米価
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米価(べいか)とは米の値段。近代以前の日本においては物価の基準であり、近代以後も日本国民の主食の値段である米価は「物価の王様」と称されて、歴代政府の経済政策に重要な影響を与えた。
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[編集] 古代・中世
日本において「米価」という概念が登場したのは、和同開珎以下の皇朝十二銭の出現以後である。ただし、平安時代以前の段階においてはいまだに物々交換が主流であったから影響力は少なく、また不作や貨幣の質の低下に伴う米価の高騰と公定価格制定や官米放出による低下の繰り返しであった。
鎌倉時代以後の宋銭流通によって、「一石=一貫文」の米価が慣例として定着するようになるが、実際には統一的な貨幣制度も度量衡器も存在せず、地域的条件の違いも重なって正確な米価比較は困難である。ただし、意外なことに社会情勢が不安定であった室町時代から戦国時代にかけては全国的に米価は低廉で一石=500-600文で推移していたことが様々な古文書から判明している。
[編集] 江戸時代
近世初期は統一的な貨幣制度が未だ未成立であったことから、石高制が採用された。その結果、年貢は米によって徴収され、また支配階層である武士の俸禄は地方知行・蔵米知行など米を基準とした体系を取った。このため、米価は江戸幕府や諸藩の財政に直結したばかりでなく、支配階層である武士の生活基盤そのものを左右した。また、直接生産者である農民の収入は勿論のこと、職人や商人のも米を主食としている以上は米価の影響を受けると考えられ、米以外の物資の価格(「諸色」)の価格はその時々の米価に連動すると考えられていた。
[編集] 戦前
[編集] 戦後
太平洋戦争末期から闇市おける米の流通が深刻な問題となり、それが当時の実勢米価となっていた。これに対して政府は米の強制的供出の強化を推し進めたが、その価格の安さが農家の不満を高めた。そこで政府は米価審議会を設置して適正な米価算定に務め、生産費の上昇に対応して生産者米価をスライドさせる「パリティ方式」を導入した。その後、1955年の米の大豊作とインフレーションの収束、商工業の発展によって米価に割安感が生まれた。これに対して1960年からは生産費に加えて都市との所得格差を抑えるために所得補償分を加えた生産者米価が設定されるようになる。これによって高度経済成長期には生産条件に大きな変化がないにも関わらず、都市勤労者の賃金上昇に比例して生産者米価の引き上げが行われた。だが、消費者である都市勤労者の米価上昇に対する不満と生産者米価が消費者米価を上回る「逆ざや現象」の発生(1963年-1987年)や1967年頃からの米余りと減反政策の開始によって生産者米価はオイルショック前後のインフレ期を除いて抑制気味に動くようになった。だが、これに対して農協などの生産者団体や与党の政治介入が行われて、政治的理由に基づく生産者米価が決定されるようになった(政治米価)。だが、1969年の自主流通米制度の開始、1972年の米の小売価格の自由化、1993年の平成の米騒動及びミニマムアクセスを前提として米の輸入自由化受け入れ、翌1994年の食糧法導入によって米価決定に市場経済の論理が大きく関わるようになった。