百済王氏
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百済王(くだらのこにきし)氏は百済最後の王である義慈王直系の善光を始祖とする日本の氏族。百済を氏・姓(本姓)とする。持統朝に王(こにきし)姓を賜ったとされる。
当初より主たる者に従五位下以上が与えられ、中下級官人にとどまる者が多い帰化人のうち別格の地位にあった。
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[編集] 概説
王という特殊な姓の示すとおり、かつての百済を象徴する存在であったと思われる。また延暦9年(790年)菅野朝臣の改姓上表で百済王仁貞らが後継者然と名を連ねていることより、百済系氏族の長的地位にあったことが知られる(『続日本紀』七月一七日条)。「こにきし」という読みの由来については百済#王を参照。
平安時代は、初期とくに桓武天皇の母(高野新笠)が百済系和氏であったため「百済王等者朕之外戚也。」(同二月二七日条)と厚遇を受けた。女子を桓武天皇・嵯峨天皇の後宮に入れ、天皇と私的なつながりを結んで繁栄を得た。本貫地河内国交野への天皇遊猟の記事は桓武朝以降、国史に多数見られる。
百済王氏の本拠地は当初難波にあったが、その後北河内交野郡中宮郷(現・大阪府枚方市中宮)に本拠を移し[1]、この地に百済王の祀廟と百済寺[2]を建立した。百済寺が中世に焼失したが、百済王神社は今も大阪府枚方市に残る。奈良時代末期には俊哲が陸奥鎮守将軍征夷副使などに任じ、武鏡は出羽守となるなど、敬福以来東北地方の経営と征夷事業に関わり、平安時代中期まで中級貴族として存続した。 なお、俊哲が坂上田村麻呂の副将軍として日高見国へ遠征したことから、百済王氏の一部かその縁者が北上盆地に定住し、岩手県南部各地に現在でも百済姓を名乗る者が散見される。全体としては近畿から福岡にかけての瀬戸内海沿岸に多い。
- ^ 河内国への移住は百済王敬福が陸奥で黄金を発見し河内守に任命されたことが契機になっていると言われるが史料上の根拠はなく、移住時期については異説もある。
- ^ 2006年の百済寺跡発掘調査により、これ以前から同所に何らかの建物が存在していたことが明らかとなった。出土遺物等から同所に建物が造営された時期は白鳳文化期と推定されている。(2006年4月11日読売新聞朝刊関西発「大阪・百済寺跡 百済王氏の邸宅か 大型建物跡が初の出土 壊した後に建立」http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is60411a.htm )
[編集] 交野
交野は『伊勢物語』『土左日記』、あるいは歌枕などにもみえる皇室の御狩場であるが、平安後期の事典類を再編集した『拾芥抄』によれば、代々百済王が検校していたことが知られる。こんにち、大阪府枚方市にある「百済王公園」などの印象から「韓国の領土」といいはる者も多いが、実際には皇室の施設である。
鷹狩は百済から伝わったともいわれ、鷹の餌は犬肉を用いたため、野良犬を屠殺しみずからの食用にもするものを餌取(えとり)といい、革細工をなりわいにした百済伎部(くだらのてびと・『律令』職員令)などと混同されて穢多といわれる被差別民の語源になった(『塵袋』。中世史では被差別民を総称して「非人」という)。このことは、特異な文化をもった帰化人が在来日本人との対立を避けるため、朝廷が提供する「日本人が嫌う仕事」を選ばざるをえなかったことを示し、評価とともに考えさせられることも多い。
[編集] 人物
[編集] 飛鳥時代の人物
- 扶余豊璋:善光の兄で、善光と共に倭国の人質となっていたが、鬼室福信ら百済遺臣に迎えられて帰国する。白村江の戦いの後に高句麗に逃れたが、唐に捕らえられて流罪となる。
- 百済王善光(601年 - 687年):持統天皇より百済王の氏姓を賜る。
- 百済王昌成(? - 674年)
[編集] 飛鳥時代から奈良時代初期の人物
[編集] 奈良時代の人物
[編集] 奈良時代末期から平安時代初期の人物
[編集] 平安時代前期の人物
[編集] 平安時代中期の人物
- 百済王勝義(779年 - 855年7月)
- 百済王貞連(くだらのこにきし ていれん/さだつら)
[編集] 系譜
(『続日本紀』による)
義慈王 ┣━━━━━━┓ 善光 扶余豊璋 ┃ 昌成 ┃ 朗虞 ┃ 敬福
- なお、百済王氏は詳しい系図が伝わっておらず、大半の人物の系譜関係は不明である。『続群書類従』系譜部に「百済王氏系図」が収録されていたことが知られるが、現在伝わっていない。また百済王氏の後裔を自称する三松氏の系譜『百済王三松氏系図』が存在するが、その史料価値には疑問を呈する意見[1]があり、『国史大辞典』等主要な辞典類でも採用していないものが多い。