百済王善光
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百済王 善光(くだらのこにきし ぜんこう、? - 持統天皇7年1月(693年)頃)は、飛鳥時代に日本に亡命した百済王族。百済王氏の実質的な祖。元の名は余善光といい、また善光王・禅広王とも表記する。百済最後の王であった義慈王の王子で、扶余豊璋の弟とされる。
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[編集] 白村江以前
舒明天皇の治世中に兄豊璋とともに父義慈王に派遣されて来日した。その後兄弟は人質兼賓客として長い間日本に滞在していたが、斉明天皇6年(660年)に義慈王が唐・新羅連合軍に敗れて降伏すると、豊璋は百済の遺臣である佐平鬼室福信に迎えられて百済王統を継ぎ、一方、善光はそのまま日本に留まった。やがて天智天皇2年(663年)8月の白村江の戦いで豊璋王軍と日本軍が唐軍に大敗を喫し、豊璋王が高句麗に逃亡するに及んで、善光は帰るべき祖国を完全に失うことになる。
[編集] 日本の貴族として
白村江の戦いの翌年の天智天皇3年(664年)3月、善光は居住地を難波とした。天武天皇4年(675年)正月には大学寮の学生や陰陽寮・外薬寮の官人及び諸蕃の人々とともに薬物・珍宝などを天武天皇に献上している。朱鳥元年(689年)9月の天武天皇崩御に際しては旧百済王族を代表して殯宮での誄(しのびごと)を言上すべき地位にあったが、老齢のため、孫の朗虞がこれを代行した(善光の子昌成は早世したらしい)。持統天皇5年(691年)正月、同族の遠宝・南典らとともに王族優遇の賜給を受けた。このとき善光は既に正広肆(従三位に相当)を授与されていたが、これは当時の冠位施行の水準から見てかなり高い冠位であり、このことから善光とその一族は百済の旧王族として優遇されていることがわかる。没年は正確には不詳だが、持統天皇6年末から同7年正月までの間に薨去したと推定される。持統天皇7年正月15日に、故善光に正広参(正三位に相当)が追贈された。持統天皇の治世中に善光に百済王氏が賜姓され、百済王氏の祖となったと伝えられる。
[編集] 参考文献
- 坂本太郎・平野邦雄監修『日本古代氏族人名辞典』吉川弘文館、1990年。
- 近藤敏喬編『古代豪族系図集覧』東京堂出版、1993年。