落合信子
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落合 信子(おちあい のぶこ、1944年9月18日 - )は、タレントでプロ野球・中日ドラゴンズ監督の落合博満の妻。飯田女子高等学校卒業。
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[編集] 来歴
- 落合より9歳も年上のいわゆる「姉さん女房」。長野県飯田市出身で、高校を卒業後、貴金属の販売員を経て、ホステスをしていた時にロッテオリオンズの落合と知り合う。今では夫であり、中日監督でもある博満からは「おっかぁ」と呼ばれている。
[編集] 主なエピソード
- 監督となった現在でも、マスコミに対して夫のことを『落合』と呼ぶ。
- 落合が入団して1軍に上げて貰えなかった時期、スナックの客であった落合に信子は「あんた一体何がしたいの?」と聞くと落合は「三冠王になりたい」と答えた。信子は「じゃ、あんた歯治しなさい」と数百万円を提供して歯の治療・矯正をさせた。
- 最初の三冠王を取った時の本塁打数が32本だった事から「所詮アベレージヒッターが幸運で三冠王取った」というような批評があった。落合は本塁打数を増やす為、「ライトのポールぎりぎりの所をラインドライブが掛かって右に切れてファールになる球を逆回転を掛ける」という天才のみが追求出来るような猛練習をしたが、シーズンでその打法が成功したのは1~2本だったと言う。悩む落合に信子が「パリーグでホームランいっぱい打ってるのは門田さんみたいなすごく太ってる人でしょ!? あんたも太りなさいよ」の一言で体重を増やし、1985年に本塁打52・打点146・打率0.367で2度目の3冠王を手にした。
- 落合の打席をテレビ中継で見る際は画面に定規をあて、打席での腕の構えや足の位置、スイングが波を打っていないかなど細かくチェックし、帰宅した落合に好調時とのズレを逐一報告していた。
- 落合がスランプに陥ったときに、ほとんど野球を知らないにもかかわらず「バッターはバットが届かないような、とんでもない球を打たなくてもいいんでしょ。ストライクを打てばいいんでしょ。ストライクはあの狭いホームベースの上を必ず通るんでしょ。じゃあそこを通ったボールだけを打てばいいんじゃない」とアドバイスをしたところ、気が楽になったのか次の日から落合はスランプを脱したという。
- ロッテオリオンズ在籍時から東京に現在の居を構えた都合、中日での現役時代(1987年~1993年)と、2004年からの監督就任時には単身赴任してもらっていたようだが、頻繁に名古屋へ訪れ(川崎球場→ナゴヤ球場→東京ドーム→東京ドーム)、2005年からは息子の勧めもあり、名古屋に住み込んで夫を陰から支えている。
- 息子の福嗣ともども、落合ファンの代表としてたびたび球場へ足を運ぶ。応援スタイルは一般のファン同様にレプリカユニフォーム(もちろん夫のもの)に身を包み、頭にはファングッズの「ドアラの耳」を付け、自軍ベンチの真上から観戦というのが多い。日本シリーズでも応援にかけつけ、パフォーマンスでスタンドを盛り上げようとした。この際、放送席からそれを見ていた金村義明が「福嗣と信子何とかしてほしい」と苦言を呈したところ、既にCMが終わっていて発言が全国に流れてしまった。その後、金村は落合監督に「奥さんと息子さんに失礼な発言をして申し訳ありませんでした」と謝罪した。
- 選手やその家族、スタッフへの気配りも上手く、2004年の祝勝会の席でもビールかけの会場に息子と一緒にいた。しかし、長男が、当時高校生だったことをすっかり忘れていたようで、そのままビールかけに参加させ、全身ビールでびしょ濡れになった。この件では長男が国士舘高校野球部の部員であった事に加え、このシーンが全国にテレビ中継されていたため、さすがに高野連も看過できず、後に親子共々厳重注意を受けた(厳密にはビールかけについてではなく学生野球憲章で野球部員のプロ選手との写真撮影やテレビ出演などを禁じていたため)。
[編集] テレビ出演等
時間を経るとともに、落合の夫人ということ以外にも特異なキャラクターを買われ、TV等にも1人でゲストとして出演することが増えていった。一番出演が増えたのが、一連のサッチー・ミッチー騒動時である。サッチー・ミッチー騒動が長引くにつれ、デヴィ夫人などと共に、当時の関連主要人物のひとりとしてTV番組にひっぱりだこであり、アクの強いキャラクターの中で、主に正論を発する役割を担った。
- 出演番組
- 新春特番なるほど!ザ・ワールドスペシャル(1987年、フジテレビ)
- 森田一義アワー 笑っていいとも!(1997年、フジテレビ)
- 侍スタジアム(テレビ愛知 ゲスト出演)
- テレビCM
- アオキーズ・ピザ(2006年)「ドラゴンズ応援キャンペーン」実施期間中に放送。息子である福嗣と共演した。
[編集] 著書
- 悪妻だから夫はのびる―男を奮い立たせる法 (1986年)
- 天下の悪妻「亭主しつけ法」 (1987年)
- 悪妻だからまだまだ夫はのびる―男への鞭の入れ方 (1991年)
- 一心同体―愛と人生、成功のセオリー (2004年)
[編集] その他
[編集] 巨人・落合誕生秘話
1993年シーズンオフより導入されたFA権を行使しようか悩んでいた落合に対し「あんたが先陣を切らないでどうすんのよ!」と半ば強引に行使させた。その結果、プロ入り前の相思相愛の関係であった長嶋巨人に移籍する。
また96年オフ、かつての三冠王・落合に球団は引き続き残留を要請、フリーエージェント宣言し加入する清原和博や松井秀喜の後見を託すと思われた。しかし落合は出場機会を選び日本ハムファイターズへ移籍、長引いた挙句に結局新たにFA移籍した選手(清原)が同じくFA移籍した選手(落合)を追い出したという最悪の形に終ってしまった。そのため落合を綺麗な形でどう退団させるか球団は苦慮し、渡邉恒雄オーナー自らが、落合と会見(一種のセレモニー)まで行っている。信子夫人はこの場に同席し、オーナーに花束を渡されている。この模様はテレビでも大々的に取り上げられた。このような席に、選手夫人が出席することは極めて異例と言っていいだろう。
[編集] 中日・落合博満監督誕生秘話
中日の球団から夫宛てに「中日の監督を務めて貰いたい」との電話が掛かってきた。落合は進学を控えていた長男のこともあり、断ろうとしていたものの返答できず、躊躇していたが、優柔不断になっていた落合に怒りを発し、「何でもやってみなさいよ」と檄を飛ばし、広告の裏にマジックペンでGOと書いて承諾するように指示、これを見た落合が「はい、分かりました」と答え決意するに至った。