第2回衆議院議員総選挙
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第2回衆議院議員総選挙(だい2かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1892年(明治25年)2月15日に行われた日本の帝国議会(衆議院)議員の選挙である。
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[編集] 概説
1890年11月29日に第1回帝国議会が召集された。藩閥による政府(第1次山縣内閣)と「民力休養」を掲げる民党が対立を続けたものの、双方とも相手の出方を窺ったこと、政府が内外に対する面目から議会開設早々の衆議院解散を望まず、かつ民党のうち自由党土佐派を一時切り崩したことから、政府はかろうじて閉会(1891年3月8日)まで持ちこたえた。
だが、次の第1次松方内閣で迎えた第2回議会(1891年11月26日開会)は、第1回議会のように衆議院解散を選択しえない状況ではなくなり、かつ民党も薩長出身の閣僚が過半数を切っていた松方内閣を弱体とみて政府批判を行った。12月20日の樺山資紀海軍大臣によるいわゆる「蛮勇演説」で一気に緊張感を増した衆議院に対して、松方内閣は25日に初めての衆議院解散に踏み切った。
この選挙では内務省(品川弥二郎内相・白根専一次官)による選挙干渉によって死者まで出したことで知られているが、実際には複雑な経過を辿っている。解散の2日後に松方正義首相と品川内相が相次いで府県知事に内諭を出して、暗に政府系の候補者に対して便宜と票の取り纏めを依頼したこと(ただし、戦前においては後の政党内閣期も含めてこうした要請はしばしば行われたと言われている)、直後に松方・品川・白根に加えて平山成信書記官長・小松原英太郎警保局長・大浦兼武警保局主事らによる選対本部が極秘に組織されて、政府系候補への選挙支援策が協議されたことは明らかにされている。だが、実力行使を含めた選挙干渉を指示した命令類が発見されていないこと、逆に複数の知事から政府に対して民党進出を阻止するために警察力の行使を求める意見が寄せられていることから、選挙干渉の発案が内務省側なのか、府県知事側の突き上げなのかについては明らかではない。ただし、選挙初期から各地で支持者同士の揉め事も起きており、そこに実力による介入の余地を見出した可能性はある。
各地で民党候補及び支持者と警察との衝突が発生し、自由党が強い高知県で政府公式発表で死者10名・負傷者66名という流血の惨事が発生した他、全国で25名の死者を出した。
- 高知県 死者10名 負傷者66名 知事:調所広丈(薩摩藩出身)
- 佐賀県 死者8名 負傷者92名 知事:樺山資雄(薩摩藩出身)
- 福岡県 死者3名 負傷者65名 知事:安場保和(肥後藩出身)
- 千葉県 死者2名 負傷者40名 知事:藤島正健(肥後藩出身)
- 熊本県 死者2名 負傷者39名 知事:松平正直(越前藩出身)
大規模な死傷者が出た府県の知事には薩摩藩あるいは隣国でつながりが深い肥後藩出身者が多く、薩摩出身の松方首相を支持し、地元県会では民党議員と激しく対立していた。こうした地元の事情が実力行使を伴う干渉を引き起こす一因となった。
だが、こうした実力行使を伴う選挙干渉に対して閣内にも反感を招いた。陸奥宗光農商務大臣は自由党幹部の星亨、高島鞆之助陸軍大臣は同じく同党幹部の新井章吾の後見人を自負して選挙干渉の資金をこれらの候補に渡して支援し、品川や白根らが抗議するとこれに反発した。内務省が1月5日に発行された自由党機関誌『党報』号外の内容を官吏侮辱罪に充てて総裁である板垣退助を発行責任者として逮捕しようとした際には尾崎三良法制局長官・田中不二麿司法大臣が反発して断念に追い込まれた(板垣は伯爵であるため、司法大臣が天皇に奏上して許可を得ない限りは処分できなかった)。そして、松方首相自身も極秘に側近の九鬼隆一帝室博物館館長を派遣して独自の選挙工作を行わせ、高知県に保安条例を発動して警察を政府の直接管理下に置いたのである。
選挙結果は民党であった自由党と立憲改進党が大幅に議席を減らして過半数こそ割ったものの、4割近くの議席を確保した。しかも、対する吏党は本来は「親政府」というよりは「反民党」集団であり(実際に「吏党」という言葉を用いていたのは民党及びその支持者であり、政府や当事者たちは「温和派」という表現を主として用いていた)、その考えも国粋主義者からリベラルまで、あるいは超然主義者から政党主義者まで幅が広かった。伊藤博文はこうした温和派(吏党)勢力を総結集した新党を結成しようとしたが、政党そのものに不信感を持つ明治天皇や山縣有朋、政治の主導権を伊藤に奪われることを恐れた松方首相が反対し、元勲会議においても「松方内閣支持、伊藤新党反対」の合意を取り付けて伊藤を新党結成断念に追い込んだ(3月11日枢密院議長辞表撤回)。藩閥最大の実力者・伊藤の政治的孤立を招いた事で松方は政権運営に自信を深めたが、干渉の責任者とされた品川内相と伊藤側近とされた陸奥農商相が辞表を提出した。表面上は前者は選挙干渉の責任を取る、後者は選挙干渉への抗議の辞任という事になっていたが、実際には両者とも民党が依然として相当数の議席を確保したことで松方内閣はむしろ「死に体」になったと考えて政権離脱を考えたものとされている。
その後、吏党議員は中央交渉会(中央交渉部)を結成するが、早くも路線対立が顕在化して後に内相を辞任した品川(干渉によって吏党が躍進した経緯上、品川は彼らの纏め役をする立場に立つ事になった)を盟主として国民協会を設立する勢力と中央交渉会にのみ留まる勢力、独立倶楽部(後に同盟倶楽部)を結成して最終的に民党側に離反した勢力(これによって民党は再び過半数を確保する)などに分裂した。これを見た民党は選挙後に開かれた議会で「選挙干渉ニ関スル上奏案」を提出(5月12日)するが、この時には依然吏党の統一が形式的には維持されていたために143対146で否決されるが、2日後に提出されたより穏健な「選挙干渉ニ関スル決議案」は154対111で通過してしまったのである。こうした事態を受けて品川の後任となった副島種臣は白根以下の内務省幹部や地方知事らの更迭を行って事態の打開を図ろうとするが、白根らによる「副島降ろし」が功を奏して6月8日には副島が辞任に追い込まれた。その後、松方首相が一時内相を兼務した後に河野敏鎌が後任内相となるが、河野は7月15日に松方首相に迫って白根更迭を強行し、20日には安場ら品川・白根を支持した知事も更迭した。これに対して薩摩藩出身の高島陸相・樺山海相は「薩摩閥の切捨て」と解釈して7月27日に明治天皇に辞表を提出、これによって閣僚統制の自信を失った松方は内閣総辞職を決断することになった。
[編集] 選挙データ
[編集] 内閣
- 第1次松方正義内閣(第4代)
[編集] 解散日
[編集] 解散名
[編集] 投票日
- 1892年(明治25年)2月15日
[編集] 改選数
- 300
[編集] 選挙制度
- 小選挙区制(一部2人区制)
- 記名投票
- 1人区(単記投票) ‐ 214
- 2人区(連記投票) ‐ 43
- 直接国税15円以上納税の満25歳以上の男性
- 有権者 434,594
[編集] その他
- 立候補者 900
[編集] 選挙結果
[編集] 投票率
- 91.59% (前回比-2.14%)
[編集] 党派別獲得議席
政党名 | 議席数 | 議席内訳 |
---|---|---|
吏党 | 124 | |
中央交渉部 | 81 | |
独立倶楽部 | 31 | |
近畿倶楽部 | 12 | |
民党 | 132 | |
自由党 | 94 | |
立憲改進党 | 38 | |
無所属 | 44 | |
合計 | 300 |
[編集] 参考文献
- 佐々木隆『藩閥政府と立憲政治』(吉川弘文館 1992年 ISBN 4642036326)
- 大津淳一郎『大日本憲政史』
- 川田瑞穂『片岡健吉先生伝』
- 笹川多門『松田正久稿』
- 衆参議院『議会制度百年史』
- 高知県『高知県史』
- 佐賀県『佐賀県史』