蔡焜燦
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蔡焜燦(さい・こんさん、ツァイ・クンツァン、1927年 - )は、台湾人の実業家である。2007年現在、半導体デザイン会社「偉詮電子股分有限公司」会長。知日派(当人は「親日家」を超える「愛日家」と自称)で、老台北(ラオ・タイペイ)の愛称で親しまれている。
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[編集] 経歴
[編集] 父の選択と、出生
1927年(昭和2年)、日本統治時代の台湾中部、台中州大甲郡清水(きよみず)街に生まれる。
台湾は1895年(明治28年)、日清戦争で日本が勝利したことで清国から日本へ割譲されている。この際、日本側は台湾の住民に2年間の国籍選択猶予を与え、清国を選ぶ者は自由に大陸に引き揚げることが認められていた。当時16歳だった蔡焜燦の父はこの時、清国籍を選択し祖先の地であった福建省に渡った。しかし当時の中国の腐敗した社会からか、この地で暮らしていた叔父に台湾への帰還を勧められ、「日本人」として台湾へ舞い戻っている。こうして父子ともに日本人として生きていく道が決定した。
[編集] 公学校
蔡は、台湾人児童のための清水公学校[1]に入学した。台湾を統治する台湾総督府は教育の普及に注力していて、蔡の在籍した公学校には内地でもそれほど普及していなかった校内有線放送や、それによる視聴覚授業、16ミリフィルムによる映画の上映設備が置かれているなど、先進的な学校であった。
[編集] 日本への親近感、軍人という選択
蔡が8歳だった1935年(昭和10年)、台湾北部から中部に掛けて大地震が襲った。この時、昭和天皇から遣わされた入江相政侍従長が罹災地の倒壊した民家を回り、見舞い金を下賜した。罹災した蔡の実家にも見舞い金が下賜され、この出来事によって少年だった蔡に皇室と日本への親近感が芽生えたといわれる。
1941年(昭和16年)、大東亜戦争が開戦する。翌1942年(昭和17年)、戦線の拡大に伴って台湾人にも志願兵制度が適用されるようになった。志願者が殺到する中、蔡も少年兵募集に応募し1945年(昭和20年)1月、少年航空兵として陸軍航空学校に入校した。
[編集] 内地での生活、故郷への帰還
蔡は内地へ渡って奈良市高畑の岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊(現・奈良教育大学)に入校した。ここでは専門的な分野の飛行機整備などではなく、一般的な教科に多くの時間が割かれた。
しかし、同年8月15日、日本は敗戦。12月に連合軍の命令で台湾への帰還が命ぜられ、翌年の1946年(昭和21年)1月1日、駆逐艦夏月で台北に到着した。台湾を接収に来ていた中華民国の兵士の服装、態度がみすぼらしく不潔で、規律正しい日本軍とは似ても似つかぬ姿だったことに愕然としたという。
この後、台湾では中華民国軍兵士による略奪、暴行、殺人事件が頻発、また、国民党の官吏は大量の物資を接収し、上海の国際市場で競売にかけたため、台湾全土を強度のインフレが襲うことになる。
[編集] 中華民国統治時代
1947年(昭和21年)2月27日、台北の路上で闇タバコを販売していた年輩の女性が専売局の役人に暴行され、翌28日には怒った民衆が立ち上がって大規模な抗議行動を起こした(大陸では自由に販売できたタバコが台湾でのみ専売であった)。これに対し、中華民国の憲兵隊は突然機関銃掃射を加え、多くの台湾人を殺傷、平和的なデモは一気に暴動へと発展する。台湾各地で、国民党の役所や軍の施設が襲われ、3月2日には、蔡の地元にも暴動が飛び火した。この事件は、後に二・二八事件と呼ばれるようになる。
不利を悟った中華民国側は、台湾人側と一時妥協するような姿勢を示して時間をかせぐ一方、大陸へ援軍を要請、その到着を待って大規模な報復的殺戮を実施した。
1949年には、大陸の内戦で共産党に敗れた中華民国は首都を台北に移転、台湾全土に恐怖政治を敷き、さらに多くの台湾人知識層を虐殺した(白色テロ)。
以降主な商業上の利権も、大陸から来た中国国民党の関係者が独占するようになり、事業を始めた蔡も不当な妨害を受け、大きな不利益を蒙っている。
[編集] 再び日本の土を踏む
1968年(昭和43年)10月、船舶会社代理店の営業部長として、蔡は戦後初めて日本の土を踏んだ。この時、祖国に殉じた英霊への鎮魂をと靖国神社参拝を果たしている。
[編集] 老台北(ラオ・タイペイ)
蔡は、司馬遼太郎の著書『街道をゆく-台湾紀行』で老台北として案内役で登場している。以後、この愛称は広く知れ渡ることになった。
[編集] 備考
- 愛日派とまで自称するが、日本の神社について「あんな素っ気無いものでめでたい気分になるんでしょうか」と発言したことがある。
[編集] 著書・参考文献
- 『台湾人と日本精神-日本人よ胸を張りなさい-』(2000年、日本教文社)ISBN 453106349X
- 『これが殖民地の学校だろうか-母校「清水公学校」』(2006年、榕樹文化)