大統領再選委員会責任者は、ジェブ・スチュアート・マグルーダー選挙運動本部長およびフレデリック・C・ラルーと共に、ハントとリディの侵入を含むスパイ活動計画を承認したが、それが彼らの上からの指示であるかどうかは不明瞭である。マグルーダーは、例えば、多くの異なる報告書を提供した。ニクソンがミッチェルにローレンス・R・オブライエン民主党全国委員長の活動情報収集のための侵入指揮を命令したことを立ち聞きしたのを含む。
[編集] 上院ウォーターゲート特別委員会
1973年1月8日に、リディとハントを加えた侵入犯は裁判にかけられることとなり、マッコードとリディ以外の全員が有罪を認めた。裁判では被告全員に対し、犯罪の共同謀議、家宅侵入および盗聴について有罪の判決が下されることになるが、被告が証言をせず有罪を認めるように賄賂が支払われたという事実もまた明るみに出てしまう。これに対してジョン・J・シリカ連邦裁判所判事(「マキシマム・ジョン」として知られる)は大いに怒り、被告に対して30年の刑を言い渡すと同時に、グループが事件の調査に協力的であるなら判決を再考するとも述べた。この判事の発言に応じてマッコードが自らの大統領再選委員会との関係と偽証を認めたため、この侵入犯に対する裁判は家宅侵入の裁判および有罪宣告で終わり、代わりに事件の調査がさらに進展することとなる。サム・J・アーヴィンJr.上院議員は上院ウォーターゲート特別委員会を設立し、ホワイトハウスの職員を召喚し始めた。
[編集] 審問開始
4月30日にニクソンは、彼の最も有力な補佐官ハルデマンおよびアーリックマンの辞職を強いられた。さらに次にニクソン自身にとって不利な重要な証人になるホワイトハウスの法律顧問ジョン・ディーンを解雇した。同じ日に、新司法長官エリオット・L・リチャードソンを任命し、彼に特別検察官を指名する権限を与えた。5月18日に、リチャードソンは、アーチボルド・コックスを指名した。テレビ放送された審問は、前日アメリカ上院で始まった。
[編集] 録音テープ
上院ウォーターゲート特別委員会の公聴会は、夏のうちのほとんどを通じて放送され、それはニクソンへの致命的な政治的打撃となった(日本でもアメリカ軍放送のFENが中継した)。特別委員会はさらに7月13日に重大な事実を発見した。アレグサンダー・P・バターフィールド大統領副補佐官は委員会スタッフ・メンバーとのインタビューの間に、ホワイトハウスの録音システムが大統領執務室中のすべての会話を自動的に記録し、ニクソンまたはディーンが重要会合についての真実を伝えているかどうか証明することができる録音テープの存在を明らかにした。コックスおよび上院の両方によってすぐに提出命令が出された。
[編集] 土曜日の夜の虐殺
ニクソンは大統領特権でこれを拒絶し、彼への召喚状を無効にするようエリオット・リチャードソン司法長官経由でコックスに命じた。コックスの拒否によって1973年10月20日の"土曜日の夜の虐殺"と呼ばれる事件に発展する。
この命令を受け入れることを拒否したリチャードソンは辞任、ニクソンは次にコックスを解任するための代理人を司法省で探したが、ウィリアム・D・ラッケルズハウス司法次官も辞任。結局、特別検察官を解任したのは、ロバート・H・ボークという新任の司法長官代理であった。1973年11月17日、フロリダ州オーランドでニクソンは400人の記者の前で自らの行為に対する弁明を行う。「私はペテン師ではない(I am not a crook.)」という有名なセリフは、この時の弁明で生まれたものである。
[編集] 秘密テープ提出
ニクソンがテープの公開を拒絶し続けた一方、彼はホワイトハウスが編集した記録(高齢のため耳が不自由な政治的友人ジョン・C・ステニス上院軍事委員長が内容を保証した)を提出することに合意し、公表された。この中に多数の卑猥語の削除箇所があった。このことはニクソンに対する保守的国民の支持を大きく弱めた。
テープの大部分はディーンの報告を確認したが、1本のテープに18分30秒の消去された部分があると分かった時一層の当惑を引き起こした。ホワイトハウスはこれをニクソンの秘書、ローズ・メアリー・ウッズの責任にした。彼女は電話に答える間に間違って録音機につけたペダルを踏んで、偶然にテープを消去したと言った。しかしながら、報道で派手にとりあげられた写真が示したように、彼女が電話に答えながらペダルを踏むことは、体操選手並の手足の伸張が必要だった。後の鑑定で、この消去は数回にわたり、念入りに行われたことであるのが分かった。また後には、このホワイトハウスによる編集が、違法行為として訴追対象になるほど大幅であることも判明した。
テープ提出の問題は最高裁判所まで争われるが、1974年7月24日、テープに対するニクソンの大統領特権の申し立ては無効とし、さらに特別検察官レオン・ジャウォロスキーにテープを引き渡すように命じるという判決が満場一致で決定する。この命令に従い、ニクソンは7月30日に問題のテープを引き渡すこととなる。
[編集] 弾劾条項
1974年3月1日、大統領の7人の元側近(ハルデマン、アーリックマン、ミッチェル、コルソン、ゴードン・C・ストローン、ロバート・C・マーディアンおよびケネス・W・パーキンソン)がウォーターゲート事件の捜査妨害をたくらんだことで起訴された。大陪審はさらに秘密にニクソンを起訴されていない共謀者(犯罪の共謀は一つの刑事罪名である)として指名した。ディーン、マグルーダーおよび他の人物は既に有罪を認めていた。
ニクソンの地位はますます不安定になっていく中、下院は大統領の可能な弾劾の形式上の調査を始める。下院司法委員会では1974年7月27日に27票対11票で大統領に対する第1の弾劾(司法妨害)を勧告することが可決され、さらにその後7月29日には第2の弾劾(権力の乱用)が、また7月30日には第3の弾劾(議会に対する侮辱)までもが可決されてしまう。
侵入のわずか数日後に記録されたテープは1972年6月23日に公開された。その中でニクソンとハルデマンは国家安全保障に対する問題を捏造することにより調査を阻む計画を作った。テープは「決定的証拠(smoking gun)」と呼ばれた。ニクソンへの上院での支援は下院同様弱かった。
[編集] 大統領辞職
有罪の判決を受けるに足る十分な票の存在を、重要な共和党上院議員によって伝えられ、ニクソンは自らの意思で辞職することを決定した。1974年8月8日夜の国民全体へのテレビ演説で、ニクソンは8月9日正午に辞職することを発表した(なお、時にニクソンは弾劾を受けた唯一の大統領として紹介されることがあるが、現実には弾劾の決議が出る前に辞職してしまったために、ニクソンは現実に弾劾されていないし有罪と判決されてもいない)。
ニクソンの辞任後は副大統領のジェラルド・R・フォードが大統領に昇格し、9月8日、「ニクソン大統領が行った可能性のある犯罪について、無条件の大統領特別恩赦を、裁判に先行して行う」という声明を発表した。これによりニクソンは以後一切の捜査や裁判を免れたが、恩赦を受けることは有罪を認めることを意味していた。
コルソンはその後エルズバーグ事件に関する告発について有罪を認めて、隠蔽への告発が取り下げられた。ストローンに対する告発は取り下げられた。3月に起訴された7人のうちの残りの5人は、1974年10月に公判が行われた。1975年1月1日に、パーキンソン以外のすべては有罪になった。1976年には上訴裁判所がマーディアンのために新しい裁判を命じた。また、彼に対する告発はすべて取り下げられた。ハルデマン、アーリックマンおよびミッチェルは1977年に弁明を終えた。アーリックマンは1976年に、他の2人は1977年に刑務所に入った。
[編集] 余波
しかしながら、ウォーターゲート事件の影響はニクソンの辞職と補佐官のうちの数人の刑務所への収容だけで終わらなかった。間接的に、ウォーターゲート事件は選挙運動での資金調達の広範囲な変化に結びつく新しい法律の原因となった。またそれは、重要な政府高官の新しい資産公開要求の法律と同様に情報の自由法可決の主な要因となった。それは法律上要求されなかった一方、最近の所得税形式の公開のような他のタイプの個人情報開示は期待されるようになった。
ニクソンは1972年の選挙において優勢だったが、対立候補ジョージ・マクガバンと討論することを拒絶した。以来、討論を回避することができた主な大統領候補はいない。フランクリン・ルーズベルト以来の大統領は会話の多くを記録した。しかし、ウォーターゲート事件以降、このような記録は事実上存在しなくなった。
ウォーターゲート事件は、マスメディアが政治家の活動について報告することに精力的になる新時代に結びついた。例えば、有力な下院歳入委員長ウィルバー・ミルズが、ニクソンの辞職数か月後に飲酒運転で事故を起こした時、以前はそれに似たようなことに対しては言及しなかったが、事件は報道されミルズはすぐに辞職しなければならなかった。加えて、リポーターが重要な政治家の個人行為を明らかにすることに、より精力的になることは、皮肉にもさらに政治的な問題について報告することになった。ウッドワードおよびバーンスタインを目指すリポーターの新しい世代は、調査報道と、政治家及び、それらの活動に関して公表されている増加した金融情報についての新しいスキャンダルの覆いを取ることを含んだ。
[編集] クーデター
ディープ・スロートの正体がFBI副長官のマーク・フェルトであったため、正体が明らかになった2005年以降は、警察がマスメディアを利用し大統領を辞任に追い込んだクーデターとする見方もされる。
[編集] 盗聴理由
ニクソンが何の目的で盗聴を企図したかは未だに明らかになっていない。当時のニクソンは米中国交正常化等、一定の成果をあげる一方、目立った失政が無かった為、再選確実と言われており、危ない橋を渡る必要が無かったと考えられる為、余程重大な問題にニクソンが直面していたことになる。
上記の疑問に対し、いくつかの解答を挙げると以下のものがある[要出典]。
- 1 ジョンソン大統領は共和党と民主党の全国大会を盗聴していたといわれ、そのひそみにならった。
- 2 ニクソンはハワード・ヒューズからの秘密献金で、再起不能に近い痛手を負った。献金はニクソン本人に対してではなく、家族の一人に対してだったが、危険性を警告されても、"My family comes first."と言って、受け取った。受け取ったことはごまかされていたが、ニクソンの心の中では「暴露されて、自分はおしまいになるかも」という恐怖心が残っていたと思われる。オブライエンはヒューズとの結びつきがあり、秘密献金の事実を知っていたとされる。
- 3 米国社会の中で盗聴は日常行為であり、特に自制は働かなかったと考えられる。
- 4 大統領特権をニクソンは過大評価しており、暴露されても平気ではなかったかと推測される。(FDR以来、大統領の地位が国王に近くなってきた歴史の中で、ニクソンは生きてきた)
- 5 アイゼンハワー政権の副大統領として、大統領の不正行為を見聞していたと思われる。
- 6 彼はFBIの盗聴工作の成果を生かして政治的階段をのぼってきたのであり、権力側の盗聴行為の危険性に無頓着であったと思われる。
- 7 再選確実な大統領に対して「ちっぽけな盗聴行為」で戦いを挑むのは無謀であると考えられており、万が一暴露されても平気だと考えていた。
- 8 命令は直接ニクソンから出たらしいが、コルソン大統領特別顧問という忠臣を通しており、さらにミッチェル再選委員会責任者が間に入っている。(ディーンはコルソンが黒幕にいることを初めは知らなかったようである)。暴露されてもコルソンが罪を被れば良いと思っていた。実行者にとっての命令者はマグルーダー再選委員会副委員長であり、そこで捜査は止まると考えた。いきなりハントのホワイトハウスの電話番号が出てきて、パニックに陥ったと考えられる。
- 9 ホワイトハウスと再選委員会は30歳代の盲目的忠誠心の若手が支配しており、40歳代の最高幹部はニクソンに全面依存しており、智恵と自制心が働く余地がなかった。ニクソン自身も弱気が常に内面にあることを押し隠して強気で政治的上昇してきたため、弱気の発言はできなかった。(米国のマッチョ的文化の産物がニクソンである)
[編集] 関連項目
- ジャック・アンダーソン
- 録音テープ
- 米国政府用語一覧
- ベトナム戦争
- 沖縄密約事件 (西山事件) - 日本への沖縄返還にまつわり、ニクソン大統領も関わった密約事件。内部告発の後、取材した西山太吉記者個人のスキャンダルとして処理され、日米で正反対の結果になった。
[編集] 同事件を描いた作品
- 大統領の陰謀 All The President's Men (1976) 映画化
- キルスティン・ダンストの大統領に気をつけろ!(1999) 映画