紀元二千六百年記念行事
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紀元二千六百年記念行事(きげんにせんろっぴゃくねんきねんぎょうじ)とは、1940年(昭和15年)に神武天皇即位紀元2600年を祝った一連の行事を指す。
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[編集] 概要
1940年が「紀元2600年」にあたることから、日本政府は1935年(昭和10年)に「紀元二千六百年祝典準備委員会」を発足させ、橿原神宮や皇族関係陵墓の整備など記念行事の計画・推進を進めていた。「神国日本」の国体観念を徹底させようという動きが時節により強められていたため、これらの行事は押し並べて神道色の強いものであった。橿原神宮の整備には全国の修学旅行生を含め、121万人が勤労奉仕し、外地の神社である北京神社、南洋神社(パラオ)、建国神廟(満州国)などの海外神社もこの年に建立された。また、研究・教育機関では神宮皇學館が旧制専門学校から旧制大学に昇格した。
日本政府は長引く戦局と窮乏する生活による銃後の国民の疲弊感をさまざまな祭りや行事に参加させることで晴らそうとし、1940年(昭和15年)には年初の橿原神宮の初詣ラジオ中継に始まり、紀元節には全国11万もの神社において大祭が行われ、また展覧会、体育大会などさまざまな記念行事が全国各地で催された。
1940年11月10日、皇居の宮城前広場において内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催された。式典に合わせて「皇紀2600年奉祝曲」が作曲された。11月14日まで関連行事が繰り広げられ国民の祝賀ムードは最高潮に達した。
行事終了後一斉に貼られたポスターの「祝ひ終った。さあ働かう!」の標語の如く、これを境に再び引き締めに転じ、その後戦時下の国民生活はますます厳しさを増していくことになる。
[編集] 紀元二千六百年式典
内閣主催の「紀元二千六百年式典」が、11月10日に宮城外苑で挙行された。式典のために寝殿造の会場が設営された。式次第は下記の通り。
- 勅語
※漢字は常用漢字に改めた。
茲ニ紀元二千六百年ニ膺リ百僚衆庶相会シ之レカ慶祝ノ典ヲ挙ケ以テ肇国ノ精神ヲ昂揚セントスルハ朕深ク焉レヲ嘉尚ス
今ヤ世局ノ激変ハ実ニ国運隆替ノ由リテ以テ判カルル所ナリ
爾臣民其レ克ク嚮ニ降タシシ宣諭ノ趣旨ヲ体シ我カ惟神ノ大道ヲ中外ニ顕揚シ以テ人類ノ福祉ト万邦ノ協和トニ寄与スルアランコトヲ期セヨ
[編集] その他記念行事・事業
[編集] オリンピックと万博の同時開催計画
また、国威高揚の機会と、国力の対外的誇示の機会でもある国際的イベントもこの年にあわせて開催しようと日本政府により計画されていた。それは「オリンピック」や「万国博覧会」を日本に誘致し開催しようというもので、実際に大規模なイベントの開催が正式に決定していた。
だがこれらは、1937年(昭和12年)に始まった日中戦争の長期化にともない、結局どちらも開催されなかった。しかし、東京の勝鬨橋のように、この一大イベントに合わせて造られた建造物も幾つか存在する。
[編集] 神宮参拝の推奨
当時は資源不足の統制下において軍事輸送を最優先する観点から、「贅沢は敵だ」・「遊楽旅行廃止」・「行楽輸送で大事な輸送を妨げるな」といったスローガンが駅に張られるなど、観光旅行の自粛を政府は国民に呼びかけていたが、皇室に関係する神社の明治神宮・橿原神宮・伊勢神宮などへの参拝は例外とされ、寧ろ割引乗車券を販売するなど参拝を推奨していた。国民は長く旅行を遠慮していた事もあって、大手を振ってこれらの神社へ出かけ、1940年(昭和15年)の橿原神宮参拝者は約1000万人、伊勢神宮は約800万人を数えた。又、伊勢神宮・橿原神宮を沿線に持っていた大阪電気軌道・参宮急行電鉄・関西急行電鉄(大軌・参急・関急電、現在の近畿日本鉄道(近鉄)の前身)や大阪鉄道(大鉄、現在の近鉄南大阪線など)・奈良電気鉄道(奈良電、現在の近鉄京都線)といった私鉄会社は、この輸送に対処すべく臨時列車を多く設定し、国鉄も同様に旅客輸送に努めた。