エリオット・リチャードソン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エリオット・リー・リチャードソン(Elliot Lee Richardson, 1920年7月20日 - 1999年12月31日)は、リチャード・ニクソン大統領の内閣のメンバーだった、アメリカの弁護士および政治家。彼はウォーターゲート事件への関与を回避し、ニクソン政権下で1970年から1973年まで保健教育福祉長官、1973年1月から5月まで国防長官、1973年5月24日から10月まで司法長官を務め、その後フォード政権下で商務長官を務めた。アメリカ史上4つの閣僚ポストを歴任した唯一の人物である。
[編集] 生涯
リチャードソンはマサチューセッツ州ボストン市で生まれた。彼はハーバード大学在学中「ハーバード・ロー・レビュー」編集長を務める。卒業後1941年から1945年まで第2次世界大戦を米陸軍で勤務、1947年にハーバード法律大学院から法学位を得、連邦最高裁のラーニド・ハンド、フェリックス・フランクフルター両判事の法律書記を務めた。その後ボストンの連邦検事、マサチューセッツ州検事総長、マサチューセッツ州副知事、国務次官、前述の四つの閣僚ポスト、駐英大使、海洋法会議米国代表を歴任。
1973年10月にニクソンは、ウォーターゲート事件特別検察官アーチボルド・コックスを解任するようにリチャードソン司法長官に命じたが、リチャードソンはこの命令を拒絶し辞職した。その後ウィリアム・D・ラッケルズハウス司法長官代理が命令を行なうように依頼されたが、彼も同様に拒絶し辞職した。命令は三人目のロバート・ボークが実行した。この一件は土曜日の夜の虐殺と呼ばれる。
ちょうど副大統領スピロー・アグニューの辞職に先立って、リチャードソンは、1973年10月8日付けのタイム誌の表紙上にアグニューおよびニクソンと風刺漫画として描写された。アグニューの引用された発言:「私は私に対する非難に無罪です。もし起訴されれば、私は辞職しないでしょう!」"I am innocent of the charges against me. I will not resign if indicted!"
[編集] 参考文献
官職 | ||
---|---|---|
先代: フランシス・ベロッティ |
マサチューセッツ州副知事 1965年 - 1967年 |
次代: フランシス・サージェント |
先代: エドワード・ブルック |
マサチューセッツ州検事総長 1967年 - 1969年 |
次代: ロバート・クイン |
先代: ニコラス・カッツェンバック |
アメリカ合衆国国務次官 1969年1月23日 - 1970年6月23日 |
次代: ジョン・アーウィン |
先代: ロバート・H・フィンク |
アメリカ合衆国保健教育福祉長官 1970年 - 1973年 |
次代: キャスパー・ワインバーガー |
先代: メルビン・ライアード |
アメリカ合衆国国防長官 1973年1月30日 - 1973年5月24日 |
次代: ジェームズ・R・シュレシンジャー |
先代: リチャード・クラインディースト |
アメリカ合衆国司法長官 1973年5月25日 - 1973年10月20日 |
次代: ウィリアム・サクスビー |
先代: ロジャーズ・モートン |
アメリカ合衆国商務長官 1976年2月2日 - 1977年1月20日 |
次代: ジュアニッタ・M・クレップス |
外交職 | ||
先代: ウォルター・アネンバーグ |
イギリス駐箚アメリカ合衆国特命全権大使 1975年3月21日 - 1976年1月16日 |
次代: アン・ルジャンドル・アームストロング |