里の秋
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『里の秋』(さとのあき)は、日本の童謡。作詞は斎藤信夫、作曲は海沼實。童謡歌手の川田正子が歌い、昭和23年、日本コロムビア株式会社(現、コロムビアミュージックエンタテインメント)よりSPレコードが発売された。
小学校の音楽教科書に長年採用され、平成19年「日本の歌百選」に選ばれた。
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[編集] 概要
昭和20年12月24日、ラジオ番組「外地引揚同胞激励の午后」の中で、引揚援護局のあいさつの後、川田正子の新曲として全国に向けて放送された。
放送直後から多くの反響があり、翌年に始まったラジオ番組「復員だより」の曲として使われた。
1番ではふるさとの秋を母親と過ごす様子、2番では夜空の下で遠くにいる父親を思う様子、3番では父親の無事の帰りを願う母子の思いを表現している。
- - 「復員だより」は昭和21年1月 - 6月に社団法人日本放送協会東京放送局 (JOAK) が放送したラジオ番組。月 - 金曜の午前と午後に放送され、多くの人がこの放送に耳を傾けていたとされる。後番組の「尋ね人の時間」と合わせて、9万9000件以上を紹介し、そのうち約1/4が再会までたどり着いた。
[編集] 「里の秋」と『星月夜』
『星月夜』(ほしづきよ)は、斎藤信夫がまだ国民学校の教師をしていた昭和16年12月に作られた、1番から4番までの歌詞で、後に童謡の雑誌に掲載された。
太平洋戦争の始まりを報せる臨時ニュースに高揚感を覚え、その思いを書き上げたと言われている。
1,2番は「里の秋」と同じ歌詞だが、続く後半の3,4番は「父さんの活躍を祈ってます。将来ボクも国を護ります」という様な内容で締めくくられている。
早速、童謡にしてもらうため海沼に送ったものの、曲が付けられる事はなかった。
やがて終戦を迎え、海沼は放送局から番組に使う曲を依頼され、要望に合った歌詞を探して見つけたのが「星月夜」だった。
そのままの歌詞では使えないと判断した海沼は、斎藤に東京まで出てくるように電報を打つ。
戦争で戦う様に教えていた事に責任を感じた斎藤は、終戦後、教師を辞めていた。
電報を受けた斎藤はすぐに海沼に会いに行き、「星月夜」の歌詞を書き変える作業を始めたがなかなか進まず、曲名が「里の秋」に変えられたのも放送当日だった。
[編集] ヒットの背景
終戦当時、日本の国民のうち、外地と呼ばれる地域にいた民間人と軍人は約660万人と言われている。
戦後の混乱もあって、外地の日本人との連絡は難しく、特に満州、樺太、千島列島にいた兵士や民間人は行方が分からなかった。
彼らがシベリアに抑留されていると外務省が知ったのは、翌昭和21年のAP通信であった。
引揚者らは日本への航路がある港に殺到したため、引揚げ船・復員船は常に超満員だった。
運良く乗船できても、暗く狭い船倉は衛生状態も悪く、快適ではなかったらしい。
本土に上陸しても、列車内は買い出し等で大きな荷物を持った人でごった返し、列車のわきにぶら下がったり、屋根に座ったりする人が多かった。
列車とすれ違う時や、SLの煙が充満したトンネル内では大変な思いをしたそうだ。 終戦直後には、潜水艦に船が撃沈される等、まさに命がけの引揚げであった。
また、引揚者を受け入れる内地は、戦火で焼けた都市部の住宅不足に加え、急激なインフレーション、物資不足、深刻な食糧難にみまわれていた。
- 住宅不足
- 3月10日の東京大空襲から始まる全国各都市を狙った空襲で、全国の家屋の15%が失われたと言われる。その他にも建物疎開で減っていたり、引揚者の住む住居が不足したりしていた。人々はバラックを建てたり、親戚の家に間借りして文字通り肩身の狭い思いをしていた。
- インフレ
- 昭和22年7月時点で、一般物価は戦前(昭和9 - 11年の平均)の65倍、米価は32倍と政府が発表。また、昭和21年8月の厚生省の調査結果では標準家庭1ヵ月の収入504円40銭に対し、支出が844円80銭であった。
- 物資不足
- 空襲による破壊の他、外地からの供給停止、物流がうまく機能できなかった事も影響した。前年には東南海地震、三河地震という二つの大地震も発生していた。
- 食糧難
- 昭和20年は農村の人手不足に加え、とても寒い冬で、米の収穫量が前年の68.8%と大凶作であった(収穫期には枕崎台風や大雨が被害を大きくしている)。
この時代は一日一日を生きる事に必死であり、父親が無事に帰る事が希望だった家庭も少なくなかった。
反響が大きかった事をふまえると、上記のような世相の中、「里の秋」は年の瀬の人々の心を慰めたと考えられる。
[編集] 関連項目
- リンゴの唄
- 当時の大ヒット曲。
- みかんの花咲く丘
- 斎藤の作詞ではないが、作曲:海沼、歌:川田の組み合わせによる昭和21年のヒット作。海沼が「1回放送するためだけの歌」と作詞者に持ちかけ、放送日当日に完成するという構図が似ている。
- 千葉県山武市
- 斎藤が教師をしていた城東町の城跡公園に歌碑が建てられている(1982年)。歌とは関係ないが、終戦直前アメリカ軍の関東上陸に備え、近衛第3師団が置かれた。この城跡公園からはコロネット作戦の上陸地点の一つ、九十九里浜が見える。
- みんなの童謡
[編集] 参考文献
- 鴨下信一著 『誰も「戦後」を覚えていない』文藝春秋発行 平成17年10月20日第1刷 ( ISBN 4-16-660468-6 )
[編集] 外部リンク
- ごんべ〇〇七の雑学 (歌詞と伴奏が確認できる)
- 童謡の研究 (里の秋の制作秘話)
- Home Page 銀の櫂 (斎藤信夫と成東町の様子について)
- 戦時下に喪われた日本の商船 (星月夜の制作秘話)
- 宮地楽器ピアノ技術課WEBSITE (ラジオ番組について)
- 社会実情データ図録 (引揚者の人数について)