アーマンド・ハマー
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アーマンド・ハマー(Armand Hammer, 1898年5月21日 - 1990年12月10日)はアメリカの大富豪で、美術品収集家。ドクター・ハマーの愛称で知られる。
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[編集] プロフィール
[編集] ドクター・ハマー
ロシア系ユダヤ人の熱烈な共産主義者で、アメリカ共産党の元となった社会主義労働党の創設者であるジュリアス・ハマーの子としてニューヨーク州マンハッタンに生まれた。「アーマンド・ハマー」の名前は、共産主義のシンボルの鎌とトンカチ(アームとハンマー:アーム・アンド・ハンマー)をもじって命名された。1924年にコロンビア大学の医学部を卒業し、医師の資格を持つ事から、以降「ドクター・ハマー」と呼ばれるようになる。
[編集] 赤い資本家
大学卒業後に、父親のつてで当時ロシア革命により成立したばかりのソビエト連邦との貿易ビジネスを開始し、フォード車のソ連への輸出や穀物類のアメリカへの輸出、鉛筆の生産などのビジネスの傍ら、ソ連の指導者であるウラジミール・レーニンの信頼を得て、アメリカやカナダとソ連との貿易を一手に担う事になった。1924年にレーニンが死んだ後も、第二次世界大戦を経て冷戦時を通じ、アメリカとソ連の間の貿易の中心的な存在となり、共産主義のシンボル的な存在であるレーニンの信頼を得たことからソ連の周辺衛星国や中華人民共和国などの、ソ連の影響下にあるいわゆる東側諸国の指導者の信頼も受け、これらの国との貿易ビジネスも積極的に行い、多大な収益を上げた。
また、共和党の熱心な支持者としても知られ、リチャード・ニクソンからロナルド・レーガンまでアメリカの指導者と個人的な友好を結び、デタントの陰の立役者になった他、民主党のジミー・カーターやアル・ゴアとも親密な関係があった。不正な献金に有罪判決が出た際も、当時大統領であったジョージ・H・W・ブッシュから恩赦が与えられるなど、その影響力をビジネスだけでなく政治や外交にもふんだんに発揮した。
[編集] 石油事業
また、ソ連との貿易で得た莫大な資産を元に、「石油メジャー」と呼ばれる7大石油会社に次ぐ規模の独立系石油会社・「オクシデンタル・ペトロリウム」(略称「オクシー」、「OXY」)の経営権を握り、イランのモハンマド・レザー・パフラヴィー国王やリビアのイドリース1世国王との深い関係を元にして石油開発、取引を行ったほか、北海油田の開発などで莫大な資産を得た。
しかしその後、1969年9月にリビアのムアンマル・アル=カッザーフィー大佐が起こしたイスラム革命により、リビアにあった同社の資産はすべて接収・国有化され大打撃を受けた。その後リビアとアメリカは断交。アメリカは経済制裁を発動し渡航禁止措置を行ったが、2004年にアメリカ政府による渡航禁止措置が解除され、2005年1月に行われたリビアの石油・ガス権益入札でオクシデンタルとサウジアラビア系企業の連合がその多くを制し、リビアの石油・ガス権益への本格的な復帰を行う。
[編集] 大往生
90歳を超えても自家用ジェット機で世界中を飛び回る多忙な日々を送っていたが、1990年12月10日に冷戦の終焉を見届けるかのように92歳で大往生した。
[編集] コレクター
美術品収集家としても世界的に知られており、ソ連との貿易をしていたころより本格的に収集を始め、主にロマノフ王朝時代のロシアをはじめとするヨーロッパの絵画や彫刻などを収集する傍ら、1930年代にはニューヨーク州マンハッタンに画廊をオープンするなど、趣味と実益を兼ねたビジネスを行っていた。また、後にオクシデンタル・ペトロリウムの本社があるカリフォルニア州ロサンゼルスにアーマンド・ハマー美術館を設立している。